【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (4)】

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会心の勝利と情けない敗戦

 1995年シーズンのJリーグで、開幕から1勝7敗と苦境にあえいだ名古屋グランパスが長いトンネルから抜け出したのは、第9節の清水エスパルス戦だった。森直樹とドラガン・ストイコビッチのゴールで、前年の1994年に4戦全敗した相手を2-0で下し、最下位から脱出したのだ。

 この快勝は、選手たちに強いインパクトを与えた。この試合にジェラール・パシとボランチを組んで先発出場した中西哲生が振り返る。

「こうやればいいんだ、と手応えを掴んだゲームでした。一人ひとりが自分の役割をこなせたし、チームとしてピクシー(ストイコビッチ)を生かすこともできたんです」

 中西自身、サッカー専門誌でストイコビッチ、パシと並んで「8」という高採点がつくパフォーマンスを披露した。


日本代表として活躍していた小倉も、ベンゲルにはよく怒られたという photo by Yamada Shinichi/AFLO

 だが、この勝利でグランパスが上昇気流に乗れたわけではなかった。過去2年間でこびりついた弱者のメンタリティが勢いを削ぐ。4月22日に行なわれた第10節、首位を走る鹿島アントラーズとの一戦は、前半のうちに3ゴールを叩き込まれた。グランパスは、ときおりカウンターを仕掛けるのが精一杯だった。

「何を怯(おび)えているんだ! お前たちは本当にプロか!」

 ハーフタイム、アーセン・ベンゲルの怒号がロッカールームに響きわたる。強烈な喝を入れられたグランパスの選手たちは後半に持ち直したものの、終了間際にブラジル代表のジョルジーニョに直接FKを決められて力尽きた。その0-4の大敗を、中西はこう回想する。

「それまで、鹿島には一度も勝ったことがなかったんです。93年の開幕戦で0-5と大敗したのがトラウマになってしまって……。僕自身もハーフタイムに代えられて、落ち込んで帰ったのを覚えています」

 温厚なジェントルマンという印象の強いベンゲルだが、この鹿島戦のように激情家の一面を見せることもあった。特に、当時21歳の小倉隆史は、1歳下の平野孝と並んでベンゲルからよく怒られたという。

「めちゃくちゃ怖かったですよ。練習中も怒られたし、ハーフタイムや試合後にもよく怒鳴られた。『お前、猫じゃねえんだ、虎になれ』と怒鳴られたし、右からのクロスに合わせる練習で、左足のアウトサイドで決めたら、『カッコつけてんじゃねえ、ちゃんと右足で蹴れ、バカヤロウ』って。決めてるじゃん、と思いましたけどね」

 小倉が苦笑しながら振り返る。

「あれは、95年のシーズン序盤の試合当日だったと思う。泊まっていたホテルで監督の部屋に呼び出されて、ベンゲルからいきなり『お前、サッカーを教えてほしいのか』と言われたんです。それで、もちろんです、と答えたら、『なんで100%の力で練習していないやつに教えなきゃいけないんだ。100%でやれ』とすごまれて。『俺の練習を100%でやれ。そうしたら、お前はもっとうまくなる』と言われて、ドキッとしましたよ。俺の甘い部分を見抜いていたんだと思うし、100%でやればうまくなると言い切れるところもすごいなと。一方で、『俺はお前のプレーが好きだ』と評価してくれてもいた」

 4月26日の第12節・ヴェルディ川崎戦は4-3と勝利したが、第13節の横浜フリューゲルス戦は3-4で敗戦。第14節のセレッソ大阪戦では6-0の大勝を飾ったものの、第15節のジュビロ磐田戦は0-1で惜敗するといったように、試合内容は向上して勝ち点3を奪えるようにもなっていたが、勝利と敗北を繰り返し、なかなか安定しなかった。

 季節が初夏へと移った5月13日、国立競技場で行なわれた第16節の浦和レッズ戦は、第4節に続いてPK戦へともつれ込み、勝利した。ここでJリーグは約1カ月の中断に入った。日本代表がイングランド遠征を行なうためである。この時点でグランパスは6勝10敗、14チーム中12位だった。


