秀吉を演じる池松壮亮

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劣勢に陥ったのは中川清秀が裏切ったから?

 なかなか見応えがあったのだが、ひとつ捨て置けない場面があった。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第32回「賤ヶ岳の決闘」(8月23日放送)。柴田勝家(山口馬木也)方についていた前田利家(大東駿介)が羽柴秀吉(池松壮亮)方へと寝返り、逆に羽柴方から前田方に寝返った中川清秀(すがおゆうじ)を刺殺した場面である。

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 天正11年(1583)3月、雪解けを待って出陣した勝家が柳ヶ瀬(滋賀県長浜市)に本陣を置き、秀吉はその南方の木之本(同)に布陣。両者がにらみ合っている最中に、岐阜城(岐阜市)の織田信孝(結木滉星)がふたたび挙兵したため、秀吉はいったん岐阜へと向かったが、まさにその直後、伝令が小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)のもとに駆け込んでこう伝えた。「大岩山砦が敵の手に落ちました」。

秀吉を演じる池松壮亮

 この大岩山砦を守っていたのは中川清秀で、それを聞いた小一郎が「早すぎる! 中川殿は?」と尋ねると、伝令は「わかりませぬが、おそらくは」と、討ち死にした可能性を仄めかした。だが、「すぐに兄者を呼び戻すのじゃ!」と命じた小一郎に、横にいた桑山重晴(住田隆)は「いくらなんでも早すぎますなあ。もしや中川殿も、生き延びるのが得意なのでは?」と、寝返りの疑いを口にした。

 実際、それに続く場面で、柴田方に寝返った中川清秀が登場し、柴田方の佐久間盛政(遠藤雄弥)に「戦に勝った暁には、摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)一国をいただけるというお約束、お忘れなきように」と念を押した。秀吉に従軍していた蜂須賀正勝(高橋努)も、報告を受けて「中川殿が寝返ったじゃと?」と驚きの声を上げた。

 要するに、秀吉と勝家による事実上の天下分け目の合戦であった賤ヶ岳合戦で、最初、羽柴方が柴田方に攻め込まれて劣勢に陥ったのは、中川清秀が裏切ったから、という描き方だったのである。だが、清秀が秀吉を裏切ることなど断じてない。物語の展開をよりドラマティックにするために、もっとも裏切る理由がない人物を裏切り者に仕立てるのは、いかがなものだろうか。

秀吉を裏切る理由が見つからない人物

 この場面、史料に伝えられたとおりに描写すると、以下のようになる。羽柴方は余呉湖南岸の守りが弱く、そのうえ総大将の秀吉は、織田信孝を制圧するために岐阜へ向かった、という情報を柴田方がつかんだのがきっかけだった。そこで佐久間盛政は、余呉湖南岸への攻撃を主張。勝家は、勝っても駐屯せずにすぐ撤退する、という条件で攻撃を許可した。

 これを受け、盛政は4月20日未明、中川清秀が守る大岩山砦を急襲し、守将の清秀を討ち取って、砦を陥落させた。盛政は続いてすぐ北側の岩崎山砦も攻め落として、守将の高山右近を敗走させ、余呉湖一帯を制圧した。

 だが、思いのほかうまくいったばかりに、盛政は「駐屯せずにすぐ撤退する」という勝家の指示を無視して現場に残った。このため、岐阜から13里(52キロ)もの道のりを、わずか5時間前後で引き返してきた秀吉の軍勢の餌食になってしまう。それでも態勢を整えなおして戦ったが、余呉湖の北側に布陣していた前田利家と利長父子が突如として戦線を離脱。このため盛政の軍勢は前後から挟み撃ちに合って、壊滅的に敗北した。

 だが、中川清秀が裏切ったと記す史料は存在しない。史料で確認できるかぎり、清秀は秀吉を裏切るどころか、佐久間盛政の軍勢に攻撃され、壮絶な戦死を遂げている。機を見るに敏なところはある武将だったので、そういう描き方にしたのかもしれない。だが、機を見るに敏ならなおさら、この状況で秀吉を裏切ったとは到底考えられない。

