「細君譲渡事件」の衝撃も飲み込む谷崎潤一郎「全肯定」の凄み

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池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)第2期の刊行がスタートした。
第13回(第2期第2回)配本は、第15巻『谷崎潤一郎』


この巻の収録作はこちら。
・長篇小説『乱菊物語』(1930未完→中公文庫新潮文庫響林社文庫Kindle
・短篇小説「吉野葛」(1930。『春琴抄 吉野葛』[中公文庫]/『吉野葛 盲目物語』[新潮文庫Kindle]/『吉野葛 蘆刈』[岩波文庫]/《ちくま日本文学》14『谷崎潤一郎』所収)
・短篇小説「蘆刈」(1932→中公文庫Kindle『吉野葛 蘆刈』[岩波文庫]にも所収)
・随筆(短篇小説?)「小野篁妹に恋する事」(1951→新潮社編『歴史小説の世紀』天の巻[新潮文庫]所収)
・短篇小説「西湖の月」(1919→《潤一郎ラビリンス》6『異国綺談』所収)
・随筆「厠のいろいろ」(1935。『陰翳礼讃』[角川ソフィア文庫Kindle]所収)

昨年で歿後50年。晴れてパブリックドメインとなった大文豪の作品から、池澤さんが選んだのが上記だ。

広げたはいいが畳めなかった風呂敷、だがそれがいい


今回配本の目玉、メインとなるのは戦乱の瀬戸内を舞台とする伝奇小説『乱菊物語』。
播磨の太守(赤松家)vs.代官(浦上家)の対立を背景としているが、とにかく風呂敷が広がる広がる。ツカミから滅法おもしろい。


解説で池澤さんが作品のモチーフを整理して、こう書いている。

〈 1 時代は室町末期、舞台は瀬戸内海、殷賑を極める室津と島々
  2 開巻早々、海の怪現象と海賊たち
  3 急転、美女を求めて都に上る二人の侍のさや当ての笑劇
  4 その背景にある赤松・浦上両家の争い 御家騒動
  5 幻術師の活躍・暗躍
  6 傾国の美女「生身の普賢菩薩」である室君〔むろぎみ〕の登場 もちろん悪女
  7 祝祭としての小五月〔こざつき〕 多くの勢力の乱闘
  8 遅れて登場する謎のヒーロー海龍王
  9 胡蝶の悲しい末路
 10 そして……
 〔…〕ここにはいくつものエンタメのツールが半端なくばんばん使われている〉(477頁)

アクション(チャンバラ)や空想的なガジェット、奇怪な超常現象、ファンタジー的な着想がてんこ盛りで、むかし読んだときにいちばん印象に残ったのが、あしかと馬の雑種という、どう視覚化していいやらわからないカフカ的生命体だった。

好評で映画化もされたこの作品が、なぜか前篇だけで未完に終わっている。
谷崎を刺戟したに違いない国枝史郎の『神州纐纈城』(河出文庫/講談社《大衆文学館》Kindle)のように、広げるだけ広げた風呂敷を、最初から畳む気がなかったのではないか、と僕は思っていた。


中断の理由はスキャンダル? それとも作品への抗議?


けれど池澤さんの解説を読むと、この時期谷崎は「細君譲渡事件」(谷崎の妻・千代が合意の上離婚して佐藤春夫と結婚した事件)でマスコミに追われて、執筆どころではなかったという。
さらに驚いたのが、池澤さんが辻原登から聞いたという説。辻原さんはそれを家島(『乱菊物語』の舞台のひとつ)出身の女性から聞き、その女性は父親から聞いたのだという。

〈主要な舞台の一つとなった家島諸島の住民たちが海賊の島という設定に憤慨して「大阪朝日新聞」に抗議し、この連載が続く間は朝日の購読を中止すると申し入れたのだという。「大阪朝日」は谷崎に善後策を申し出、取りあえず中断としたのがそのままになってしまった。これまで表に出てこなかった説だが、あり得ないことではないだろう〉(479頁)

