〈「双子の兄は“縁起が悪い”と養子に出された」父は生活保護、まわりはヤクザだらけ…極道をやめて「薬物から子どもを守るNPO代表」になった男の【壮絶すぎる家庭環境】〉から続く

 アルコール依存症の父と認知症の祖母を一人で介護する「ヤングケアラー」となった小学生時代。学校では教員の心ない言葉に傷つき、空腹を満たすため万引きを繰り返すように--。

【写真】この記事の写真を見る(2枚)

 元極道として人生の再出発を果たし、現在は「薬物から子どもを守るNPO代表」になった佐藤智明氏の新刊『先生は、元極道 元極道講師が子どもたちのために歩む 人生「生き直し」物語』(彩図社)より、歪んだ日常と万引きに手を染めるに至った悲痛な記憶を一部抜粋して届ける。(全3回の2回目)


写真はイメージ ©getty

◆◆◆

ヤングケアラー

 そのころになると、祖父は亡くなっており、家族は父、姉、兄、祖母と僕の5人になっていました。

 姉は中学校を卒業すると、住み込みの仕事に就き、家から出て行きました。兄も就職して家から出ていったので、小学生だった僕はひとりで父と祖母の世話をすることになりました。

 祖母はいまでいう認知症で、病名まではわかりませんが、視力をほとんど失っていました。

 食事を作るのは僕の仕事でした。

 祖母はご飯を食べさせても食べたことを忘れて「ご飯はまだかい?」などと言っています。父は僕が慣れない手つきで作っても、ご飯を食べず一日中お酒ばかり飲んでいました。

 2人の世話のため、僕は学校を休みがちになりました。

学校で先生から言われた「ひどい言葉」

 このころの唯一の楽しみは、姉がたまに心配して家に寄ってくれて、美味しい麻婆豆腐を作ってくれることでした。

 記憶が鮮明になってくるのは、小学校の5年生あたりからです。

 このころから学校に行くと、友だちから無視をされるようになりました。

 理由はしっかり覚えています。

 たまにしか登校しなかったし、学校に来ても担任の先生から「お父さんの具合が悪いと電話があったから帰りなさい」と言われて家に帰ることが多かったからだと思います。たいていは具合が悪いわけではなく、僕にお酒を買いに行かせるための父の口実でした。

 そんなある日、いつものように祖母と父の世話をしていると、登校時間に遅れてしまいました。焦りながら教室に駆け込むと、担任の先生から思いもしない言葉を投げかけられました。

 先生はクラスメイトの前で、「佐藤、お前は社長にでもなったつもりか。こんな遅い時間に登校してきて」と言い放ったのです。

理解してくれない先生、酒に溺れる父親

 僕はその言葉を聞いて、突然、電気のスイッチが切れたように目の前が真っ暗になりました。先生は僕が毎日、どれだけの思いで祖母と父の世話をしているのか知っているのだろうか。どういうつもりで、クラスメイトの前で僕をからかったのだろうか。先生の考えがわからなくて、僕は学校がつくづく嫌になりました。

 家から出ようと思い、学校には行かず、公園で一夜を過ごしたこともありました。でも、僕には行くあても、相談できる人もいませんでした。僕のことを心配してくれる家族も、学校の先生も、僕にはいなかったのです。

 子どもだった僕は、それでも自分がしていること、いま自分がおかれている環境は当たり前のことだと思い込んでいました。祖母の世話もそうですし、父に「お酒を買ってこい」と言われれば、素直に従いました。

 でも、お酒は確実に父をむしばんでいました。

 あるとき、父がいつものように僕を呼ぶので傍に行くと、部屋の誰もいない場所を指さして、「ご先祖様が来ているから、お前も挨拶しろ」などと言い出しました。別の日には、象の置物が動くから見てみろ、などと言っています。父はアルコール依存症でおかしくなってしまったのです。

 僕はすべてに嫌気がさし、学校にも行かなくなりました。

 家のことでいっぱいいっぱいの生活でしたが、一方で、小学校5年生ぐらいからタバコを覚えたり、万引きをしたり、ゲームセンターで“タダで遊ぶ”方法を編み出したり、ゲームの機械からお金を抜き出したりしていました。

初めての万引き

 好きな物を食べたいのに、食べられない。

 それが万引きを始めるきっかけだったと思います。

 父と祖母の食事を作るのは僕の仕事でしたが、生活保護を受けているため、食費は常にギリギリで、自分の食べたい物を買うことはできませんでした。

 でも、食べたい盛りなので、スーパーに行くとどうしても好物に目が奪われます。

 僕はいくらが大好物でした。

 でも、高価なので普通には買えません。

 最初は鮮魚コーナーで見ているだけでしたが、ある日、気がついたら指でパッケージのラップを破って一つまみのいくらをすくい出していました。そして、それを口に入れると、ものすごく美味しいのです。

 それからスーパーに行く度に、同じようなことを繰り返すようになりました。やがてそれがエスカレートしていき、いくらをパッケージごと万引きするようになります。盗んだいくらは、父や祖母に隠れてこっそり食べました。盗んだいくらを食べると、そのときだけ口の中で幸せを感じることができました。

 もちろん、万引きは決して許されない行為だとわかっています。

 どんな状況でも人の物を盗ることは許されないし、もしあのときの自分に会えるのなら「万引きはダメだ!」と叱るでしょう。

 でも、当時の僕には、そうするしか他に道はなかったのです。

母との再会

 母が出ていって2年以上が経ちました。

 その間、母は一度も会いにくることはなかったのですが、僕は毎日のように母の夢を見ていました。

 夢の内容は毎回決まっています。

 電車の繋ぎ目が切り離されて、母と僕がどんどん離され、姿が見えなくなる瞬間にいつも目が覚めるのです。起きると心臓がバクバクしていて、汗だらけでした。

 そんな日々が続いたある日、母から電話がありました。念願であった母との再会が決まったのです。

 駅前の喫茶店で会う約束をした日、僕は母の好きだった歌手の小林旭のカセットテープや僕が集めた宝物を持って行きました。

 待ちに待った母との再会は最高の時間でした。2人でハンバーグを食べて、幸せなときを過ごしました。

 それから母に会う機会が増えていきました。母にプレゼントしたい物が増えたため、僕は万引きを繰り返すようになりました。

生活保護が恥ずかしくて「また万引き」

 中学校に入ると、あきらかに自分が他の生徒とは違うことに気付き始めました。

 その象徴が中学校の通学で使うカバンです。僕は生活保護を受けていたので、市役所から支給されたカバンを使っていたのですが、他の生徒のものとデザインや素材がぜんぜん違いました。僕は生活保護を受けていることが知られるのが恥ずかしくて、他の生徒が使っている学校指定のカバンを当たり前のように万引きしてしまいました。

〈だから彼は暴力団になった…【スキルでも、性格でもない】板前になろうと思った15歳少年を“極道の世界”に導いた「致命的なハンデ」〉へ続く

(佐藤 智明/Webオリジナル(外部転載))