2025年5月、昭和医科大学に1928年の創立以来初めての女性学長が誕生しました。上條由美さん。眼科医から病院経営、そして大学のトップへ。その異色のキャリアを支えたのは、父と母から受け継いだ「自由」と「覚悟」でした(企画・構成・MC:池松潤 撮影:本社 武田裕介)

【写真】「至誠一貫」の文字をバックに

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昭和医科大学 学長、上條由美さん

1988年 日本大学医学部卒業
1992年 昭和大学大学院 医学研究科 病理系第二薬理学修了(医学博士)     
2010年 米国ワシントン大学大学院 医療管理・経営学修了(医療経営学修士)
2014年 昭和大学江東豊洲病院 副院長
2021年 学校法人昭和大学 副理事長
2025年 昭和医科大学 学長
※2025年4月:昭和大学は「昭和医科大学」へ校名変更

記事と動画をあわせてお楽しみください。
Youtube URL→ https://youtu.be/3xan3oelRV0

聖心から、日本大学 医学部へ

池松:上條さんの幼少期、子どもの頃ってどんな感じだったのでしょうか?

上條:父は医者だったのですけども、母はアメリカ生まれのアメリカ育ちで、非常におしゃれな母でした。結婚した当初からホットケーキを出し、それを父が初めて食べて、びっくりしたそうです。私たちの育て方もすごく自由で、何でも好きなようにしていいっていう感じで育ちました。小中高を過ごしたのは聖心女子学院。当時は聖心女子大にそのまま推薦でいくのが普通で、その後、いいところ就職して、いいところにお嫁に行くという感じでした。だからちょっと異端児だったかもしれませんね。

池松:では、なぜお医者さんになろうと思われたのですか?

上條:人のために何かできるようなものを目指したいっていうのは、やはり父を見ていたからでしょう。しかし、将来医者になるように、なんてことは、一度も言われたことがなかったですね。

池松:学校のお勉強は好きなほうでしたか?

上條:本当に申し訳ないのですが、私は体育の方が得意で(笑)。そんなに元々学業は優秀ではなかったので、大学から必死に頑張りました。

「今からやればいい」--母の言葉に背中を押されて

池松:上條さんは、2度アメリカに留学されているんですね。

上條:母がアメリカ育ちで、憧れがあったのです。アメリカに行きたいって母に言った時、『それなら(アメリカの)真ん中に行け』と。『本当のアメリカを見たいのだったら真ん中に行け』と言われて、カンザス大学に行ったんです。日本人はほぼいない、といった環境でした。

池松:2回目は40代ですよね。大英断ですね。何がきっかけだったのでしょう?

上條:私は眼科医です。もともと白内障の手術をたくさん行ってきて、患者さんに喜んでもらえるのがすごく嬉しくて。でも、色んな病院に出張に行ったら、病院の経営がすごく難しいことがよくわかりました。それで、もう一回勉強してみようと思ったのがきっかけです。

池松:なるほど

上條:修士を取りに行ったのですが、もうめちゃくちゃ大変でした。皆さん専門職で来てますし、議論するとかそんなレベルではなかったので、自分が思ったことを一生懸命考えて英語で言わなきゃいけないのが一番大変でしたね。

池松:辛かった時、どうやって立て直してきたのでしょう?

上條:留学へ行く前に、「もうちょっと学校でちゃんと英語を学んでおけばよかったなぁ」って家でボソッと言ったのです。そしたら、母が「いつ行くからっていうんじゃなくて、今だから。間に合うんだから、今からやればいいんだ」と言われて。「なるほど、今からか」「そうか、まだ間に合うのか」と思うようになりました。そこからは、もう前に進むしかないなと。(笑)

「小学1年生と一緒ですよ」--新しい病院での気づき

池松:江東豊洲病院の副院長時代のことをお伺いしたいのですが。

上條:人生のうちで、新しい病院の建て替えに巡り会えることは、なかなかありません。開設準備期から参加できたので、すごく勉強になりました。

池松:経営の視点で「これは知らなかった」というようなことはありましたか?