「ドライブ・マイ・カー」のなかの、煙草のポイ捨てを〈たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう〉という表現を同町の町会議員に抗議された村上春樹が、謝罪のうえ『女のいない男たち』収録時に架空の町名に書き換えた一件を思い出した。


映画『瀬戸内海賊物語』は地域PRの効果が高いご当地映画として歓迎されたそうだから、『乱菊物語』はちょっとタイミングが悪かったのかもしれない。


随筆なのかフィクションなのか


「吉野葛」「小野篁妹に恋する事」の2篇は、随筆ふうに歴史へとアプローチする「メタ歴史小説」。


前者は歴史小説を書こうとして失敗した経緯を語るかのような書きぶりであり、後者は後者で、「小野篁って気になるよね」という一見随筆ふうに書き始めたが、そのあと小野篁の禁断のロマンスをガッツリ本気出して語り、読者の脳が「これ小説だよね」って思いこんだあたりで、最後に、

〈篁の恋の話はこれでおしまいであるが、こんな風に書いて見たら、やはり小説にすればよかったような残念な気がしないでもない〉

で締める。いやもうこれ小説でしょう谷崎さん。
この2作に加え、聞き書きスタイルの「蘆刈」と、中国を舞台としてモダンボーイ谷崎の面目躍如たる「西湖の月」が、本巻に選ばれた小説作品だ。


レンジの広い「小説百貨店」


谷崎潤一郎という人は、近代日本文学のなかでもいろいろと規格外の人である。
 若くしてデビューし、最晩年まで現役だった。随筆では自分は幼少期に虚弱だったと言っているが、人並みはずれて身体壮健な人の仕事量&クォリティ&作風に見える。

 おまけに作品がまたものすごくレンジが広い。恋愛小説、ミステリ、官能小説、ファンタジー、伝奇小説、ホラー、風俗小説、ボーイズラブ、ユーモア小説、グルメ小説など、

芸術を愛する鬱屈した青年のもやもや、運命に翻弄される人々の伝奇ドラマ。
かと思えば中国やインドをモチーフにした異国趣味あふれる空想世界、関西の富裕な階層の華美な(しかし没落の予感をはらんだ)四季の暮らし。


イノセントな子どもの世界、マゾヒズム&足フェチにこだわる「明るくてトホホな変態」の生態(トホホ&マゾヒズム&足フェチといえば喜国雅彦作品。谷崎は喜国漫画、とくに『月光の囁き』[双葉文庫/ヤングサンデーコミックスKindle]の生みの親といってもいい)。


エレガンスに満ちた日本古典文学トリビュート作品、母なるものへの渇仰、老人の性、知的な犯罪、奇想と笑い、美食、ファッション、猫……。

まさに小説百貨店というか、ネタのデパートみたいな人である。どれを読んでもおもしろい。

すねない・ひねない・斜に構えない=バカっぽい?


 作風を敢えて乱暴にひとことで形容すると、「耽美的」というしかないけれど、これも現在のいわゆる「耽美」の一般的な使いかたとはずれている。

世に言う「耽美」につきものの志向といえば、現実世界を忌避して理想の美の世界に逃げこもうとする気持ちだろう。
けれど、谷崎はこの現世が大好きなのだ。この現世のなかにある美、たとえば「おいしいもの」「きれいな着物」「美人」「かわいい動物」「エロティックな快楽」「洗練された建築」「閑雅な風景」「年中行事の風情」などを、基本的に全肯定する。

文壇への登場は戯曲であり、大正期には映画制作にもタッチした。
随筆の名手でもあり、本巻所収の「厠のいろいろ」では、日本や世界のいろんなトイレを語って倦むところがない。


谷崎の作品は「すねない」「ひねない」「斜に構えない」。近代日本文学のなかでは珍しい作風だ。
すねてる人から見たら、ほとんど「バカっぽい」と見えてしまうあたりが、意外にも武者小路実篤と共通するのではないかと、今回気づいた。
こういう生命力、肯定力ってホント最強だと思います。

次回は第15回(第2期第3回)配本、第19巻『石川淳 辻邦生 丸谷才一』で会いましょう。


(千野帽子)