アントニオ猪木参議院議員

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朝鮮ナンバー2・張成沢が処刑されたことで、2013年11月に会談したアントニオ猪木参院議員は「最後に張成沢と会った日本人」となった。「闘魂外交」は、日朝関係の未来をどう描くのか。

アントニオ猪木参議院議員は、国会の許可を得ずに北朝鮮を訪問したとして、30日間の登院停止という処分を受けた。国会議員を敵に回してまで北朝鮮と独自外交を続ける猪木議員に大義や正義はあるのか。プレジデント誌はこうした疑問をぶつけるべく直撃インタビューを敢行した。

――今まで猪木議員は27回(取材当時)訪朝していますが、その目的はどこにあるのか。

【猪木】今、日本では、プロレス流に言うと北朝鮮が悪役、日本が善玉という構図が染みついています。常々私が言っていることは、日本の物差しだけで相手を測ってはいけないということ。「外交に勝利なし」という発想に立つ必要があります。

訪朝では私がこれまで先方と約束してきたことが、いまでも継続されていることを確認しました。具体的には、日本の国会議員訪朝団の受け入れ、1995年に平壌で開催したプロレスイベント「平和の祭典」を前回以上の規模で今年開催すること。そして私が代表を務める「スポーツ平和交流協会」の平壌事務所の開設などです。この平壌事務所は、今後、日朝間の重要な対話の窓口になるでしょう。

日本の立場としては拉致問題、北朝鮮の立場では、小泉(純一郎)元首相が締結した「日朝平壌宣言」に書かれているように「過去の清算」が解決し、両国の交流が始まれば、日本の国益に適う部分がでてくる。

それなのに交流が完全にストップしている現状が続いているわけです。北朝鮮との平和交渉が進みかけたのは、過去に小泉さん、その前は金丸(信)さんのときだけです。拉致問題もどうにもならない状態のまま10年が過ぎてしまった。

――北朝鮮に対してどのような印象を持っていますか。また、あなたは拉致議連の入会を拒みました。なぜですか。

【猪木】みなさん北朝鮮は怖い国というイメージを持っているようですが、私も初めて訪朝したときは、平和な日本とは感覚がまったく違うという印象でした。それは、キューバのカストロ議長やブラジルのフィゲレード大統領と親しくなる前に感じたことでもあります。ジョークを飛ばしたりしているうちに、段々と歓迎されるようになった。

ご指摘のとおり、拉致議連に誘われたのですが、議連役員の理解を得て私は入会を見合わせました。その点についてメディアから批判があることは知っています。しかし、拉致議連に入ると向こうの目には、「敵」というラインが引かれてしまう。まずは相手の懐に入る、そしてつくったパイプを大事にしたい。これからも私は両国のスポーツ交流を推進していく。

――北朝鮮を相手に、どのようなジョークを飛ばしたのですか。

【猪木】テポドン(ミサイル)が世間を騒がせているときだったので、相手側にミサイル問題を正面からぶつけました。

そしてその後の宴会の席で、私が大きな声で「ところで!」と叫んだら、皆がびっくりした。

「日本の“ミサイル”も北朝鮮に向いています」と言ったら皆が息をのんだ。そして、「北には美しい女性が多いですから(笑)」なんて言ったら、一発で場が和んだ。

――あなたの人気のことだけを考えたら、北朝鮮に行く必要はないと思います。なぜ北朝鮮問題に関わり続けるのですか。

【猪木】大好きな言葉の一つに「何にもしないで生きるより、何かを求めて生きようよ」がありますが、その心境です。人がやらない何かにチャレンジする、猪木にしかできないことに挑戦していくということです。1976年、当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオンであるモハメド・アリと戦ったことがあります(「格闘技世界一決定戦」)。今になって伝説の名勝負と言われていますが、当時は全然評価されなかった。

■オリンピック選考で北朝鮮は「東京」に1票

私の歴史を振り返ると、行動を起こした直後はものすごく批判を浴びる。でも結果として形になっていく。

私自身ブラジル移民で、力道山にスカウトされて日本に帰ってきたときから、ひどいことを言われ続けてきました。プロレスそのものだって、ずっと蔑視され、差別を受けてきた歴史があるのです。だから「てめえら、今に見ていろよ」みたいな、いつも燃えるものが私の心にあって、それは生涯変えようがないのかなと思う。

――猪木議員が、北朝鮮問題にここまで肩入れするのは、師匠の力道山が在日朝鮮人であったことと関係するのですか。

【猪木】89年に国会議員になり、その後、北朝鮮を訪問しようとした。北朝鮮サイドに何の立場で訪朝するかを問われたので「力道山の弟子として」と答えた。

――当時は、国会議員であり、プロレスラーであったにもかかわらず……。

【猪木】ええ、そうです。力道山の付き人をしていたころ、プロレス興行のため新潟の旅館に泊まったことがあり、その際、力道山が試合のない日にいなくなったことがあったんです。あの人はゴルフが好きだったから、ゴルフにでも行ったのかなと思っていたのです。あとになって『力道山物語』という、まだ本になる前の原稿を読んだのです。そこには、そのとき北朝鮮から万景峰号で娘さんが来ていて会いにいったと書いてあった。

力道山が在日であることの詳細を知ったのは、89年にスポーツ平和党の党首として政治家になったときでした。
「あ、力道山という人は北朝鮮出身だったのだ」と。付き人時代は、力道山が在日だったことをまったく知らなかった。

日本が朝鮮半島を統治していた当時、相撲の番付には力道山が「朝鮮出身」と書いてあり、アメリカに行ったあとに朝鮮人であることを隠すようになったようです。

――北朝鮮側は「力道山の弟子」という言葉を聞いて、どう反応しましたか?