上條:「そんな所をみんな気にするの?」というのがありました。例えば、自分の机やロッカーなどは、限られたスペースなので共有をお願いしたのですが、皆さんは個人ごとのスペースを主張したのです。当初は「なんで?」と思ったのです。そしたら、「上條先生、小学1年生と一緒ですよ」と言われまして。「新しいものを作る時には、新しい机があって……というのは、気持ちの問題だから大事なことなんです」と説明されたのです。そこから「なるほど」と、気持ちが理解できました。1人1人の職員にとって、こういうことは大事なのだと。視点を変えて考えることの大事さの勉強になりました。

池松:富士吉田や鷺沼など、キャンパスが多いと大変ではないですか?

上條:なかでも富士吉田は、距離的に離れているので一番大変です。いまの時代に大学1年生で寮に入るというのは、抵抗があると思うのです。隣の子にもスマホで連絡するような時代ですから。それがうちの大学を選ぶのにハードルになってるところはあるかもしれないんですが、卒業生に聞くと、「めっちゃ楽しかった!」って言っています。都会じゃないですから、遊ぶところも限られてますし、みんなで24時間一緒にいるわけなので、すごく濃密です。そこで友情も芽生えるでしょう。卒業式の日に、「何が一番楽しかった?」って聞いたら、みんな「富士吉田」って言います。

「聞く、伝える、守る」--至誠一貫に込めた3つの信念

池松:「至誠一貫」という言葉、上條さんの中でどのように思われているんでしょう?

上條:『まごころを尽くして、常に患者さんに寄り添う』というのが至誠一貫の意味ですが、私は3つのことを考えています。
まず聞く。よく聞くこと。傾聴することです。声にならない言葉もありますよね。そこまでも、ちゃんとよく聞くことが一番大事だと思います。
2番目は伝えること。自分の言葉を使って、相手の不安や心配を取り除くような言葉をかけられること。
3つ目は、守ること。患者さんとか弱い人の立場を守ってあげること。これが、何よりも大事なことだと思います。

聞く、伝える、守る。この3つが「至誠一貫」の基本だと思っています。

「(眼が)見えるんです!先生」--そして次の100年へ

池松:若い世代の方にメッセージをお願いします。

上條:医療ってそんなに甘くないんですよ。
「私、失敗しないので」ってドラマがありますよね。あれは番組の中の世界であって、現場ではありえません。かっこいい部分だけではないのです。本当はもっと泥臭いんです。
私は眼科医として15年働きましたが、白内障の手術をした翌日に、眼帯を外して患者さんが言うのです。
「見えるんです!先生」と。

患者さんに「ありがとう」と言われるのが本当に嬉しいですね。医者冥利に尽きるとはこのことだと思います。

人に喜んでもらえることが嬉しいと感じられる人には、ぜひ我が校へ来てほしいと思います。医療とはそういう職業だと思います。

池松:読者に勇気が出る言葉やエピソードがあればお伺いできますか?

上條:実は先日、東京マラソンを走ったんです。

池松:ええっ!?

上條:10数年前に走ったことがあるのですが、すごく楽しかったからずっと毎年応募はしてたのです。もちろん当選することもありませんでした。そうしたら、10数年ぶりに抽選に当たったのです。
しかし全然走ってませんし、犬の散歩くらいしかしてなかったのですが、やはり挑戦してみようと思い、4ヵ月くらい前から週に1回か2回ちょっとずつ走って練習しました。なんとか完走できました。

池松:凄いですね。翌日は大丈夫でしたか?
上條:その翌日に、母の誕生日会があったのですが、車椅子を押していて自分が車椅子に乗りたいと思いました。もう情けないくらい足がヨロヨロでしたが、やはり東京マラソンに出た充実感はありました。

池松:もうすぐ創立100周年ということで、一番伝えたいことは?

上條:100周年は、大きな節目だと思うのですが、ここで終わりではありません。ですから「ここからまたスタート」という気持ちになれたらよいと思います。

池松:自分の人生を振り返ったらどう思います?こんな人生になると思っていました?

上條:全然思ってなかったですね。私立の女子校から上がって、一番先に結婚してしまうと思っていたのに、なぜかその時の道をポンポンと選んできちゃった感じです。全然こんな人生になるとは予想もしていなかったですね。

池松:なるほど。やはり人生を振り返ると、お母様の影響が大きかったのでしょうか?

上條:父の背中を見て、母に押されたって感じでしょうか。

池松:毎日の習慣で気をつけていることはありますか?