自らが先頭に立ち、グランパスの選手とともにランニングするベンゲル photo by Getty Images

ベンゲルのすごさを思い知ったフランスキャンプ

 青々と茂る木立の間を、心地いい風が吹き抜けていく。

 ベルサイユ宮殿の庭園に面して建つトリアノンパレス。ベルサイユ条約を起草した場所としても知られる瀟洒(しょうしゃ)なホテルが、5月19日から約2週間にわたる名古屋グランパスのフランスキャンプにおける宿舎だった。

 Jリーグの中断期間を利用して、アーセン・ベンゲルは自身の故郷であるフランスにチームを連れてきた。素晴らしいホテルに度肝を抜かれた選手たちは、昼時になってさらに驚かされた。初日の昼食会場に黒人選手が現れ、ベンゲルとの再会を喜び、ハグをしたのだ。

 その選手とは、この年の12月にアフリカ人選手として初めてバロンドールに輝くことになる、ジョージ・ウェア(現リベリア共和国大統領)だった。モナコ時代にベンゲルのもとでプレーしたウェアは、その後パリ・サンジェルマンに移籍し、リーグ優勝やカップ戦の優勝に大きく貢献する。

 そして、まさにこの夏にACミランに移籍し、”リベリアの怪人”として世界のサッカーシーンで知られるビッグネームとなるのだが、そのウェアが「アーセンは私のパパだ。パパについていけば、なんの心配もいらない」と話したのだから、選手たちはベンゲルへの尊敬の念を深めざるを得なかった。

 それだけではない。パリ・サンジェルマンの公式戦を観戦するため、ホームスタジアムのパルク・デ・プランスを訪れた際は盛大なもてなしを受けた。ベンゲルは、スタジアムの外ではファンにサインを求められ、スタジアムでは警備員に「どうぞ、どうぞ」と促され、クラブ関係者に握手で迎え入れられた。

 それから20年以上経った今もなお、興奮を含んだ口調で平野が当時を振り返る。

「もうびっくりしましたよ。うちの監督って本当にすごい人なんだなって」

 トレーニングは早朝、午前、午後の3部練習が組まれ、フィジカルトレーニングと戦術トレーニングを並行して行なった。

 早朝メニューはクロスカントリーで、ベンゲル自ら先頭になってベルサイユ宮殿の森を1時間以上も走り続けた。そして午前中は、このキャンプからチームに加わったフランス人フィジカルコーチのダール・ティビュースの指導のもと、フィジカルトレーニングが課せられ、インターバル走やサーキットトレーニングが行なわれた。

「ポジションごとに走る距離が違うんです」と、平野が証言する。MFはスピードと持久力の双方を必要とするので、タイム設定が厳しく、本数も多い。一方、FWやDFはMFよりも設定が緩く、GKは本数もかなり少ない。

「試合では中盤の選手が一番走るじゃないですか。だから、僕らが一番長い距離を走らされました」

 午後の戦術トレーニングでは約束事の徹底が図られ、オートマティズムに磨きをかけた。左ウイングの平野を例に出すと、ボランチの浅野哲也がトラップした瞬間にどう動くのか、ストイコビッチに対してどうサポートするのかといった具合に、近いポジションの選手との関係性がシチュエーションに応じて整理されていった。

「フランスキャンプは3つのポイントがあったと思うんです」

 そう中西は分析する。中西はもともと守備的なMFだったが、ベンゲルと英語で直接コミュニケーションが取れたため、ベンゲルの意図をいち早く理解し、中盤のユーティリティプレーヤーとして変貌を遂げつつあった。

「3つのポイントとは、ウェアがやってきたり、パルク・デ・プランスで歓待されたりして、僕たちのベンゲルに対する信頼の念が強まったこと。涼しい気候のなかでフィジカルを徹底的に鍛え直せたこと。それと戦術面、チームの約束事の整理です。あと、帰国してから剛(ごう)をサイドバックからセンターバックにコンバートして、最終ラインの顔ぶれが定まったのも大きかったですね」

 剛とは、この年の大卒ルーキー、大岩剛のことである。

(つづく)

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