日本一の利用者数を誇る新宿駅。今では信じられないが、開業当時の利用者数は1日50人程度だったという(撮影:今井康一)

「これはいったい……」

過日、山手線全駅の駅スタンプを押して回っていた。駅スタンプは街の観光名所やシンボルをデザインしたもの、駅舎そのものをデザインしたものなどさまざまで、それが「押し鉄」という遊びを盛り上げてくれる。


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そのなかで目をひいたのが新宿駅の駅スタンプ「新宿停車場」。雑草と思しき植物が短く茂る向こうから蒸気機関車が姿を現す構図は、今の新宿駅とは似ても似つかないものだ。

新宿駅の誕生は1885年のこと。現在の東北本線や高崎線などを建設した私鉄、日本鉄道が品川―赤羽間を開業した際に生を受けたものの、当時は町のはずれにあったことから利用者数は1日50人ほどだったという。駅スタンプは、当時の姿を今にとどめようとしているのかもしれない。

原っぱの駅が大ターミナルに

そんな新宿駅の利用者数が増加したきっかけは1923年に発生した関東大震災。震災で被害を受けた下町から、東京の西部・武蔵野台地へと移り住む人が急増したことによるものだ。

時は流れて2018年7月6日のこと。JR東日本より2017年度の各駅乗車人員が公表された。新宿駅は堂々の1位にランクインしており、1日当たりの乗車人員は77万8618人。2位の池袋駅56万6516人に大きく水をあけている。今や当たり前のように1位に君臨している状況だけを見ていると、開業当初にうら寂しい駅だったと言われても、あまりピンとはこない。

ここでふと気になったのはほかの駅のこと。どの駅も昔から現在の様相だったということはないだろう。そう思って、東京都内にある駅の乗客数と順位の変遷を調べてみた。

用いたのは、東京都の総合統計書「東京都統計年鑑」だ。統計年鑑のホームページには、1953年度以降の都内にあるJR(民営化以前は国鉄)の駅ごとの乗車人員、私鉄などの乗降人員が掲載されている。そこで、都内のJR(国鉄)各駅の乗車人員について、5年おきに数字を拾ってみることにした。


5年ごとの順位を並べてみて最初に目についたのは、大崎駅。かつては60位台だったが、1990年代以降、乗車人員は緩やかな上昇傾向を示し、2006年度には24位にまで浮上していた。

冒頭の駅スタンプの話でいえば、大崎駅は「山手線と高層ビル群」がデザインされている(山手線の車両はご丁寧に最新鋭のE235系だ)。高層ビル群は、私の思い浮かべる大崎駅と符合する。改札を抜けるとペデストリアンデッキがあり、それがビルに直結しているところなんか、田舎出身の自分にとって都会の象徴だ。ところが歴史をひもといてみると、アーバンな雰囲気を漂わせるように至ったのはここ30年ほどの変化によるものだった。

もともとは工場の街だった大崎駅周辺。しかし1982年に東京都が策定した「東京都長期計画」において、周辺が副都心の1つに位置付けられ、市街地整備が始まった。東口に「大崎ニューシティ」が1989年にオープンしたのを皮切りに、1999年にはソニーなど大手企業の入居する「ゲートシティ大崎」がその近隣に、そして2001年にはタワーマンションと商業施設の入居する「オーバルコート大崎」がオープンした。さらに、2002年には都市再生特別措置法に基づく都市再生緊急整備地域に指定されたことから、大規模開発事業も大きく進んだ。

また、再開発と時を同じくして、2001年に湘南新宿ラインが開業し、翌2002年には埼京線の大崎延伸、およびりんかい線との直通運転が始まった。大崎駅は、2017年時点では13位にランクインしている。

恵比寿も今とは全然違う駅だった

埼京線との関係でいえば、恵比寿駅は1991年度の32位(1日当たり8万4780人)から、埼京線が同駅まで延伸開業した1996年度には21位(11万7740人)まで順位を上げている。

恵比寿駅が開業したのは1901年。もともとは隣接していた日本麦酒の工場からビールを運ぶための貨物駅として誕生し、その5年後の1906年には旅客営業を始めた。駅名は言わずもがな「ヱビスビール」に由来する。


恵比寿ガーデンプレイス(奥)付近を走る湘南新宿ラインの電車(写真:tarousite / PIXTA)

工場が閉鎖されたのは1988年のこと。そして、その跡地に1994年にオープンしたのが「恵比寿ガーデンプレイス」だ。恵比寿ガーデンプレイスは、サッポロビール本社、オフィスビル、美術館、そしてマンションなどから構成されており、こちらが恵比寿駅の順位押し上げに影響していると考えられる。

