『性愛空間の文化史』金益見(ミネルヴァ書房)。
男女が情交する場所は、江戸後期の出合茶屋、戦前の待ち合い、円宿、連れ込み旅館、温泉マーク、さかさくらげ、モーテル、ブティックホテルなどたくさんの名前がつけられては消えて行った。そして今、「ラブホ」という名が残った。

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ラブホテルに対する意識が私たちの世代でがらりと変わった、と発見した女子大生が、それを卒論のテーマにした。
しかし、先行してラブホテルを研究していた井上章一に厳しい言葉を浴びせられる。

「君の卒論、私の書いたものをまとめただけでつまらなかったけど、大学院に進めてよかったね」

弱点を指摘されても、彼女ーー金益見(きむ・いっきょん)はラブホテル研究を諦めなかった。
独自のアプローチとして、ラブホテル経営者や建築デザイナーにインタビューすることを思いつく。
表舞台にいない人たちに会いにいき、話を聞く。
取材は話題を呼び、スポーツ誌や週刊誌に取り上げられ、ついには文春新書で
『ラブホテル進化論』というタイトルで出版されることになった。08年のことだ。さらに金はラブホテルの変遷を掘り下げ、『性愛空間の文化史』を上梓した。

本書は、江戸後期の出会い茶屋から現在のラブホまで、「一定時間をひとつの単位として場所を切り売るセックスもできる宿泊可能施設」の変遷を追ったものだ。
とくに、地方新聞の広告を一枚一枚調べ、同じ旅館の広告の変化を追いかけてずらっと載せたページが面白い。
1951年当初は「秋草の河畔 西淀温泉」というコピーと草木のイラストで、ふつうの旅館のようだ。しかし、結果としてセックス目的の利用者が増えたため、それっぽさをにおわせるようになる。

「場所が場所なら! こんな広告なんかしなくていいんです くれぐれも場所の悪いのが口惜しいです」(1952年)
「清潔、経済、安全 ただ惜むべしこのホテル地の利を得ず」(1953年)

場所が悪いとへりくだっているふりをして「人が少ないから密会にちょうどいいですよ」とアピール。なんてさりげないシグナルなんだ。

しかも
「上品で御経済でお顔のさゝぬ、ほんとうに涼しい大淀河畔 こんな場所も夏あればこそ!」(1952年)
と夏はノリノリなのに、
「秋風は招く……」(1951年)
「爽涼の秋……」(1953年)
秋はみょうに短い。
秋だけなんでポエミーなの? センチメントの季節? 「……」にときめいて情を交わしていたのなら、まじ可愛い。

本書を通して読むと、長い長い時間の中で、「あーんセックス恥ずかしいよう恥ずかしいよう、でも興味津々!」だった日本人が「別にセックスなんてデートでふつうにすることだし、娯楽の一種だろー」に変わっていく様がわかる。

例えば、1963年、モータリゼーションが進むなか、アメリカ式のモーテルが作られた。旅行者向けを想定していたが、車から人に見られずに部屋に行けるのが喜ばれ、カップルがセックス目当てで押し寄せたという。影響を受け、本来のモーテルを離れ、日本独自のモーテル型ラブホテルが爆発的に増えた。

「監視カメラで車を見たら一人で入ってきてるお客さんかと思うんだけど、よく見るとシートをおもいきり倒してたり…。(中略)あとこれは冗談じゃなくて数回見たことあるんですが、トランクから出てきたりとか…そんな悪いことしてんのかとこっちが思いたくなるくらい、絶対に顔を見られたくないお客さんが多いですね」(モーテル経営者インタビューより)。

1970年代にラブホテル絡みの記事を連載した漫画家は語る。

「その頃週刊誌はね、頭に「ラブホテルの〜」と書けば必ず原稿が売れるんですよ。(中略)書けば書くほど、原稿が売れた。一カ月で三六〇万くらいもらっとった。その当時はラブホテルという名前だけで興奮する人が多かった。今なんかラブホテル行ってきたからと言って、腰抜かす人おらんでしょ?」

現在、ラブホは、「セックスするための場所」から「セックスもできる場所」へと変化したと、著者は結ぶ。気軽に行って、リラックスできて、カラオケやゲームもできる場所なのだと。
そういえば前に、女の子5人で車旅行したとき、「泊めてくださーい」って、ラブホに突撃して雑魚寝した。ふだんラブホに縁のない女子がグループで行くと、珍しさで盛り上がる。
部屋代をプラスチックのカプセルに入れて、空気伝送管でしゅるしゅるぽーんって送って、しゅるしゅるぽーんってお釣りが返ってきたの、楽しかったなあ。
ラブホは女子会に向いている!
郊外のギラギラしたラブホは、今かえって珍しくていい。女子会プランがあったらいいのになあ。(与儀明子)