僕らが、日頃漠然と口にしている「コアサポ」って実際はいないんじゃないか?


ある本の一部を読んで、そんな思いに至った。


9章 サッカーファンは本当に「熱い」のか 
ひとつのクラブに忠誠を誓う「フィーバー・ピッチ」型ファンの神話
(サイモン・クーパー『「ジャパン」はなぜ、負けるのか』より)



サイモン・クーパーは、『フィーバー・ピッチ』(邦訳『僕のプレミア・ライフ』)の中の、熱烈なアーセナルファンの主人公、ホーンビィを緻密に検証している。


「ファン」とは子供の頃に「恋に落ちた」クラブと生涯の結びつきをもつ動物である。しかし、ホーンビィのいう「ファン」は現実の世界にどれだけいるのだろう? もしかすると、イギリスのサッカーサポーターは、世界が想像するよりはるかに冷めているのではないか?



具体例は省くが統計や市場調査による数字を持ち出し、イギリスのサッカーファンの大半は、スタジアムにまったく行かないか、ほとんど行かないかのどちらかの「書斎型ファン」「根なし草ファン」と断じている。スタンドの観客は例外的な存在であり、わざわざ試合を見に行く少数派の「狂信者」なのである、と。


一途にクラブを支持する観客は、イングランドのサッカーファンの典型ではなく、じつにまれな存在なのだ。「生涯をひとつのクラブに捧げるファン」は美しい理想だ。しかし、現実のイングランドサッカーでは、根なし草ファンが圧倒的多数を占め、忠実なホーンビィ型ファンは少数派でしかない。イングランドはサッカーファンの国ではあっても、ホーンビィ型の熱いファンの国ではないのだ。


イギリス人ですら、古き良き時代の「本物のファン」に憧れているという衝撃。幾世代が過ぎ、生活レベルが向上して、ブルーカラーがホワイトカラーになっても「労働者のスポーツ」で「地元」のチームをサポートする「本物のファン」になりたがっている。


また「忠実なファン」と口ではいいながら、実際にはシーズンチケットを更新しなかったり、その通りに行動していない場合も多い、と。


わが身をふり返れば・・・


これをそっくりそのまま日本に住んでいる自分にも当てはめてみる。


競うようにせっせとスタジアム通いしたり、テレビ観戦したりするのは、何か幻想を抱き、どこかに憧れているからではないか? そんな一面がどこかに潜んでないか?


毎試合毎試合スタジアムに通い、ゴール裏の中心でコールするかっこいいファンに畏怖の念を抱き、いつか自分もそうありたい、近くで応援したい、との潜在意識。


ファンとしてのアイデンティティを確立したいあまりに、コアサポに憧れるあまりに、自分もコアサポになろう、認められようと必死のパッチで背伸びしがち。だけど、ずっとハイテンションでいたら、疲れる。他にもやりたいことはある。


ひとつのクラブ一筋に人生の全てを捧げ、忠誠を誓うファンはスターであり、憧れの存在なのだが、そんなファンは現実にはそういない。サッカーファンの大半は、あっちふらふら、こっちふらふらの移り気な消費者にすぎない。進学、就職、引越、結婚など、人生の節目節目で思い入れの強度は変わってくる。


思えば、受験、大学時代、就職して間もない頃は、サッカー観戦でスタジアムヘ行くどころではなかった。せいぜいダイジェスト番組を流すくらい。サッカー観戦歴は無駄に30年くらいにはなるけれど、すっぽりとサッカーから離れている時期ってあるもんだ。生活が安定しているからこそ、サッカー観戦にハマることができたりもする。まずは生活あってのサッカー観戦だろう。いくら熱心に応援したって、誰も生活の面倒をみてくれやしない。


「俺たちは何があってもサポートし続ける」という決まり文句が示すよりも、はるかにサッカーファンとクラブの絆はゆるい、と本書は述べている。


ガチガチにならず、メリハリつけてお気楽に。サッカーの母国イギリスですらそうなんだから。サッカーファンは常に筋金が入っていなければならない、って先入観は捨て去ろう。逆にイギリスのファンがこの程度の熱さなら、日本のファンも勝てるんじゃね? 





おわり