甲子園の優勝候補「大阪桐蔭高校」はなぜこんなに強いのか
『プロ注目の根尾昂くんは偏差値70』
第100回の記念大会である夏の甲子園の優勝候補である大阪桐蔭高校は、同時に関西で指折りの進学校でもある。なぜ「大阪桐蔭」は勝ち続けるのか。
まずは、野球部の話から。現在、セ・リーグの首位打者を争っている、平田良介(30・中日 2006年卒)に話を聞いた。平田は高校通算70本塁打、甲子園通算5本塁打を放った。
「地元の大阪で甲子園を目指したくなったとき、当時はPL学園のほうがレベルが高かった。ですが上下関係が厳しそうで、僕は選択肢に入れていなかった。
最終的に大阪桐蔭を選びました。僕が1年生のころは、決まった3年生の付き人になって、道具の手入れや買い出しに行く制度がありました。
でも僕が3年生になったとき、同期と話し合い、付き人制度をやめたんです」
野球に集中できる環境のもとで、西谷浩一監督(48)の指導方針はこうだった。
「打撃が不調になっても監督は口を出さない。自分の頭で考えることを要求され、自分で工夫するしかない。本当に行きづまったときだけ、声をかけてくれました。
一方、走塁と守備の練習はとにかく実戦的だったと、プロに入ってほかの高校から来た選手と会って実感しました」
同学年でエースだったのが、辻内崇伸氏(30)だ。やはり投球フォームを注意されたことはまったくない。そのかわり教えられたのは、過剰なまでの野球への情熱だった。西谷監督は朝練に始まり、授業後の練習、さらには一度家に帰って食事をし、夜は寮の生徒の夜間練習につき合う。
「それを一年間繰り返す。風邪もひかない監督の情熱に報いたい、監督のために勝つという思いが、自然に芽生えました。あと、OBの存在が大きい。
僕のときは、西武に行かれた中村剛也さんが、オフに練習に来てくれて、室内練習場でボールを打つ音を聞いただけで、『これがプロの打球音か』と刺激になり、憧れました」
2005年夏の甲子園で65奪三振を記録した辻内氏は卒業後、巨人にドラフト1位で入団し、憧れのプロに。現在は日本女子プロ野球機構・埼玉アストライアの監督を務めている。
大阪桐蔭にはI類、II類、III類という3つのコースがある。硬式野球部をはじめ、学校が全国レベルで強化している部活動の生徒は全員III類に所属している。
「学校は、ほかの有名校で実績を残した監督を連れてくる。そして、設備に積極的に投資する」(学校関係者)
たとえば、甲子園で野球部を応援する吹奏楽部。
「校舎の隣にシンフォニックホールという名の専用練習ホールを持ち、14部屋の個別練習場、録音設備や大画面プロジェクターまで備えている。180人近い大所帯で、そこから選ばれた55人が全日本吹奏楽コンクールに出場する。2005年創部と歴史は浅いが、同コンクール金賞の常連です」(吹奏楽関係者)
休みは野球部と同じ年末年始の4日程度。平日は夕方から4時間、休日は一日中練習を重ねている。
III類がトップアスリートを育成しているように、同じように強い情熱で、受験勉強を進めているのがI類、II類だ。
「大阪桐蔭は、いまや大阪の最難関私学です。週4日は7限目まで授業、土曜日も5限目まであります。夏休みは約2週間だけ。宿題もたっぷり出ます」(大阪の塾関係者)
2年前までは、生徒会もなかった。I類、II類の部活は週に1〜3日しか練習がない。
「模試が月に2、3回あり、土曜日の部活は模試でしょっちゅうなくなります。運動会も予行演習はなく、当日ぶっつけ本番でした」(OBの保護者)
意見の分かれるところだろうが、すべてを受験のために集中させるシステムが、同校の進学実績に表われているのだ。
青春時代に何かに打ち込むことで、得られるものがある。I類でもII類でも、III類でも、大阪桐蔭が生徒に教えているのは、そういうことなのかもしれない。そんな学校を形作ったのは、誰なのか。
「元校長のM氏です」と話すのは、同校の後援者の一人。
「1988年に校長に就任し、校名を大阪産業大学高校大東校舎から大阪桐蔭に変えたM氏は、副業で塾を経営しながら、その利益を投入して学校を立て直した。当初は毎月150万円の私財をつぎ込んでいました。親が自己破産して学校に通えなくなった生徒の面倒を見ていたこともあります」(同前)
その情熱は、大阪桐蔭の、部活や受験への入れ込み方に表われている。
だがM氏は、2015年に発覚した裏金問題の責任を取って同校の役職を退いた、毀誉褒貶の激しい人物でもある。
「大阪桐蔭を作った男」は、いま何を思うのか。本誌がM氏に取材を申し込むと、体調が悪く受けられないと、丁寧な手紙が届いた――。
(週刊FLASH 2018年8月7日号)