純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

写真拡大

新聞や雑誌はこの作品を酷評し、アカデミー賞からも完全に無視された。だが、映画館、そして、DVDと、この作品の人気はじわじわ昇り続けている。そのことがいま、ハリウッドを震撼させている。というのも、この作品はサーカスではなく映画を隠喩したものであり、この作品の本質が、アカデミー賞のスノッビズム(俗物主義)に対する強烈な反旗だからだ。

やたら感動したという人が多いが、話がわかっているのか。ネット評をざっと見るところでも、的外れなレヴューばかり。差別を元気で跳ね返した、というような、安っぽい「人権ポルノ」(感動という快感で観客を過剰に興奮させるために人工的に捏ち上げられた売り物)だから、世間の人気になり、プロに酷評された、のではない。

この作品、やたら演出が細かいが、いちいちセリフで説明しない。何回か見ている内に発見するような、それどころかストップモーションで見なければ絶対に見つからないような仕掛けが数多く張り巡らされている。(たとえば、バーナムがステージ上でいつも手にしっかりと握っているシルクハットは、貧窮の末に死んだ亡き父親の形見。)ふつうに映画館で見て、これらに気づく人は多くはあるまい。だが、人々は頭で理解しないまでも、心で、これがただ感動を誘う人権ポルノ以上のなにかを語っていることに感づくだろう。

ただ、この作品の難点は、ミュージカルであること。ミュージカルでは、それぞれが独立に自分の心情を主観的に歌う。だから、『レ・ミゼラブル』のように、複数の登場人物のポリフォニック(多声)な大河ドラマ型ストーリーに向いている。この作品も、主人公バーナムという人物の軌跡を見せる以上、ミュージカルにするなら、むしろはっきりと敵対しているスノッブの批評家、ベネット卿との絡みを主軸にすべきだった。ところが、歌うのは、バーナム側の人々だけ。それで、観客がバーナム本人の視点から離れて、周囲の誤解の方に振り回されてしまう。

もっとも顕著なのが、リントの最初の公演。フリークスの仲間たちも見に来たのに、バーナムは、彼らを自分のボックスではなく、暗い天井桟敷に追いやる。公演の後のパーティでも、彼らを入れない。ここでルッツ(髯女)の「This is Me(これが私)」となるのだが、これが強烈すぎて、観客の心情はバーナムを離れ、差別された、というルッツの方に同化してしまう。同様に、その後、バーナムが妻や子供たちを置いてリントと旅立つと、妻が「Tightrope(綱渡り)」で、夫バーナムの浮気を心配する気持ちを切々と歌い上げる。この二つの歌のせいで、観客は、結局、バーナムもまたフリークスを差別し、リントとの浮気に走った、という理解になってしまう。

本来であれば、ここでバーナム本人もまた、リントとの全米ツアーに臨む一曲歌って、観客の視点を自分に戻すべきだった。舞台版だったら、そうなるだろう。しかし、映画で後半のテンポを落とさないために、それは省かれた。作り手は、きちんと伏線は打ってある、観客はそれをたどれるだろうと考えたのだが、はたしてそうだったか。

あまり目立たないが、重要なターニングポイントは、娘がバレエの発表会の後、友人たちに侮られるエピソード。これほど成功したのに、娘が自分と同じ目に遭う。そのことがバーナムをさらなる高みへと希ませた。妻が、もう十分でしょ、となだめるのに、バーナムは、育ちの良いおまえにはわからない、と言い放つ。それで、脚本家カーライルを招聘し、ビクトリア女王に謁見し、オペラ歌手リントの興行を企画する。彼は、サーカスの次へ突っ走り始めている。

困ったことに、フリークスの仲間たちには「前科」がある。女王謁見について来た。バーナムからすれば、リントの全米ツアーにも彼らがついてくることを恐れた。それでは、次にならない。差別うんぬんではなく、バーナムにとって、サーカスはリントとは別の話。引き止めるカーライルを振り切るとき、先にバーナムがカーライルを口説いたときの『The Other Side(別の側)』の曲が流れるが、もはや歌の掛け合いにはならない。バーナムは、サーカスを振り切って、かつてカーライルがいたスノッブの側へ行こうとしているのだ。

