53歳という若さで亡くなった、漫画家のさくらももこさん。独特の世界観で描かれた『ちびまる子ちゃん』は国民的人気作品となりましたが、なぜ「9歳のまる子」に大人までもが感情移入できたのでしょうか。米国在住の作家・冷泉彰彦さんが、自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』でその秘密を探ります。

ちびまる子とは何だったのか?

漫画家のさくらももこさんの訃報が伝えられました。8月15日没で享年53ということでした。実に悲しいニュースに他なりません。

国民的な人気を博したと言われていても、とにかく『ちびまる子ちゃん』というのは一編の愛くるしい漫画に他ならないわけで、あくまで楽しく読めばよく、クソ真面目な論評というのは無粋だとは思います。

そうなのですが、ちょっとこの喪失感というのは、なかなか簡単に支えられそうにありません。そこを埋めるためには、多少クソ真面目であっても、「ちびまる子とは何であったのか?」という議論を、この際、考えてみなくてはと思った次第です。

それにしても「まる子」の世界は、美しく結晶した小宇宙でした。そこには次の4つの意味合いがあったように思います。

1つは成熟の拒否ということです。お調子者で、多少怠惰で、しかしながら孤独でもなく、甘える相手に事欠かない「9歳のまる子」に対して、どうして大人も子供も感情移入ができたのか、そこには一種の「成熟を拒否したい」という願望が隠されていたのだと思います。

80年代から90年代、そして2000年代から2010年代と、日本の社会においては、「成熟」への猛烈なプレッシャーが存在していました。相対化する価値観、それまではタブーだったネガティブな感情が市民権を得て白昼堂々歩き回る世相、経済の観点の拡大、セクシャリティの過剰なまでの露出、そのような洪水とも言える情報に対処するには、人々はどうしても成熟を強いられて行ったのです。

それは多くの人々にとっては余りにも大きなプレッシャーでした。そこからの一種の逃避として「成熟の拒否」というものが志向されたのには、一種に必然があるように思います。人は、ここまで強い圧力には耐えられないからです。それは逃避かもしれませんが、そこには当然すぎるほどの必然性があったということです。

2つ目としては、1番目とは矛盾するようですが、この小宇宙には明らかな「新しさ」がありました。その1つは、価値の相対化です。衰えの始まった祖父は、尊敬だけでなく9歳の子から見ても保護の対象です。父親には威厳のかけらもなく、ナレーターからはヒロシと呼び捨てにされます。クラスメイトの中では、クソ真面目な少年や、大金持ちの国際派などは「見上げる存在」ではなく、「ヨコの関係」としての一種の逸脱として認知されつつ許容されています。

そこには昭和の時代とは一線を画した「価値の相対化」がありました。これに加えて、「弱さの許容」という考え方も入っていたように思います。昭和の時代のように「弱さ」は是正されるべきものというのではなく、「弱さ」も1つの個性であり人格だということで、尊敬がされる、そのような新時代の価値観が、この小宇宙の中にはハッキリと埋め込まれていたのです。

3つ目は、その一方で、この小宇宙はどこかに崩壊の予兆が感じられたのです。愛すべき祖父は、やがて本当に衰えてしまうだろうし、主人公たちの「前思春期」というモラトリアム期間もやがて、終わってしまうのでしょう。そのような世界が終わっていく予兆のようなものが、この小宇宙にはあり、そのことが余計に本作を美しくしていたように思います。

作者の夭折というのは、明らかな悲劇であり、これからは、この「ちびまる子」という小宇宙に接する人の多くは、決して長くは生きられなかった天才の生涯に想いを馳せると同時に、この結晶したかのように見える小宇宙が、やがては崩れて行く「はかないもの」だという印象から、恐らくは逃れ得ないのではないかと思います。

この「ちびまる子」という小宇宙は、成熟を拒否することで美しく結晶していたわけですが、反対に、80年代から2010年代という困難な時代に、安易な妥協としての成熟ではなく、成熟を拒否することで、美しく結晶した小宇宙を描き出すというのは、巨大なエネルギーの必要な作業であり、真に成熟をした人間にしか成し得なかった仕事なのだと思います。

そう思うと、作者の死は夭折ではなく、早熟な天才が猛烈なスピードで完結した一生を駆け抜けて行ったということなのかもしれません。

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