手塚治虫が描いた先祖はどこまで真実か「ファミリーヒストリー」

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NHK総合のドキュメンタリー番組「ファミリーヒストリー」(金曜よる10時〜)は、各界の著名人の肉親の歴史を探る番組だ。その調査はいつも緻密で、出演者本人も知らなかったような事実が次々とあきらかにされる。本日(2月12日)放送分に登場するのはヴィジュアリストの手塚眞。彼の父親がマンガの神様・手塚治虫(1928〜89)であることはよく知られる。番組では手塚家のルーツをたどりながら、治虫をはじめ先祖にまつわる秘話が紹介されるという。

手塚家のルーツは『平家物語』にも登場する名武将?


「父は漫画の神様 ルーツは平安の武将」というのが今回の番組のサブタイトルだ。この「平安の武将」にピンと来た人もいるかもしれない。そう、日本の古典文学を代表する軍記物『平家物語』には、手塚太郎光盛(?〜1184)という武将が出てくる。光盛は信濃(長野県)の人で、平安末期の源平合戦では源(木曽)義仲にしたがった。寿永2年(1183)6月の加賀(石川県)・篠原の戦いでは平氏方の斎藤実盛(さねもり)を討ち、歴史にその名を残す。すでに平氏の敗戦色は濃く、死を覚悟した斎藤が、武人の誉れをまっとうするべく老齢とわからぬよう白髪を黒く染めて出陣したことは、『平家物語』の名場面の一つだ(巻第七のうち「実盛」)。


その斎藤実盛を討った手塚光盛は、手塚治虫の先祖ともいわれ、彼のマンガにも何度か登場した。1951年、若き治虫による児童向けの歴史物『弁慶』(講談社版「手塚治虫漫画全集」第41巻)では、光盛が一ノ谷の戦いの場面にひとコマのみの出演、源義経の陣にあって弁慶に声をかける。弁慶から「おお手塚の太郎光盛か」と応じられるその姿は、馬上で甲冑こそつけているものの、大きな鼻にメガネをかけ、画板や筆(ペン?)のようなものまで持っており、治虫の自画像そのものだ。

ただし、寿永3年2月の一ノ谷の戦い、それも義経の陣に手塚光盛がいるということは残念ながら史実ではありえない(作者の遊びにツッコミを入れるのは野暮だけど)。というのも、その前月に光盛は、ほかならぬ義経らの軍に追われて近江(滋賀県)で敗死しているからだ。義仲軍は前年7月に平氏を西へ追いやり京に入ったものの、これと前後してひそかに手を結んだ後白河法皇と源頼朝が義仲討伐に乗り出し、追われる側へと転じていた。

手塚光盛は、『弁慶』より四半世紀ほどあとの作品である『火の鳥 乱世編』(1978〜80年)にも出てくる。それは義仲が側室の巴御前と敗走する場面(「手塚治虫漫画全集」第212巻)、かねてより彼の探していた不老不死の力を持つ火焔鳥(火の鳥)が見つかったと知らせるのが、やはり治虫そっくりの光盛だった。『平家物語』には伝本によって記述は微妙に異なるものの、義仲と近江まで逃げ落ちたわずかな軍勢のなかには手塚太郎(光盛)とその肉親の手塚別当もいたとある。『火の鳥』への光盛の出演はそれを踏まえたものといえる。

なお、手塚光盛には唐糸(からいと)という娘がいたとされ、『御伽草子』には「唐糸草子」なる一編がある。それによれば、唐糸は父の仇である源頼朝の暗殺をくわだて2度も捕えられた。しかし唐糸の娘(つまり光盛の孫)・万寿は牢の母をひそかに養い続ける。その後、頼朝が鎌倉で12人の乙女に今様を謡わせたなかに万寿がおり、彼女の謡いに感じ入った頼朝は褒美に母を許し、娘の孝行ぶりをめでて信濃の手塚の里(現在の上田市手塚)を与えたという。

