昭和天皇が埋葬されている武蔵野陵(時事通信フォト)

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 宮内庁が上皇の意向を踏まえ、将来の葬儀を大幅に縮小する方向で検討していると一斉に報じられた。象徴天皇としての務めを全うし、常に国民に寄り添ってきた上皇らしく、「国民生活への影響を極力少なくしたい」という思いが背景にあるとされる。上皇がそうした思いを抱くに至った「天皇の葬儀」をめぐる歴史を紐解く--。【全3回の第2回】

【写真】昭和天皇の「大喪の礼」。“八瀬童子”の装束を身に着けた皇宮護衛官に担がれ葬場殿へ向かった

明治時代になるまで進んでいた「天皇の薄葬化」

 ここで重要なのは、天皇の土葬も、重い殯(もがり)の儀式も、古来続いてきた天皇の葬儀の伝統とは言えないことだ。その点を掘り下げると、上皇が葬儀の縮小にどのような思いを込めたかも浮かび上がってくる。

 古墳時代の天皇は土葬だったとされるが、『日本書紀』に続く勅撰史書『続日本紀』には、飛鳥時代の41代持統天皇(702年崩御)が火葬された記録があり、初めて火葬された天皇とされる。

『火葬秘史』(小学館)で歴代天皇の埋葬の歴史を描いたジャーナリストの伊藤博敏氏が語る。

「天皇などの葬儀には大量の副葬品や巨大な墳墓を造成して葬る厚葬と、墳墓の規模や副葬品を縮小し、葬儀を簡素に行なう薄葬があります。中大兄皇子(後の38代天智天皇)による大化の改新のなかで発布された『薄葬令』で手厚い葬儀を禁じた。天智天皇の娘である持統天皇は『葬儀は倹約せよ』という遺詔(遺言)を残し、1年間の殯の後、奈良の飛鳥岡(明日香村)で火葬された記録があります。持統天皇以降、42代文武天皇から44代元正天皇まで火葬が続き、45代聖武天皇から52代嵯峨天皇までは土葬、53代淳和天皇は火葬の上に散骨という徹底した薄葬を望みました」

 古代から中世までは土葬と火葬が混在していたのである。

「1374年に亡くなった北朝4代後光厳天皇からは仏式の火葬が本格化し、『御寺』と呼ばれた皇室の菩提寺である京都の泉涌寺(せんにゅうじ)で荼毘(だび)に付されるようになり、江戸時代初期の107代後陽成天皇までは仏式の火葬が続きます。その後の108代後水尾天皇から120代仁孝天皇までは土葬になりましたが、仏式の薄葬でした。現在の神道式の土葬となったのは明治天皇の父の121代孝明天皇からです」(伊藤氏)

 土葬された後水尾天皇から仁孝天皇までの天皇の墓は泉涌寺の境内に石塔が建っている。

 天皇葬礼における「殯」の儀式も、62代村上天皇(967年没)からは記録になく、1912年の明治天皇葬まで行なわれていなかったとされる。

 つまり、明治になるまでは天皇の薄葬化が進んできたのだ。

 神祇祭祀と皇室制度が専門の久禮旦雄・京都産業大学法学部教授は天皇の葬儀が厚葬化したのは明治以降だと語る。

「幕末の孝明天皇は仏式で葬儀を行ない、古代の古墳のような陵を造営して埋葬された。その頃から天皇の権威が高まり、天皇の葬儀も仏教伝来前の古代の方式に戻そうという勢力が台頭したわけです。その勢力が明治維新を成し遂げたことで、明治天皇の葬儀以降は大規模な厚葬となった」

 明治政府は神道を国家の祭祀とする国家神道への道を進めた。「神仏分離令」で皇室の菩提寺だった泉涌寺は天皇の葬儀ができなくなり、明治天皇の葬儀は神宮外苑で神式で営まれ、73棟の仮設の施設が建てられて皇居から斎場まで2万人の葬列が続いた。明治天皇陵(伏見桃山陵)以降は古代の「上円下方墳」と呼ばれる形式で造営されている。

(第3回に続く)

※週刊ポスト2026年9月25日・10月2日号