写真提供:宇都宮徹壱

写真拡大

 サッカージャーナル編集部です。本日と明日、加藤久・JFA特任コーチのインタビューを掲載させていただきます。

 加藤さんは2011年3月11日以降ほぼ1人で被災地を回り、継続的な支援活動を続けています。アシスタントを付けるわけでもなく、整地も間に合っていない被災地の運転含め、すべて1人で行なっているのです。このことは、あまり知られていない事実だと思います。

 この記事をあえて4月冒頭に掲載するのは、理由があります。311近辺では、多くのメディアに追悼記事が掲載されました。一方で、現在同じような量の記事が掲載されているかというと、そうでもないと思います。「埋もれてしまう」ことを危惧したものですが、「追悼すればそれで終わりというわけではない」という意志をもっての、この時期の掲載でもあります。

 加藤さんはこのインタビュー原稿を岩手で受信し、返信してくださいました。変わらず続く被災地の苦境に寄り添うことを決め、この記事が掲載される時期にも活動を続けておられます。どうかご一読ください。(取材日:2011年03月12日)
 
※なお、加藤久さんの写真は宇都宮徹壱さんの有料メールマガジン「徹マガ」に掲載されたものを特別に許可をいただき、使用させていただきました。この場をお借りし、宇都宮さんに感謝を申し上げます※


■「みんなで避難する」ことで犠牲に


――今年の3月11日は、どちらにいらっしゃいましたか?

加藤久(以下、加藤) 7日から現地に入って、東松島市立大曲小学校でFC IPULSEというチームの子供たちにサッカーの指導をしました。次の日は宮城県南部の亘理町のグラウンドに行って、夕方から2チームを指導しました。9日は仙台から石巻を抜けて、南三陸町の志津川中学校、歌津中学校、気仙沼の大谷中学校に行きました。海の見えないような場所にまで水が来ていますが、そこでサッカー部の顧問の先生たちと話をして、一ノ関まで行き、兵庫県の復興支援の方々に会いました。

 10日は、一ノ関からまた気仙沼に出て、鹿折から本吉町立津谷小学校に行きました。その日は雪が降っていてぐちゃぐちゃだったので練習はやらず、そのまま南三陸町で地元の方に会い、その後石巻市北上町十三浜にある相川地区の仮設住宅の慰問に行きました。さらに、雄勝町の水浜という地区の仮設住宅を回り、女川から石巻を抜けて、松島のフットボールセンターに泊まりました。

 そして11日の午前中は、野蒜(のびる)海岸から、津波の被害が大きかった鳴瀬第二中学校に行き、さらに線路を超えて内陸側にある野蒜小学校の追悼式に行って来ました。野蒜小学校の体育館は指定避難所になっていて、3階建ての校舎の建物の1階天井まで波が来ました。3メートルぐらいですかね。ただ、50センチの波でも、それだけで人は歩けなくなります。

――流れるプールなどを考えても、30センチほどの波で人は足を取られてしまいます。

加藤 1メートルぐらいになったら、身体は横に浮いてしまいます。報道と地元の話が多少食い違っているのでどちらが真実かはわかりませんが、報道によると以下のようなことが起こりました。体育館に学校にまだ残っていた60人ぐらい子供たちと近隣の住民の方々が避難していたそうです。校長先生が「落ち着きましょう」という話をしていた。そこに、津波が来たんです。

――子供たちを落ち着かせている間に。

加藤 校長先生がハンドマイクを持っている間に水が入ってきて、周りも車やガレキが集まってめちゃくちゃになった。黒い水が3メートルぐらい。小さな体育館で、20名くらいの方が犠牲になりました。水が渦を巻いて、そこに人が巻き込まれて。ステージに登った人はマットを投げたり、紅白の幕を投げ込んだりして助けようとしました。

 11日の午前中は、そこにお邪魔して献花させていただきました。地元の人たちに聞くと、渦に巻き込まれた人は鉄柵に捕まったまま亡くなった方も多かったそうです。子供たちは、そういう凄惨な現場を見ているわけです。野蒜の海岸では、栃木県笠間市から山伏の格好をした人たちがきて、焚き上げをしていました。

 石巻に避難所のリーダーをやっていたスポーツショップの松村さんという方がいるのですが、その方のお店は浸水して1階はすべて波に持って行かれ、自宅ももうないそうです。その方の自宅は、門脇小学校の前にありました。

――門脇小学校といえば、紅白歌合戦で長渕剛さんが歌われた場所ですね。

加藤 あの一帯はめちゃくちゃになってしまいました。11日は、サッカーの練習をやっているようなところはなくて、すべて追悼集会でしたね。そこの「復興ウォーク」で皆さんにご挨拶した後、石巻の本庁舎5階にある献花台に献花をして、戻って来ました。

――相当なハードスケジュールですね。

加藤 7日に仙台に入って、移動はすべてレンタカーです。合計760キロ走りました。

――東京と大阪間が500キロぐらいですから、それ以上の距離を。

加藤 しかも高速じゃないですからね、すべて下道です。


■「私にとって、復興は死ぬまでないんです」


――これまで回られた地域は、すべて加藤さんが間接的・直接的に支援をしていた地域なのでしょうか?