秀吉の下にいてこそ今後の出世が見込まれた

 中川清秀はどのように「機を見るに敏」だったのか。賤ヶ岳合戦からさかのぼること4年半ほど前、荒木村重が織田信長を裏切って有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城した。このとき信長に反旗をひるがえすように村重の背中を押したのは、ほかならぬ清秀だといわれる(『立入左京亮入道隆佐記』)。しかし、村重が頼りにした清秀は、籠城戦がはじまって1週間もすると織田方に寝返ってしまい(『信長公記』など)、村重に勝ち目はなくなってしまった。

 このエピソードがあるため、「豊臣兄弟!」では清秀を裏切り者に仕立てたのではないだろうか。だが、織田方に寝返って以降の清秀の歩みを見れば、清秀にかぎって秀吉を裏切るメリットはない。というのは、清秀は秀吉に大きな恩を売っており、命さえあれば、どう考えても今後の出世が見込める状況にあったからである。

 中京大学の馬部隆弘教授(日本中近世史)が令和6年(2024)に古書店で入手した秀吉の書状によれば、本能寺で信長を斃した明智光秀の軍勢と秀吉の軍勢が戦ったとされる山崎合戦に、秀吉は間に合っていなかった。決戦が行われた天正10年(1582)6月13日、秀吉は山崎から12キロ離れた場所から「明日、出陣する」という書状を書いていた。ところが、秀吉の予想に反して、光秀は13日に撃って出たので、中川清秀のほか池田恒興、高山右近という、摂津を治める3人の武将が戦って、光秀を敗走させたという。

 つまり、清秀らの活躍がなければ、秀吉は信長のかたきを討った功労者として、天下獲りに名乗りを上げることができなかったとさえいえる。

 むろん、山崎合戦に間に合わなかったのは、秀吉にとっては不都合な真実なので、日本の史料にそういう記述はない。しかし、日本の権力者に忖度する必要がない宣教師は、そのことを記していた。イエズス会のルイス・フロイスは『日本史』に、羽柴軍が遅延している最中に明智が出陣したので、清秀と恒興、右近が戦った旨が明記されている。秀吉の軍勢については〈幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりに到着しなかった〉(松田毅一・川崎桃太訳)と、はっきり記している。

宣教師の記述を軽視したからか?

 だが、フロイスのこうした記述に対し、研究者たちの主張は「キリシタンであった高山右近の活躍を誇張して書くために、デマを記したと考えられる」というものだった。「豊臣兄弟!」では2人の錚々たる学者が「時代考証」を担当している。それなのに、中川清秀が秀吉を裏切るという、「時代考証」の視点からあってはならないフィクションが許容されたのは、宣教師はデマを書く、という呪縛から離れられず、秀吉に対する清秀の大恩を見逃したのかもしれない。

 しかし、宣教師は大げさに書くことはあっても、ウソは避けたと思われる。『日本史』では、清秀と恒興よりも右近の活躍を強調している。キリシタンに対する贔屓はたしかに認められる。だが、フロイスがなぜ記録を残したのかを考える必要がある。命を賭して東洋まで布教にきた彼らは、自分たちの後進が同じ東洋でまちがいなく布教できるように、ガイドを書き記した。後進たちのための道しるべであり羅針盤であるのが、彼らの記録なのであって、ウソを書いて後進を惑わすことなど、よほど人格がねじ曲がっている宣教師でなければ、なかったと思われる。

 日本の歴史研究者は宣教師の発想や考え方を知らないから、「宣教師がデマを記す」と思うのだろうが、筆者はこのことに以前から忸怩たる思いをいだいてきた。

 それはともかく、このように秀吉のもとにいれば、大いなる出世が見込めた中川清秀が秀吉を裏切ることなど、どうしてありえようか。

 記事の冒頭で紹介した、前田利家が清秀を刺殺する場面は、たしかに勝家を裏切って秀吉の軍門に下った利家の決意を強調するためには、効果的だった。だが、そのために、ありえない裏切り話を挿入して歴史への誤解を助長するのは、残念だというほかない。名誉を棄損された中川清秀も気の毒に思えてくる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部