あの宇部商「サヨナラボーク」の真実を、捕手・上本達之が明かす
夏の甲子園では数多くの劇的な結末があったが、これほど観客があっけにとられた試合はないだろう。延長15回までもつれた1998年8月16日の宇部商業(山口)と豊田大谷(愛知)戦は、「サヨナラボーク」で決着がついた。まさかの結末に甲子園は悲鳴とため息に包まれた。
宇部商業の小柄なサウスポー・藤田修平をリードしていた捕手が上本達之だった。現在、埼玉西武ライオンズでプレーする上本は『敗北を力に! 甲子園の敗者たち』(岩波ジュニア新書)で、この衝撃的な体験について振り返っている。気温38度、炎天下の試合で、一体何が起こったのか?
延長15回裏、サヨナラボークで豊田大谷勝利の瞬間。右端の捕手が宇部商・上本
ランナーがサインを覗いていることに気づきながら……
──上本選手が夏の甲子園でプレーしてから19年が経ちました。いまだにあの試合が話題になることが多いですね。
上本 今でも僕たちのことを思い出していただけるのはうれしいですね。あの瞬間のことは、あまり覚えていません。ものすごく暑かったことだけは記憶にあります。僕が試合について話をするのは今回が初めて。これまでは、ピッチャーばかりが注目されてきたので……。ずいぶん時間が経った今だから話せることがあります。
──宇部商業は1985年夏に準優勝しましたが、1991年以降、甲子園から遠ざかっていました。
上本 宇部商業に入学したときは「甲子園を目指せ」と言われていたのですが、全然ピンとこなくて。甲子園に出ることを想像しようと思ってもできませんでした。県内では強豪ではあったので、3年間で1回くらい甲子園に行けると思っていましたけど、そんなに簡単なものじゃないとすぐにわかりました。だから、「無理だろうな」と。負け癖がついていましたね。
3年の夏、山口県大会は運よく勝ち上がっていきましたが、「自分たちは弱い」という自覚がありました。甲子園で松坂大輔(横浜)や杉内俊哉(鹿児島実業)のようなピッチャーがいるチームに勝てるとは少しも思えませんでした。OBの人たちには「甲子園に出たんだから絶対に勝て。勝ってなんぼや」と言われましたが、僕たちはみんなで「爪痕を残そうぜ」と言っていたくらいで。
──1回戦は日大東北(福島)に5対2で勝利。そして2回戦が歴史に残る試合になりました。
上本 僕は高校野球をやった2年半で、楽しかったことはありません。甲子園にいたときだけが例外で、このままずっとここで野球を続けたいと思ったほど。それまでは練習と上下関係が厳しくて……でも、甲子園は本当に楽しかった。
──2回戦で対戦した豊田大谷には、強打者の古木克明選手(元横浜ベイスターズほか)がいました。上田晃広投手も140キロを超えるストレートを投げていましたね。
上本 僕たちよりは明らかに強いけど、大差をつけられるほどじゃないかなと考えていました。でも、豊田大谷のバッターは体が大きかったし、スイングが速かった。ひとりの左バッターが打席に入る前に藤田の投球練習を見て「おっせー」と言ったことを覚えています。球速は125キロくらいだったので、確かに遅いですよね。相手がそんな感じでナメてくれたから、いい勝負ができたのだと思います。
──2年生エースの藤田投手は、体をめいっぱい使ったストレートと落差のあるカーブで相手打線を抑えました。8回まで1失点という好投。延長15回まで試合は進みます。
上本 僕はピンチのとき、二塁ランナーがサインを見て球種をバッターに伝えているのに気づいていました。(サインを盗む行為に対して)当時は今ほど厳しくなかったですから。でも「このままじゃまずい」と思っていながら、ピンチを乗り切ってベンチに帰ると、ホッとしてそのことを忘れてしまう。僕は本当にバカでした。藤田の球種はストレートとカーブしかないので、何を投げるかわかれば打たれますから。
──もし、試合中に対策を講じていれば、あの結末はなかったかもしれませんね。
上本 そうですね。もし、サインを盗まれていることを監督や藤田に話して、出し方を変えていれば、あんなことには絶対にならなかったでしょう。キャッチャーが僕だからそうなったんだと思います。昔だったら話せなかったというのはそういう意味です。ピッチャーからすれば、「上本さんが悪い」となります。本当にそうです。延長戦になるまでにサインを覗かれているのはわかっていたんですけど……ピンチが少なかったので、大丈夫だろうと。
