「山崎豊子さん」「池田満寿夫さん」も登場したSNSなき時代の“双方向”連載! 著名人の“お尋ね”に読者が“返事”をする週刊新潮「掲示板」の妙味
週刊新潮の連載記事の中で、創刊号(1956年2月19日号)からはじまり、70年目の現在もなおつづいている唯一の欄が、《週刊新潮掲示板》である。
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現在は、原則として4名の著名人が登場し、最近の仕事の告知のかたわら、探し物などを尋ねる欄となっている。だが開始当初は、毎回6~7名が登場、小言やボヤキ、人探しなどが載る、きわめて自由な「私にも言わせて」風の欄だった。著名人の趣味や、意外な近況を知る面白さもあった。
さらに特徴的なのは、文芸出版社の週刊誌ということもあってか、錚々たる作家たちが登場することだ。新作の資料を探す声も多かった。なかには、この《掲示板》がきっかけで生まれたような名作もあったのである。

吉村昭さん、山崎豊子さんの“お尋ね”とは……
1979年2月15日号に、作家・吉村昭さん(1927~2006)の、こんな“お尋ね”が載った。
〈現在、日露戦争終結時の外務大臣・小村寿太郎を主人公にした小説の執筆準備を進めています。小村外相は、アメリカのポーツマスで行なわれた講和会議に、全権として出席しましたが、その折に随行した方々の、ポーツマスへの旅を記した日記類をご存じの方はおられませんでしょうか。探しあぐねています。なお、随員の高平小五郎、小西孝太郎各氏のご遺族の方ともご連絡を取らせていただきたく思っております。〉
後日、下記の“ご返事”が載った。
〈私は、小西孝太郎の弟・Tの長男ですが、直接の遺族は、妻および娘2人がすでに死亡し、孫もおりません。現在は、私や小西秀次・麒麟麦酒社長をはじめ、甥3人、姪9人がおります。孝太郎の古い書簡類及び日記の一部は、それぞれのところにあるはずですが、日露講和条約の際の日記は今のところ見つかりません。そのほか、何かご希望がおありでしたら、小西秀次または私あてにご連絡下さい。(東京・杉並区 T・K男)〉
この小説が、名作『ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎』である(1979年12月、新潮社刊→現・新潮文庫)。1981年に、石坂浩二が小村寿太郎役で、NHKで全四部の大作TVドラマとなったので、ご記憶の方も多いだろう。この返信が、吉村さんの執筆に直接に役立ったかは不明だが、同書はいまでも文庫になって読み継がれている名作である。
1976年9月16日号に、当時すでに『ぼんち』『白い巨塔』『華麗なる一族』などで知られていた山崎豊子さん(1924~2013)の“お尋ね”が載った。
〈お嫁さんを探しています。インドネシアの北スマトラ奥地で農業開発に従事する、若い商社マンのために--。〉
少々長いのでダイジェストすると……山崎さんは、前年に取材でインドネシア奥地を訪れた。三井物産と現地法人コスゴロの合弁会社による「ミツゴロ農場」である。ジャカルタから飛行機、ジープに乗り継いで、さらに悪路を2時間。〈電気も水道もなく、井戸の水も口をゆすいだだけで下痢するほどです。マラリアの危険におびやかされながら、現地人の作業を指示する〉日本の若き商社マンたちの悩みは、〈嫁の来手がない〉ことだった。そこで山崎さんは〈ともに開発作業に従事したいというお嬢さんはいませんでしょうか。〉と、呼びかけたのである。
この時期、山崎豊子さんは「サンデー毎日」で、大作『不毛地帯』を連載していた(1973~78年連載。現・新潮文庫)。主人公・壱岐正の息子が“五井物産”に入社し、インドネシアの農業開発に従事するエピソードが登場する。おそらくその取材で現地を訪れたと思われる。ちなみにこの農業開発は困難を極め、最終的に三井物産は国に事業を移管して撤退している。
