【「積水化学」の内定がパー】「野球部の部長になりなさい」…「PLの教主」に逆らう選択肢はなかった「教団の子」
プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語--。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第23回「教団の子」(後編)
【前編を読む】板東英二の契約金は王・長嶋より高かった…慶應進学を諦めた末の「中日入団」と同じ日に大学野球界で起こった「学習院優勝」という事件
長嶋茂雄との対戦
PL学園卒業後の1956年、学習院大学に進学した井元俊秀は、野球漬けの日々をすごした。70年経った今、彼はこう回想する。
「私は見ての通り身長も高くない。170㎝くらいしかない。桑田(真澄)も大きくないけど、桑田には並外れた運動神経と身体のバネ、いい筋肉があります。私にはそれがない。それなのに監督の島津さんは『井元は投手に向いている。投手をやれ』と言った。理由は今もよくわかりません」
「島津さんに命じられるまま、毎日、投げ込みをやってました。そうしたら島津さんが『いいか、シュートを覚えろ、握りで投げるんだ』って言うんです。それで付きっ切りで指導していただいた。島津さんは練習は厳しかったけど、本当に優しい人でした」
井元が2年生のときには、立教大学野球部と練習試合で対戦してもいる。当時の立教はエースの杉浦忠(のち南海)を筆頭に、長嶋茂雄(のち巨人)、本屋敷錦吾(のち阪急→阪神)、拝藤宣雄(のち広島)とその後プロ入りする選手を4人も抱える東京六大学野球のスター集団だった。
「長嶋さんはいつも午前中は寝ていて休養も十分。我々は午前中から島津さんに絞られてたものだから、まったく体力が違うんです。いざ試合が始まったら、長嶋さんに初球をダーンと打たれて『凄い打球だなあ』と驚きました。杉浦さんのシュートを初めて見たのもこのとき。胸元にグイッと迫ってレベルが違った。試合は立教が勝ちました」
それでも前述の通り、井元が3年生のときに学習院は東都大学野球秋季リーグで優勝をはたし、井元も最優秀投手に選ばれた。その栄光の記憶は彼にとって野球人生の掉尾を飾るに相応しいものとなるはずだった。
4年生の秋を迎え、大学卒業を控えた井元俊秀が就職先に選んだのは積水化学工業だった。創業者が鹿児島出身だったからだ。
「積水化学には私から伝える」
日本窒素肥料株式会社(日窒)を興した鹿児島出身の野口遵こそ、積水化学工業の実質的な創業者となる。野口は故郷から程近い水俣市に窒素工場を建てたのを皮切りに、各地に化学と繊維の工場を建て、1927年には日本統治下の朝鮮の興南(現・朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市)に水力発電所も含む一大工業地帯を築いている。
5年後には同じく朝鮮北東部の羅南に化学と繊維の工場を建設している。羅南は井元俊秀の出生地である。鹿児島出身である井元の父親は、教員を辞したのち商社に勤務したというが、野口遵が鹿児島県人を積極的に採用し、関係を取り結ぶという徹底した同郷主義を採ったことを思うと、羅南に赴任した井元の父親も、日窒と何らかの関わりがあったのかもしれない。
敗戦後、GHQ(General Headquarters=連合国軍最高司令官総司令部)が命じた財閥解体に則って日窒コンツェルンは、日本チッソ、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の5つの会社に分社化された。大学卒業後の進路として、井元俊秀がその一つである積水化学工業を選んだのは必然だったようにも映る。
先方にとっても鹿児島県が本籍地で、羅南に生まれ、東都大学秋季リーグで最優秀投手に選ばれ、学業も優秀だった井元を入社させない手はなく「内定はすぐ出た」と井元本人は記憶する。とすれば、野球は一区切り付けることになった可能性は低くなかったのかもしれない。
しかし、ここでPL教団教主である御木徳近が、卒業を目前に控えた井元にこう命じた。
「卒業したら大阪に帰って来なさい。そして教団本庁で職員として勤務しなさい。積水化学には私から伝えるから心配はいらない」
これまで述べてきたように「教団の子」である井元にとって教主の指示は絶対で、井元は内定を断って、学習院卒業後は富田林に帰還、本庁勤務の教団職員となった。
この進路変更が、井元俊秀と野球を再びつなげる奇縁をもたらした。職員になってすぐの井元に教主はこう命じたのだ。
「野球部の部長になりなさい」
「これからは君が野球部の監督をやりなさい」
PL学園第1期生だった井元俊秀が、野球部の実質的な創始者であることはすでに触れた。部員を集め、グラウンドを馴らし、他校に練習試合を申し込み、臨時監督兼エースとして奮闘し、高野連に加入を申請して断られたことも先に述べた通りである。
その後、PL学園を卒業した井元が、学習院大学に進学するため上京すると、教団本庁職員の崎山道生が野球部に顔を出すようになった。この崎山こそPL学園野球部初代監督である。彼もまた「教団の子」で、都立城南高校を経て早大に進学。早大卒業後の1956年4月、上京した井元と入れ替わるように富田林に帰還し本庁職員となっていた。おそらく、そのタイミングで監督就任を命じられたのだろう。
しかし、野球部としての活動実績はほとんど確認出来ず、僅か数カ月で監督の座から退いている。その後の崎山道生はPL教団岡山教会の代表者として、その名を見つけることが出来る。
程なくしてPL教団本庁は、元明大野球部主将の布谷武三を招聘する。教団以外の野球関係者を監督に据えたのだ。旧制甲陽中学時代は春のセンバツで甲子園に出場し、明大時代は俊足巧打で鳴らした名二塁手だが、これも長くは続かず布谷は1年半で退任する。
次いで監督に就任したのが立教野球部OBで、卒業後はプロ野球の大映スターズ(現在の千葉ロッテマリーンズの前身の一つ)、松竹ロビンス、洋松ロビンス(いずれも現在の横浜DeNAベイスターズの前身の一つ)に在籍した綱島新八だった。綱島も教団外の監督だった。
井元俊秀が野球部部長に就任したのは、綱島体制3年目の1960年春からである。
「部長というのは決して表に出る仕事ではありません。『どうしたら強くなるか』ということをグラウンドの外からひたすら考える仕事で、言ってみれば裏方。でも、毎日話し合ったりはしましたよ。『野球部の寮を作ってはどうか』と最初に提案したのもこの頃でしたかね」(井元俊秀)
部長に就任して1年が経った1961年の夏の終わり、教主の御木徳近は井元俊秀にこう告げた。
「いいですか、秋からは君が野球部の監督をやりなさい」
【毎週水曜日更新】9月23日配信の第25回に続く