僕の出すサインがバレていることを監督に伝えたら、何らかの指示があったはずです。それを逆手にとることもできたのに、まったく対処せず、延長15回の場面を迎えてしまいました。
ボークの宣告は主審のナイスジャッジ
──15回の裏、豊田大谷の攻撃。先頭打者がヒットで出塁。セカンドのエラーで無死二塁、三塁になりました。1点取られれば負けになる宇部商業が選んだのは敬遠策。ノーアウト満塁で7番打者を迎えました。
上本 持田泰樹くんは引っ張り専門の右バッターだったので、サード方向にしか打球が飛びません。そのことはわかっていたので、インコースに投げてカウントを稼ぎました。
本当に甲子園での試合が楽しかったので、僕はこのままずっと続けばいいと思っていました。ピッチャーの藤田は相当疲れていたのでしょうが、負けたくないというよりも、もっと試合を続けたい……と。インコースに投げればファウルになって、このままずっと試合が続くだろうと考えていました。
そのとき、それまでの簡単なものから、複雑なサインに変えたのです。一度フェイクでアウトコースのストレートのサインを出してから、本当のサインでインコースに投げさせようと思った。それまでも、二塁ランナーがいる場面ではそういうことをすることもありました。ただ、事前に確認をしませんでした。本来であれば、事前にマウンドに言って手順を伝えるべきでした。でも、暑さと疲れがあって……ピッチャーはフェイクのサイン通りに投げようとしたのに、続けて僕がインコースのストレートのサインを出したから「あれっ?」となったのです。
──審判のボーク宣告によって、延長15回の熱戦は突然幕を閉じました。
上本 主審がホームベースの前に出てきたときに「ああ、終わったな」と思いました。ボークかどうかは一瞬わかりませんでしたが、それだけはわかりました。ピッチャーが一番体力的につらかったと思うけど、僕もしんどかった。だから、「ずっと続いてほしい」と思っていながら、ゲームセットの瞬間には「やっと終わったか」と思いました。それ以外はほとんど覚えていません。ホッとしたんじゃないですか。
状況が把握できていなくて、悔しいというのもまだなかったですね。しばらくしてから「自分のせいで負けた」と思ったような気がします。
──ボークを宣告された瞬間、呆然と立ち尽くした藤田投手は、しばらくして「今日の投球は100点です」で言ったそうですね。
上本 藤田にどんな言葉をかけたのか、まったく覚えていません。でも、整列して相手の校歌を聞くときには、なぜか横に藤田がいました。どうしてだろう? 僕がわざわざそこに行ったのか、それもわかりません。本来なら小柄な藤田の隣に僕がいるはずはない。どうしてだったんでしょうね。
映像を見返してみると、どう見ても完全にボークです。勇気はいったかもしれませんが、主審のナイスジャッジだったと思います。おかげで僕たちの試合がこうしてみなさんの記憶に残っているのですから。ドラマチックな場面にいることができて、幸せですよね。藤田には「オレのおかげやぞ」と言っています(笑)。
──あのボークのことが、かつてのチームメイトの間で話題にのぼることはありますか。
上本 9回裏、無死一塁、三塁の場面で一塁ランナーが盗塁したとき、僕が二塁に送球したせいで同点に追いつかれました。そのことについては、いつも同期のみんなに怒られます。自分でアウトにして目立ってやろうという色気がありましたからね。でも、ボークのことは言われません。
入学したときに「どうしてこんなに厳しいところに来たんだろう」と考えたこともありましたが、甲子園に出て、その後、プロ野球選手になれたのも宇部商業に入ったから。監督やコーチやいろいろな人にお世話になったおかげです。甲子園で負けはしましたが、これだけ多くの人に覚えてもらって、うれしいですね。僕の野球人生にとって、大きな意味を持つ試合です。
上本達之(うえもと たつゆき)
1980年、山口県生まれ。宇部商業3年時に夏の甲子園に出場。社会人野球の協和発酵を経て、2002年ドラフト6巡目で埼玉西武ライオンズに入団。2005年に一軍デビュー。2010年には91試合に出場し、打率2割6分4厘という成績を残した。2016年は代打として打率3割をマーク。チームでは野手最年長として存在感を発揮