「ナンキンムシに食われない方法を教えてください
豊田有恒さん(1938~2023)といえば、「鉄腕アトム」「宇宙戦艦ヤマト」といったアニメーションに携わったSF作家として知られるが、のちに独特な歴史小説も多く書いた。1979年2月22日号に、いかにも豊田さんらしい“お尋ね”が載った。
〈壬申の乱について調べている。大友皇子は、西暦672年7月に近江京で死んだとされている。ところが、小田急沿線の神奈川県伊勢原や、房総半島などに、大友皇子の墓と伝えられる古墳がある。皇子が近江京を脱出して東国へ落ちのびるという設定で、小説化してみたい。途中の道筋にあたる岐阜、愛知、静岡には、大友皇子にまつわる伝説や墓などは、ないものだろうか? ご教示いただければありがたい。〉
さっそく翌月、“ご返事”が載った。
〈祖父から聞いた話ですが、私の生まれ故郷の三重県三重郡菰野(こもの)町には、大友皇子が壬申の乱に敗れた後、この地に落ちのびてきたという伝説が、皇子ヶ原という地名とともに残っております。近江から、かつての交通の要所であった八風峠(鈴鹿山脈)を越えてきたのではないでしょうか。(名古屋市 M・Y樹)〉
豊田有恒さんの構想は、1990年に小説『大友の皇子東下り』(講談社刊)として形になる。“ご返事”が参考になったのか、作中にはたしかに皇子たちが「八風峠を越える」エピソードが登場するのである。
作家の“お尋ね”は、小説の素材ばかりではない。海外の僻地に行く機会の多かった曽野綾子さん(1931~2025)は、こんな“お尋ね”を投稿している。
〈今夏、聖パウロの調査のためにトルコへ参ります。僻村で宿泊する際の知識がございませんので、お教えくださいませ。(1)ナンキンムシにくわれない方法(もしあれば)。(2)くわれた場合のかゆみを止める有効なクスリ。(3)荷物に混入するかもしれないムシの防除法。--ご経験をお持ちの方のお教えをいただきたく存じます。〉
翌月、〈戦時中に応召した時の体験〉だという、長大な返答が載った。この号の“ご返事”欄は、この1通のみで埋まってしまった。ダイジェストしてご紹介すると、
〈まずナンキンムシに食われない方法としては、就寝時に皮膚を露出しないよう長袖シャツ、軍手、タイツなどを着用する。軍隊では、手首、足首までの下着を着用していましたが、着衣の中は一度も食われませんでした。かゆみ止めについてはしかるべき薬剤があると思いますが、かゆくても我慢してかかないことが肝要です。かくほどにかゆみが増し、しまいには患部が崩れてアワレな状態になります。なお衣類は煮沸消毒が最も有効かと思います。一度では残っている場合でも、二回目の煮沸で百%絶滅します。(千葉市 K・S郎)〉
版画家で芥川賞作家の池田満寿夫さん(1934~1997)は、1979年4月26日号で、こんな“お尋ね”を掲載している。
〈高校を卒業して長野から東京へ出てきた私は、飲屋の片隅や街頭で似顔絵かきをやっていたことがありました。1952年から57年までの間で、その間に、東京芸大の受験に失敗したりしたこともあり、私にとって最も苦しい時代でした。もう、当時私が描いた似顔絵をお持ちの方がいらっしゃるとも思えませんが、もし、どなたか保存しておられたら、一度再会してみたいような気もします。どれにも「池田」のサインを入れてあったと記憶していますが……。〉
池田さんは〈お持ちの方がいらっしゃるとも思えませんが〉と半ばあきらめの様子だが、似顔絵は、ちゃんと残っていた。翌月、こんな“ご返事”が載った。
〈ちょうど(池田さんが)アメリカにお発ちになるという数日前に、阿佐ヶ谷にありました「T」というバーで、似顔絵を描いていただき、現在でも大事に保存しております。当時のことが昨日のことのように思い出され、懐かしい思いがいたします。(東京・中野区 S・E子)〉
「原稿料が来ない」作家と、楽譜をなくした“世界のタケミツ”