上條:なるべく「笑う」ようにしてます。
楽しくやらないと長続きしないし、人生も楽しくないですよね。毎日楽しいことを見つけて笑うようにしています。

WEB記事限定 特別インタビュー
動画収録後、さらに上條学長にWEB記事限定のお話を伺いました。

「どんな医師になるかが大事だ」--19歳で亡くした父

--お父様の上條和也さんについてお伺いできますか。

上條:私が19歳の時に亡くなってしまいました。60歳で、ちょうど私が大学に入った年です。実は、最初の年に受験した時、昭和大学を落ちてしまったのです。勉強をしていなかったし浪人すればいいやと軽い気持ちでいました。だから「もう1年やりますよ」みたいなノリだったんですけど、そしたら父がこう言ったんです。

「どこの大学を出たかではなく、どんな医師になるかが大事。学校を選んでる場合じゃない」

父が教育者であり、医者としてどんな人だったか?というのは、実際に私は見ていません。しかし、父の教室にいた方、後輩の方々から話を聞くと、たくさんの人を育ててきたのだと感じます。だから、人を育てることが一番大事なのかと思っています。
私にとっては、優しいお父さんでした。怒られたこともないし「なんでもしていいよ」という感じだったので、理想の父親でした。もし今いたら、もっと色んな話ができたかもしれませんね。「お前が学長か……」と笑ってるかもしれませんが。(笑)

父が始めた全寮制教育--ハーバード大学の寮がモデル

--新設された、富士吉田キャンパスの経緯についてもお伺いできますか?

上條:父は海外で、特にアメリカとかイギリスの寮で共同生活しているのを見て、ぜひ昭和大学でもやりたいということで取り入れたそうなんです。ですから、個室にはしてないのです。個室にすると、結局一人暮らしと同じになってしまいます。ですから4人1部屋で、違う学部の人たちに一緒の部屋で生活してもらっています。

--ハーバード大学の寮がモデルだったのですね。

上條:富士吉田にするか、つくばにするか、実は悩んでいたそうです。でも富士吉田にして良かったなと。富士山のふもとで、温泉もあってお肌もツルツルになれるのが魅力ですね。やっぱり都会じゃない方がいいのかもしれません。

両親のこと--週末の豪快な料理、スキー…「お父さんより優れてるのはゴルフだけ」

--お母様とお父様はお見合いだったとか?

上條:父が一番初めに母とお見合いした時に、「こんなもんかな」と思ったそうです。次に別の方とお見合いしたら、あまり良くなかったから「じゃあもうこれでいいんだ」って母に決めたそうです。(笑)

--医師の奥様は、ご主人を支えるイメージがありますが、お母様は外国育ちですよね?

上條:うちの父のタイプは、古典的な日本人ですから。当時としては、母のような人は異端だったと思います。もしかして私の適応能力があるのは、そこから来てるのかもしれません。(笑)

--お父様は2代目としてお忙しかったと思いますが、家ではお医者様としての顔を見せなかったのでしょうか?

上條:父はあまり帰ってこなかったですね。
私が小学生時代は、寝る時にはいなかったですし、朝はまだ疲れて寝てたり。一緒にいられたのは週末だけでした。しかし週末はよく料理を作ってくれました。男の料理ってすごいですね。ベーコン、目玉焼き、スクランブルでも、ダイナミックに作ってくれて。そのまま洗い物はほったらかしだったわけですけども。でもそれがすごく楽しかったです。

--お父様と一緒にされた趣味などはありますか?

上條:父はスキーを教えてくれたので、私もずっとスキーをしてました。父はゴルフもしていましたが、ある方から言われたのは、「由美ちゃん、お父さんより優れてるのはゴルフだけだね」と(笑)。ですので父はあまり上手じゃなかったみたいです。ゴルフ以外に私が父に勝るものはありませんね。優れた人間ではありませんし、なんせ3代目ですから。(笑)

--帝王学を教え込まれたというより、普通に育ったのでしょうか? ご家族が女性3人だから、そういったことは考えなかったのでしょうか?

上條:直々に(帝王学を)教えてもらったタイプではないかもしれませんね。父は私に継がせたいとは思っていなかったと思うし、私が医師になったのもびっくりという感じでしょう。だから「自分で好きな道を選んだらいい」という感じだったと思います。

だから、あとはもう自分の個性を出すしかないかなと思ってます。今までと同じことを繰り返すのではなく、新しいことを「時代に沿った形」でやっていかないとならないかなと思っています。