【豊臣兄弟!】長久手の戦いは「戦国屈指の組織戦」 ドラマで描かれた“せせこましいチャンバラ”への違和感
あまりに箱庭的な戦闘場面
羽柴秀吉(池松壮亮)は、織田信雄(山脇辰哉)と徳川家康(松下洸平)の連合軍との戦(小牧・長久手の戦い)に突入したが、膠着状態が続いていた。とくに家康らは、かつて織田信長(小栗旬)が居城にした小牧山城(愛知県小牧市)を再整備して本陣とし、これが堅固なので、秀吉方は攻めあぐねていた。
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そんなとき池田恒興(堀井新太)が申し出た。「わしが撃って出る。わしが攻めるは岡崎じゃ。徳川がいつまでも小牧山に籠って動かぬなら、その先に三河(註・愛知県東部)を攻め取ってしまえばよいのじゃ」。それを聞いた秀吉は、「悪うないのう。池田殿、そなたに2万の兵を任せる」と答えた。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第35回「秀長誕生」(9月13日放送)。

その後、秀吉の甥の三好信吉(山田涼介、のちの羽柴秀次)が、「そのお役目、この信吉にお任せください。この信吉、大将を務めとうございまする」と申し出て、秀吉はそれを受け入れた。ともかく、こうして天正12年(1584)4月6日、信吉を大将とする羽柴方の別動隊は、三河に向けて進軍をはじめたが、その動きは、じつは徳川方に察知されていた。
陣幕の内側で、大将の信吉は「徳川はまだ動いておらぬ。さあ、みな、いまのうちに英気を養うのじゃ」と諸将に伝えた。なかには「しかし、大事ないでしょうか。いまこうしているあいだに攻め込まれては、ひとたまりもありませぬ」と進言する者もいたが、信吉は「敵が小牧山を出れば、真っ先にわれらに知らせが届くことになっております。案ずることはございませぬ」と、平然と構えている。だが、突然、粥を焚く鍋が音を立てて揺れはじめ、「敵じゃあ、敵じゃあ」という叫び声が聞こえ、陣幕を倒して敵がなだれ込んできた。
家康の重臣、榊原康政(栗原類)を筆頭に、井伊直政(阿久津仁愛)も含む家康方の軍勢が、それこそ小学校の教室に突然乱入したくらいの近距離に現れたのである。この策を提案した池田恒興も、嫡男の元助(柴崎楓雅)も、すぐに打ち取られてしまった。
それにしても、この場面、あまりにも箱庭的ではなかったか。
万単位の軍勢の戦いが数十人にしか見えない
4月9日の早朝に勃発したこの長久手の戦いの経過は、文字にすると『豊臣兄弟!』とのズレは大きくない。6日に秀吉は、三好信吉を総大将とし、この作戦を献策した池田恒興と元助の親子や森長可らが加わる2万4,000の軍勢を三河に向けて進軍させた。だが、秀吉方の動きを察知した徳川方は、榊原康政らを先陣とする部隊が、この羽柴方の別動隊を急追した。そして、最後尾にいて朝食をとっていた信吉の部隊に襲いかかった。
信吉の部隊は不意を突かれて総崩れになり、事態は先を行く池田父子や森長可の部隊に急いで知らされた。報を受け急いで引き返してきた池田および森の部隊は、榊原康政らの先陣に続いて到着した家康の本隊とのあいだで激戦になり、激しい銃撃戦と白兵戦が繰り広げられた結果、池田父子は討ち死にし、森長可は眉間を銃で撃たれて即死した。
だが、このとき羽柴方の軍勢は2万4,000もいたのである。合戦の規模は、数十人規模の戦いにしか見えなかった『豊臣兄弟!』の描写の何百倍におよんだと思ってまちがいない。
大河ドラマはいま予算不足に加え、ロケ地を確保し撮影の許可を得る困難などもあり、戦闘場面をなるべくスタジオ内のセットで撮影しているという。だから、致し方ない面もあるとはいえ、ロケが困難でセットしか使えないなら、割り切って戦闘中のある場面だけをズームアップして描き、合戦の全体を表現しようとは思わないほうがいい。
『豊臣兄弟!』で描かれた長久手の戦いでは、信吉の部隊が朝食をとっているとき、せいぜい十数メートルしか離れていない陣幕のすぐ後ろまで敵勢が迫っていた。だが、信吉隊だけでも数千はいて、大将の周りを分厚く取り囲んでおり、信吉の目の前に敵勢が急になだれ込むことなど、絶対になかった。しかも、銃撃戦が行われたのは明らかなのに、鉄砲が一切描写されない。これでは当時の戦闘スタイルが視聴者に伝わらない。
戦場では刀でなく槍が使われた