このほか、浜松町駅は1980年代から1990年代にかけて順位を大きく押し上げているが(1981年度=36位、1996年度=11位)、これは同時期に進んだ駅周辺から臨海部にかけて(ウォーターフロント)の再開発によるものだろう。

最新のランキングで上位5駅に入るのは、新宿、池袋、東京、品川、渋谷だ。1953年度以降の乗客数を眺めていても、多少の変動はあるものの、これらの駅は少なくともつねに10位以内には入っている。ただし「品川駅を除いて」だ。

品川駅といえば、1872年開業と日本の鉄道史の中でも最も古い駅の1つであり、なおかつ東海道新幹線、最近であれば上野東京ラインも発着することから城南部の玄関口としての条件は整っている。

私が初めてまともに品川駅を利用したのは2008年の2月。大学受験のため、品川駅高輪口の宿に滞在していた。受験会場へ向かったのはちょうど朝ラッシュの時間帯だった。改札を出て港南口のオフィス街へ向かう大勢のビジネスマン、そして次から次へと列車は来るのに一向にすく気配のない山手線ホーム、これらに大いに圧倒された。「東京=人が多い」を印象付けるのに、十分すぎる光景だった。

品川駅はいつから急成長したか


しかし1950年代〜1960年代にかけての乗客数は20位台をうろついており、ベストテン入りを果たしたのは1970年代後半以降のこと。1990年代後半にようやくベストファイブのお仲間となった。今でこそ1日平均37万人超の乗客数を誇るこの駅だが、1953年度はおよそ3万4000人で、当時は高円寺や荻窪、大森よりも少なかった。

品川駅の順位が最初に大きく変動したのは1976年度のこと。1日当たりの乗車人員は、1975年度は9万5098人であったのに対し、1976年度は13万6318人まで増えている。同じ品川駅に乗り入れる京急電鉄も同時期に乗車人員が急増しており、1975年度が3万6421人であったのに対し、1976年度は7万8115人に。要因としては、この年に総武快速線が東京から品川まで延伸しており、それによって人の流れが変わったことが考えられる。

ところで品川駅には、山側の高輪口と海側の港南口があるが、それぞれ趣はかなり異なる。前者は高層ホテルの立ち並ぶ観光エリア、後者はオフィス街という印象が強い。

高輪口側でも特に目立つのが、プリンスホテル群。最も古いのは1953年に開業したグランドプリンスホテル高輪で、1978年に品川プリンスホテル、1982年にグランドプリンスホテル新高輪、1998年にはザ・プリンスさくらタワー東京が開業している。江戸時代にさかのぼれば、武家屋敷の立ち並んでいたこのエリアは、明治以降、払い下げによって高級住宅街となり、そして現在へと至る。


品川駅港南口はここ20年ほどで大きく変化した(撮影:吉野純治)

一方、明治時代以降の埋め立て地に始まる港南口側は、かつては一帯に貨物ヤードおよび東海道新幹線の車両基地(東京第一車両所)が位置していた。ホームから港南口(東口)まではこれらをくぐる地下通路で連絡しており、1945年建設の簡素な木造駅舎があったそうだ。

その様相が変化したのは1998年のこと。品川駅東地区再開発地区計画により、貨物ヤード跡地に「品川インターシティ」が竣工した。同年には東西連絡通路が完成し、駅舎が橋上化されている。さらに2004年には、品川インターシティの隣接地に「品川グランドコモンズ」が竣工した。

また、この1年前の2003年には東海道新幹線品川駅が開業し、よく知っている品川駅へと変貌した。この流れがここ20年ほどの押し上げにつながっているのだろう。

品川新駅開業でどう変わる?

ここまで各駅の乗客数の変化について書いてきて、街の開発の歴史ばかりを追いかけていることに気が付いた。

東京都統計年鑑に掲載されている乗客数一覧は正式名称を「JRの駅別乗車人員」という。この一覧には「JR内の乗り継ぎを除く」と注意書きがある。つまり、「改札を通った人の数」を計測しているということ。であるならば、どれだけ駅周辺に人を集める施設や住居があるか、あるいは乗換可能な「他社線」の存在の有無が重要になってくる。


建設中の品川新駅(撮影:尾形文繁)

ゆえに前者については街の開発の歴史とは切っても切れない関係性がある。また、後者の例でいえば、秋葉原駅は日比谷線秋葉原駅の開業した1962年度、そしてつくばエクスプレス秋葉原駅の開業した2005年度に順位を大きく上げている。

今後、2020年には品川新駅(仮)が開業を予定しているが、乗客数としてどこまで食い込んでくるのか、気にならずにいられない。