作家・エッセイストの森茉莉さん(1903~1987)は、森鴎外の2番目の妻の長女で、である。当時、週刊新潮でTV評「ドッキリチャンネル」を連載しており、独特な表現による強烈な批評がたいへんな評判となっていた。次は誰がどんなふうに書かれるのか--芸能界は、毎週木曜日の週刊新潮の発売を震えて待った。そんな森茉莉さんが、1980年1月31日号に、困惑顔の写真とともに、以下のような驚くべき“お尋ね”を掲載した(当時77歳)。
〈本誌に連載の「ドッキリチャンネル」にも書いたことですが、佐藤佑介と黒沢浩について、ある雑誌に原稿を書いたことがあります(注:ともに往時の美少年俳優)。ところが、原稿を雑誌社の方にお渡しして数か月になるのに、いまだに掲載誌も、それから稿料も送ってもらえないでおります。ものを書きはじめて二十余年、そんな不思議な経験は皆無でしたので、雑誌の名をひかえておいたりしませんでした。私のつけた題は「佐藤佑介、黒沢浩」というのですが、もしお読みになった方がいらっしゃいましたら、その雑誌名をお教えいただきたいと思います。もう一回、実は同様の不思議な経験があります。そちらの題は「玉三郎、その他の女形」というものです。前者は四百字原稿で四枚程度、後者は七枚半です。〉
これにかんして“ご返事”は掲載されていないが、おそらくすぐに判明したはずである。当時、週刊新潮に在籍していたあるOB氏によると、
「森茉莉さんは、強烈で面白い文章をお書きになる一方、とにかく物忘れが激しく、よく編集部に電話をかけてきては、毎回『あの~、ご担当の方、なんとおっしゃいましたか、お名前を忘れてしまったのですが、原稿ができておりまして……』と、申し訳なさそうに話していました」
最後に、ある意味《掲示板》を契機に世界的な名曲が生まれた--ともいえる“お尋ね”をご紹介しよう。1978年4月13日号に、当時すでに“世界のタケミツ”と称されていた大作曲家、武満徹さん(1930~1996)が登場したのだ。
〈ふとした不注意から、私の処女作である『ピアノのための“二つのレント”』のオリジナル楽譜を紛失してしまいました。書籍や新聞等を整理した際、誤ってその中に紛れ込んでしまったらしいのです。楽譜の表には、イタリア語で“Lento in Movimenti”と書かれ、私のサインも入っていたはずです。ただ一部しかない楽譜で、私自身も二度と同じものを書くことが出来ないのですが、もし万が一にもお心当りのある方はご一報ください。--六月初旬に東京・西武劇場で行われる『今日の音楽』というコンサートで演奏したいと思っているのです。〉
1950年作曲のコンサート・デビュー作《二つのレント》は、さる高名な音楽評論家に「音楽以前である」と酷評されたことで、後年、かえって有名になったピアノ曲である。当時としてはあまりに先進過ぎる音楽ゆえ、一朝一夕には理解されなかったのだ。この評を読んだ武満さんは、映画館の暗がりのなかで泣いたという。
だが、楽譜は見つからなかったようだ(後日、知人の作曲家宅で見つかったが、それはオリジナル楽譜ではなく、筆写譜だったという)。結局、武満さんはオリジナル版を“復活”させることはあきらめる。
1989年にイギリスの音楽プロデューサー、マイケル・ヴァイナーが逝去した際、武満さんが追悼曲を書くことになった。そこで、記憶をもとに《二つのレント》を、《リタニ(連祷)~マイケル・ヴァイナーの追憶に》と題して再構成し、初演・出版した。
いまでは世界中のピアニストが演奏・録音している名曲だが、もし《掲示板》の“お尋ね”で楽譜が発見されていたら……後年、《リタニ》は生まれていなかったかもしれない。
※《掲示板》本文の引用は、主旨を変えない範囲で一部表記の変更、省略があります。また文中のイニシャルは、記事ではすべて実名です。
森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。
デイリー新潮編集部
