甲子園大会第1回出場校の100年の夏の歴史を振り返る 〜京都二中編〜

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 今から100年前、京都二中は甲子園第1回大会で優勝を飾った。その京都二中の流れを汲むのが京都府立鳥羽高校だ。鳥羽は今年京都大会を制し、甲子園出場を決めた。甲子園100年目の今年に、第1回優勝校が出場するのは何かの運命か。今回は、そんな京都二中の甲子園の歴史を振り返ってみる。

第1回大会の覇者・京都二中!今夏も甲子園出場決める!

現在の鳥羽高校のユニフォーム

【第1回大会と京都】第1回甲子園と京都とのつながりは深い。第1回大会が開催されるにあたり、大会審判長を誰にするかという議論が起こる。当時の中等野球は教育の一環であるとの見解から、文部大臣格の方がふさわしいとの判断となり、審判長として、当時の京都大学総長荒木 寅三郎氏が任命された。しかし、荒木氏は野球を全くご存知ない。当時の逸話として、野球を実際に観戦した審判長荒木氏は、「すると打者は誰かね?」と周囲に質問し、「代わりばんこに打者が出てきます。」と掛け合いを見せる場面があったとのこと。

 そんな京都であったが、第1回大会の予選では、この京都地区の参加校が全国の地区予選の中で一番多かった。そのことからも、優勝することとなる京都二中は大会前から優勝候補として名高かった。

【京都二中の初の準優勝と戦後】優勝候補として出場した京都二中は、順調に勝ち上がる。準決勝では雨天中止の試合を挟み、和歌山中を破る。優勝は目前と見られた。しかし、同じく勝ち上がってきていた秋田中が意外な存在であった。東北代表ということもあり、前評判は高くはなかったが、破竹の勢いで勝ち上がる秋田中の様子に誰もが驚かされた。

 そして迎えた、秋田中との決勝戦。9回終わって1対1と、決着がつかず延長戦にもつれ込む接戦となる。勝負がついたのは延長13回。秋田中のエラーが絡み、見事京都二中がサヨナラ勝ちを決める。

 続いて、京都二中が甲子園を沸かせたのは戦後間もない1946年第28回大会であった。当時は、敗戦1年後ということもあり、若者の活躍は復興の大きな活力となった。中でもスポーツ、野球は人々に大きな力を与えるものであった。この第28回大会で、京都二中は見事準優勝に輝く。決勝で戦った浪華商(現:大体大浪商)には、のちに張本 勲氏が在籍するなど、多くのプロ野球選手を輩出する高校となる。

【その後の活躍と輩出選手】鳥羽高校のその後の活躍としては、2000年の選抜高校野球での準決勝進出が最高成績となる。また、鳥羽高校から輩出された選手として、現在もオリックスの守護神として活躍する平野 佳寿選手がいる。また、オリックスキラーとして知られ、2000年にイチロー選手にワンバウンドの球をヒットにされたことが有名な、後藤 利幸選手も鳥羽高校出身である。

 とにかく、100年という節目の年に15年ぶりの甲子園出場を決めた鳥羽高校には運命のようなものを感じてしまう。また、同じく第1回大会出場の早稲田実業との試合も実現してほしい思いもある。100年前優勝の意地を見せることができるか、今年の鳥羽の活躍から目が離せない。

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