加藤 そうです。10日、11日に関してはほとんど震災1年ということで練習はやっていなかったので、それなら被災地で特にひどかったところの仮設住宅を訪問しようと。

――個人でこれだけの動き方をされている人は、とても少ないと思います。

加藤 道だったり場所を知っているから行けるのであって、それが自分の一つの役割だと思っています。いろんな話を聞いて来ました。

――東京にいると間接的な情報しか入ってこないのですが、仮設住宅に入ることでストレスで体調を崩される方はいらっしゃいましたか。

加藤 おられると思います。皆さん言っているのは、「避難所にいるときは皆が一体になっていた。だけど仮設住宅に入ると1人の時間ができてしまう」と。

――人と接しない時間ができてしまって、塞ぎこんでしまうと。

加藤 仮設住宅で1人の時間、場所にいるといろいろ変なことも頭に浮かんでくると。北上町十三浜の相川に住んでいた60歳ぐらいの女性は、実家が流されてしまいました。自分の家が流されたこともショックですが、「実家がないのはもっと辛い」と。

 彼女の実家は南三陸町にあって、十三浜までは海岸沿いの道路を行けば30分ぐらいです。弟さんもいるそうですが、塞ぎこんでしまって。「男は意気地が無いですよ」といって頑張ろうとしている一方で、「自分に頼られても困るんだ」という話をしていました。

 あとは雄勝町水浜の秋山さん。68歳で旦那さんと漁をして生計を立てていたのですが、船も流されたし家もない。「これから仮設住宅を出ることになったらどうしよう、非常に不安だ」と。新しく船を買って漁を始めるといっても、旦那さんも高齢です。借金して、また家も建てないといけない。「子供にツケを回すことになる」と。

 船を買うというのは、ある意味では復興への積極的な意思表明です。だけどそういう無理はしないで、余裕を持った中で生活していきたいと。「私にとって、復興は死ぬまでないんです」と話していました。ずっしりと重い話です。

――復興という言葉は私も含め、軽々しく使いがちです。例えば、めちゃくちゃに壊れた建物が更地となり、新しい建物が立つ。完全な元通りではもちろんないにしても見た目には元に戻る。そういう意味での「復興」は、今回は恐らく難しいのではと思います。

加藤 そうですね。気仙沼や大槌では人口が10パーセント減ってしまったようです。

――それぐらいの人が一度に亡くなるというのは、それこそ戦争のようなことがなければありえない。それぐらいのことが起こってしまったのだと。

加藤 気仙沼の死者・行方不明者は1300人を超えています。相当な人が亡くなり、仕事場が海辺にあった人も多いですから、人口減の中には仕事を求めた人も多いでしょう。

――転居を余儀なくされた人も多いのでしょうね。そういう部分を踏まえて考えていくと、東京の人たちの責務として「忘れないでいること」は非常に重要だと思います。

加藤 追悼式をやっている周辺と仙台駅でさえも、相当な違いがありました。こんなに人が溢れているというか。11日が日曜日だったこともありますが、追悼の空気はあまり感じませんでした。

――仙台ですら。

加藤 それは、仕方のない事だと思います。もちろん14時46分で黙祷は行なわれたと思いますが、時間は流れています。被災地の過酷な景色も、仙台に入ると一変しました。全員が沈痛な気持ちでいなければいけないかというと、それは強要できません。

 忘れることはある意味では仕方のないことだと思います。そして、忘れないで支援していくのは自発的な行為です。誰からも強制されない、自分で思い立ったことです。それをするかしないかは本人次第です。思いを持った人たちはまだまだたくさんいますから、あるきっかけを持ってどこかに行けば、その町の復興をずっと見守る縁というか結びつきを持っていけるのではと思います。

 被災地との縁、結びつきってなかなかないんですよね。募金活動にしても、募金をしたところで終わってしまい、その先が感じられなくなってしまっています。