じつは、リントもまた私生児であり、世界の愛に飢えていた。バーナムは彼女に、彼女はバーナムに、鏡のように自分と同じものを見つけ、二人でツアーを成功させた。だが、その乾杯のシャンパンで、彼女は顔を近づけ、目を見つめ、バーナムに言う「世界をあなたにあげたのは私よ(すべて私のおかげでしょ)」。バーナムは、リントに自分の姿を見た。それで、バーナムは、もう帰る、あとはきみ一人で、と言い出す。リントも気づく、バーナムにとって、フリークスもリントも差別無く、まったく等しく同じような出し物のひとつにすぎなかった、ということを。

このやりとりは、映画の最後の最後、エンディング、スタッフロール、そして、その後の奇妙なアクナレッジメント(謝辞)へと繋がる。「この映画の製作と配給は、一万五千以上の仕事に支えられ、数十万時間の作業を含んでいる。」ふつう、謝辞と言えば、具体的に誰かとくに世話になった人の名前を挙げるものだ。だが、この謝辞は、私が一人で世界を作った、それをあげたのは私だ、というリントの言葉と対になり、それを完全否定するものとなっている。

バーナムがなぜリントと袂を分かったのか。リントに捨て台詞を吐かれるまでもなく、自分もまた、サーカスにしろ、全米ツアーにしろ、自分一人でショーを成功させたと思ってきた。だが、彼が勤め人を止め、興行師を始められたのは、つねに妻チャリティが自分を信じて、ついてきてくれたからだ。サーカスのアイディアも、彼のものではなく、娘たちのもの。そして、なによりサーカスの仲間たちが彼の考えたショーを全身全霊の最高の演技で実現してくれたからだ。

プロデューサー、指揮者、映画監督、社長。トップに立つ者は、おうおうに勘違いする。すべては自分のおかげだ、おまえらに生きる世界を与えてやったのは私だ、おまえらは私のおかげで喰っている、と。だが、逆だ。プロデューサーもまた、アイディアとカネとキャスティングで演じるプレーヤーの一人にすぎない。アイディアだけでは話にならない。カネもまた、そのアイディアを評価して投資してくれる者がいなければ、空中から湧いてくるわけではない。まして、実際に数十万時間をかけ、人生を賭けて、夢を形にしてくれる一万人以上のスタッフが集まってくれなければ、それは実現しない。

一人の夢は、ただのワガママにすぎない。だが、前半に登場するランタンの「お願いマシーン」は、人々の数万の夢を取り込み、そこに夢を留めておく。歌詞をよく聞いてみろ。そこで歌われているのは、じつはサーカスではなく、このランタンのように夢を集め留め、廻り輝やく映画そのもの。

芸術性うんぬんと言い、ポリティカルコレクト(政治的正しさ)と言い、『ラ・ラ・ランド』を壇上に登らせた後にブラックムービーに賞をすり替えるような、アカデミー賞のスノッブたちがハリウッドを支配しているが、映画のホームは、レッドカーペットではない。劇場であり、観客だ。そのことを忘れ、作家監督たちや主演俳優たちが、自分が世界を作ってやっているかのような思い上がりに浮かれている間に、テレビの人気シリーズドラマに追い落とされ、映画業界の興行成績はガタ落ち。

映画が芸術か。『キングコング』だの、『半魚人』だの、昔から映画はフリークスの宝庫だ。特撮でも、CGでも、トリック上等。「イカサマ王子」でなんぼのスペクタクル。当時も、あんなものは、と蔑まれ、それでアカデミー賞を作って芸術的超大作も手がけてきた。だが、最後の「From Now On」に歌われるように、それは「光」に目をくらまされた「他人の夢」だ。映画は、ほんとうはだれの夢なのか。歌って踊って感動して、見る人を笑顔にする。その笑顔は本物だ。かつて実在したバーナムは言った、「人々をしあわせにするものこそ、至高の芸術だ」と。

サーカスだの、フリークスだの、刺激的な素材に目をくらまされるな。観客の元に帰ろう、映画でみんな夢を見よう、という、この作品の力強いメッセージは、直接には見えない。だが、プロの批評家たちは、すぐに気づいた。だから、スノッビズムに冒されたアカデミー賞は、この作品を無視し恐れたのだ。しかし、いま、世界中でじわじわと人気を得ていっている。「われらは、このリングで背教者となる。太陽でさえ、われらを止められない。これがきみの求めていた場所、最高のショー。さあ、目撃し、酔いしれよ!」


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。主著に『きらめく映像ビジネス!』『エンターテイメントの映画文法』などがある。)