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録(『イエズス会日本会報』)には、「双方の死者については未だ確実なことを聞かないが、通常言うところによれば、一万を超え、その大部分は羽柴方であった」と書かれている。合戦はかなり大規模で、羽柴方が完膚なきまでに打ちのめされたことがわかる。
その戦い方は、両軍が最新の戦術や高度な統制力を駆使したもので、戦国時代の戦史においても屈指の組織戦だったと考えられる。敵味方が入り乱れての白兵戦も、前述のように局地にはあったが、それは組織戦の細部にすぎず、『豊臣兄弟!』に頻繁に出てくる武将同士の一騎打ちに至っては、きわめて例外的だった。
そうした観点からすると、『豊臣兄弟!』の戦闘場面は、当時の戦闘を映し出しているとは到底いえない。長久手の戦いにしても、主要な登場人物や時系列は史料とおおむね重なるが、人物の動き方は往時とまるで違うと考えていい。『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する2人の研究者は、史料へのこだわりが強い方々で、実際、長久手の戦いの描写は、文字にすれば史料との齟齬は小さい。だが、史料に書かれた意味を解釈し、当時を生きた人間の動きを蘇らせることはできていない。
長久手の戦いの描写では、主に徳川方の兵士は槍を使っていたが、『豊臣兄弟!』のこれまでの戦闘場面は、刀による戦いが中心だった。だが、戦場で刀が使われるのは接近戦になってからで、基本的には柄が長い槍が使われた。また接近戦でも、長い太刀や大刀は敵を斬るより、叩きつけ転倒させる目的で使われたと考えられている。敵と組み討ちになって、鎧の隙間から突き刺したり、仕留めたのちに首を斬り落としたりするためには、短い脇差が使われた。
チャンバラは戦国の実相からほど遠い
鈴木眞哉氏の『刀と首取り 戦国合戦異説』(平凡社新書)には、戦場で一番使われたのは弓矢で、鉄砲の普及後は鉄砲だったと記されており、同様の見解を示す研究者は多い。また同書には、戦国期の合戦における軍忠状(自分の軍功を報告し、後日の論功行賞の証拠にした文書)など201点に記された負傷者の内訳を調査した、興味深いデータが載せられている。
それによると負傷者1,461人の内訳は、「矢疵・射疵」が最多の604人で、次が「鉄砲疵」で286人、以下、「鑓疵・突疵」が261人、「石疵・礫疵」が150人と続き、「刀疵・太刀疵」は56人にすぎない。「切疵」の33人(刀による切り傷とはかぎらない)を加えても89人で、全体の数%にすぎない。つまり『豊臣兄弟!』に頻出するチャンバラの場面は、戦国時代の実相とはほど遠く、近代に成立した剣劇や、その影響を受けた映画にはじまった描写だと考えられる。
以下のような描写も、当時の合戦への誤解につながりかねない。『豊臣兄弟!』の第33回「北庄(きたのしょう)城の別れ」(8月30日放送)における、羽柴方の軍勢が柴田勝家(山口馬木也)の籠る北庄城(福井市)を攻めた場面でのこと。小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)は、勝家の妻の市(宮﨑あおい)のことが気になり、秀吉の制止を振り切って天守に向けて駈けていった。そして、勝家と市が天守最上階から飛び降りるのを目の当たりにする。
だが、このとき北庄城には3,000からの兵がいて、それを秀吉率いる1万8,000が取り囲み、さらには総攻撃をはじめていた。城内で攻城側と守備側の兵が入り乱れる以前から銃弾が飛び交って、とてもではないが天守に近づける状況ではない。万が一、いや億が一くらいの確率で天守にたどり着いても、その狭い内部で戦い抜き、最上階まで登ることなど、特殊なサイボーグでも困難だ。
このところ『豊臣兄弟!』については、史実の歪曲が話題になっている。しかし、「史実を外していない」とされる描写でも、当時の常識に照らせば、あり得ない場面が次々と描かれているのである。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動を行うほか、歴史的な視点を応用し、経済から文化まで現代のさまざまな社会状況にも言及。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