【猪木】向こうの反響は大きかったです。そもそも今まで政治家をはじめ、ほとんど日本人が行っていなかった国ですから。今思うと、あちらは儒教の国なので師匠に対する私の想いという部分が今日にずっと続いていて、それが国と国とか政治家の域を超えた信頼関係になり、本当の友人として迎えてくれている気がします。

北朝鮮は日本と常に敵対している印象があるかもしれませんが、2020年のオリンピックの候補地選びで、北朝鮮は東京に1票入れているのです。

北朝鮮のIOC委員である張雄(チャンウン)さんと、私は長い付き合いです。彼は、もともとバスケットボールの選手で、背も高い。75歳だったから私より年齢は少し上になりますね。英語も喋りますし、私の英語でも通訳を入れないで簡単な話くらいならできますから。信頼が厚い方で、日本の五輪委員会の人たちとも懇意にしているようです。

12年11月に私が訪朝したときに、「東京に1票入れますよ」と北朝鮮は言って、10票ぐらいなら、アフリカの友好関係国をまとめられると言ってくれました。北朝鮮はアフリカ諸国に対して相当な数の労働者派遣をしているのですよ。それで日本へ投票してくれたのが、10票なのか、新聞によっては3票というところもありましたが、効果はあったと思います。少なくとも北朝鮮が1票入れたのは間違いない。

――猪木議員、あなたは湾岸戦争のときにイラクから日本人の人質を奪還したことがありますね。当時の日本政府は完全にさじを投げていた事件をどうやって解決したのですか。

【猪木】ちょうど議員になってすぐの時期に、キューバでカストロ議長と「(イラクについて)平和的解決をしたい」と話をしました。日本に帰ってすぐにヨルダン経由でイラクに入った。

イラクの首都バグダッドに入ったら、報道陣はみな私が泊まるホテルに集められていたのです。当時まだ現役のレスラーであったので、ランニングだけはしないといけなかった。向こうの案内人に「走るのは自由だが、撃たれても責任持ちませんよ」とか言われましたが、無視して構わず走っていたら、午後からインタビューが殺到してテレビなんかに全部流れていくんですよね。すると向こうの要人が走っている私を見るために沿道に出てくれるようになって、翌日からイラクの議長も出てきました。そして走ったら車のクラクションをピッピと鳴らしてくれたりして、「猪木よく来たな!」と温かい歓迎を受けた。

そんなことがあってウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)に会えた。人質の家族とイラクへ乗り込み、現地でプロレスイベントを開催するなど、友好関係を築くことに腐心しました。粘り強く、諦めることなくイラクの要人や国民に人質解放を訴え続けた。その努力が、外務省でさえさじを投げていた人質奪還につながったのです。

■青いピンバッジをつければ、すべて解決するか

日本人は「日本が平和憲法を持った国家」であると思っている。しかし、実際は世界の人はそんなこと知らない。外国の憲法なんて誰も興味ない。ほとんどの日本人だって、韓国の憲法や米国の憲法なんて知らないでしょう。大事なことは、誰かが日本が平和国家であり、友好関係を結ぼうと訴えなければならないということです。

――最後に、日本の国会議員、メディアに言いたいことはありますか。

【猪木】私が議員になって最初に訪問したのがキューバでした。当時、国会議員が誰も行ったことがなかったのですよ。みんなアメリカに気をつかったのでしょうね。

最初にスポーツ大臣、産業大臣といろいろ会って、最後にカストロ議長です。とにかく人間的で、大きなオーラがありました。着飾ったところが何もない。普通は緊張した感じになるはずなのに、いきなり「やあ」と挨拶して、座りなさいと言って、足をテーブルの上に乗っけるわけですよ。

そんなキューバも今、本気で国を開こうとしているところです。北朝鮮も同じで、国の悪いイメージを変え、宣伝したいという思いがあるわけです。でもテレビを見ると猪木は利用されるとか、そういうレベルでしか話さない識者が多い。「ああこの人はこの程度か」と、人を見るのに勉強になったという感じです。少なくとも(拉致議連の)青いピンバッジつけて文句言っているだけでは何も変わらない。誰かが行動しないとね。

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アントニオ猪木
本名・猪木寛至。1943年2月20日、横浜市鶴見区に生まれる。14歳のとき、家族とともにブラジルに移住。60年、力道山にスカウトされて帰国、日本プロレスに入団。66年東京プロレスを旗揚げ。67年日本プロレスに復帰した後、72年に再び独立し、新日本プロレスを興す。柔道王ウイリエム・ルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリらと「格闘技世界一決定戦」を行い、世界にその名を轟かせる。リングの外では、89年スポーツ平和党を結成。2013年、参議院議員。

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(タカ大丸=インタビュー・構成 原 貴彦=撮影 アントニオ猪木事務所=写真提供)