光盛といい唐糸・万寿の母子といい、物語化され後世まで伝えられる人物を生んだ一族から、手塚治虫という希代のストーリーテラーが生まれたことに歴史の妙を感じずにはいられない。光盛や唐糸は信濃の人だったが、その子孫は江戸時代には水戸藩に仕えることになる。今回の「ファミリーヒストリー」ではその経緯もあきらかにされるというから楽しみだ。


女好きのおかげで福沢諭吉にだまされたご先祖


さて、手塚治虫が先祖を描いた作品といえばいまひとつ、その晩年の代表作のひとつ『陽だまりの樹』(1981〜86年)は外せない。同作の舞台は、幕末から明治維新にかけての時代。主人公は、架空の下級武士・伊武谷万二郎と、その幼馴染である医師・手塚良仙(りょうせん。1826〜77)だ。良仙こそは手塚治虫の曽祖父で、またの名を良庵という。治虫は、あるとき日本医史学会の深瀬泰旦という人から送られてきた自分の先祖についての論文を読み、本作の着想を得たらしい(「あとがきにかえて」、『陽だまりの樹』第11巻、「手塚治虫漫画全集」第336巻)。

江戸に生まれた良庵は、大坂の適塾で学んだのち父親の先代良仙とともに江戸お玉ヶ池の種痘所設立に尽力、父の没後、三代目良仙を襲名した。『陽だまりの樹』では、二代目良仙が手塚治虫そっくりの顔に描かれているが、息子の良庵はなかなかの男前だ。優男らしく女遊びが好きで、しくじりも多い。作中では、大坂から江戸に戻る船のなかでつい手を出した女性が、何と自分の見合い相手で、縁談を断るに断れなくなってしまうというエピソードもある(『陽だまりの樹』第5巻、「手塚治虫漫画全集」第330巻)。

もっとも、良庵が女たらしというのは、幼馴染の万二郎が堅物でまったくの奥手なのと対照をなすべく、そんな設定になったのだろうと私は思っていた。だが、実際の良庵もかなりの遊び人であったらしい。適塾で彼のほぼ同期であった福沢諭吉の『福翁自伝』には、福沢が良庵(同書には「手塚」と、姓しか書かれていないが)の遊蕩ぶりを見かね、勉強に専念させるべく二度と遊郭には行かないと証文を書かせたという逸話が出てくる。証文では、禁を破ったばあい頭を坊主にするとの約束だった。

しかし、意外にも良庵は本気で勉強するようになり、かえって福沢には面白くない。そこで仲間数人で、彼宛てに偽の遊女の手紙を書き、誘い出したところを坊主にしてしまおうということになる。このたくらみに良庵はまんまと引っかかり、坊主はいやだと手を合わせて頼みこんだという。結局、代わりに酒や鶏肉を振る舞うことで話は落着したとか。

この話は『陽だまりの樹』でも治虫流にアレンジされて描かれる(前掲、『陽だまりの樹』第5巻)。作中では、女がらみのしくじりから、適塾を主宰する蘭方医・緒方洪庵に破門を通告された良庵が、いま一度チャンスをやると後日あらためて試験を受けることに。尻に火がついた彼は、福沢と例の約束を交わしたうえ猛勉強を始めるのだが、このあと偽の手紙にまんまといっぱいを食わされる。ただし、その結末は実際の話とはちょっと変えてあり、福沢のキャラクターがより際立つ展開になっている。

手塚良庵あらため良仙は、明治維新のあと陸軍軍医となり、1877年(明治10)、西南戦争に従軍したものの、赤痢にかかり同年10月、51歳で亡くなった。彼の学んだ適塾は現在の大阪大学の原点のひとつだ。良仙の三代目の子孫である治虫が、戦時中に軍医養成のため設置された阪大付属医学専門部に学び、医師免許と、さらにのちになって医学博士号も取得したことはよく知られる。

15年ほど前、大阪市内に現存する適塾を訪ねた私は、同塾出身の偉人たちを紹介する展示パネルのなかに手塚良仙の名前と解説を見つけた。そこには『陽だまりの樹』からワンカットが引用されていたことを、いまでも思い出す。
(近藤正高)