#5 哲学の道には、「知と愛」が欠かせない──若松英輔さんと読む、西田幾多郎『善の研究』【NHK100分de名著ブックス】
若松英輔さんによる西田幾多郎『善の研究』読み解き #5
西田幾多郎の『善の研究』は、日本初の哲学書とされ、難解な名著として知られています。しかし、批評家・随筆家の若松英輔さんは、「4つの章を逆から読む」と、その思想は驚くほど身近なものになるといいます。
『NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究』では、「知と愛」「善」「純粋経験」などの5つのキーワードを手がかりに、西田哲学を私たちの日常へと引き寄せながら、「生きる」ことの本質を見出していきます。
2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第5回/全5回)。
第1章──生きることの「問い」 より
最初に読むべき「知と愛」
それでは、まずは第四編「宗教」から『善の研究』を読み進めていきましょう。最初に読みたいのは、第四編の最後に「付録」のように置かれている「知と愛」という随想です。
最後に置かれた文章こそ、『善の研究』を読み解くうえで「扉」のような役割を果たしているのです。この文章は他の本文とは主題の展開も文体も異なっているため、これまであまり重要視されてきませんでした。
「知と愛」とは愛知、すなわち哲学(フィロソフィー)のことです。この素朴な事実に気がつくと、一見性質が異なるこの短文を西田があえて『善の研究』に収録した意味も明らかになってきます。「知と愛」の章ほど、よい「西田幾多郎による西田幾多郎入門」はないのです。
西田は、自分が書いている文章が、簡単に理解されるものではないことをよく理解していました。しかし、「知と愛」は違います。この文章を繰り返し読むことで私たちは西田の哲学の核となる部分を垣間見ることができます。
知のちからと愛のはたらき
西田が考えている「哲学」は、ある特定の思想──たとえば実存主義、構造主義、ポスト構造主義など──ではありません。むしろ、それは、さまざまな思想を包み込む、大いなる叡智ともいえます。
本当の「哲学」の道を生きるためには、「知」のちからだけでなく、「愛」のはたらきが欠かせないと西田は考えていました。これが彼の出発点です。西田は「知の巨人」だっただけではありません。深い「愛の人」でもありました。
「知と愛」のはたらきにふれ、西田は次のように書いています。
知と愛とは普通には全然相異(あいこと)なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるか、一言にて云えば主客合一(しゅかくごういつ)の作用である。我(われ)が物に一致する作用である。
(第四編 宗教 第五章 知と愛)
「知る」と「愛する」という営みは、一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。
ここで西田は「主客合一の作用」を「我が物に一致する作用」と言い換えています。西田がいう「物」は物体ではありません。「他者」という言葉に置き換えた方がよいでしょう。
何を「他者」と考えるかによって、その人の世界観は変わってきます。西田の場合は、ここに亡き子、すなわち死者が含まれています。
すでに亡くなった愛する者の存在を私たちは「知」のちからだけで認識しようとはしません。そう試みるとき、私たちのなかに自ずから「愛」が動き始めるのではないでしょうか。
ここでの「愛」は、「愛(いつく)しみ」と置き換えた方がより深く感じることができるかもしれません。「知」のちからはしばしば人間を迷路に導きます。「知」のちからだけに頼るとき人は、自分が万能であるかのように思い込むのです。そうした迷いから私たちを救い出してくれるのが「愛」のはたらきです。
「主客合一の作用」とは
「主客合一の作用」というと難解な印象ですが、私たちは日々、このことを──西田が
説くように完全にではありませんが──経験しています。
もし、「主客合一の作用」がなければ、私たちは美しい絵画を見ても、あるいは音楽を聴いても感動することはありません。悲しむ他者の姿を見て、涙を流すこともありません。さらにいえば、「主客合一の作用」があるからこそ、私たちは道端に咲く花のいのちを認識するのです。西田は、人間が対象に「いのち」を感じることを「人格的対象の知識」という言葉で語ります。
……普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。
(同前)
ここでの「人格的対象」は、「生けるもの」と置き換えることができます。「非人格的対象」は「止まっているもの」ということになります。私たちは「生けるもの」を生きた存在として感じるとき、内なる愛をもってそれに接する。だが、愛が失われた目で世界を見るとき、「生けるもの」は生命なきもの、すなわち「止まっているもの」であるかのように映る、というのです。
このことは、「言葉」を対象にしたとき、もっとも顕著に感じられるのではないでしょうか。あるとき、文字は単なる記号に過ぎません。しかし、そこに「いのち」を感じるとき、それは私たちの心に火を灯すものにもなるのです。
西田は次のようにもいいます。
……古来幾多の学者哲人のいった様に、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉(ほそく)する力である。物の最も深き知識である。
(同前)
私たちは、「宇宙」という言葉に注意して読まなくてはなりません。通常「宇宙」という言葉は、ロケットなどが飛翔する大気圏外の宇宙空間を指します。しかし、西田のいう「宇宙」とは、森羅万象の異名です。さらに「宇宙」は、外的空間だけでなく、内なる世界をも包含する言葉です。
先の一節を、現代の言葉に意訳してみましょう。
「古来、数多くの哲学者が述べているように森羅万象を司るものが人格的な存在であるならば、愛は、この世界の実在を把握するちからであり、存在するものをめぐるもっとも深い智慧(ちえ)である」というほどの文章になります。
宇宙を感じようとするとき、現代人は空を見上げます。しかし、西田は、目を閉じて坐禅したかもしれません。そうすることで内外両方の宇宙を感じることができると思っていたのではないでしょうか。
生けるものの本質をつかむちから
さらに西田は、次の一文で私たちの日常生活により近い形で、「知と愛」の相乗的なはたらきについて述べています。
また我々が他人の喜憂(きゆう)に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直(ただち)に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。
(同前)
たとえば、涙を知のちからでとらえれば、ただの体液に過ぎない。しかし、涙を愛のはたらきで見るとき、その本質を知ることができるというのです。
「知と愛」は西田にとって同じもので、二つは別な側面を持っているだけなのです。それを近代人は分けて考えてしまっていた。私たちは「知と愛」をもう一度、一緒にしなければならない。それを一つにすることによって見えてくるものを世に告げることが哲学の役割だというのです。
先に西田は、「愛する」とは「物」と一致することであると述べていました。ただ、西田の「一致」というのは、寸分たがわず重なり合うことではありません。むしろ、今の引用に「共に笑い共に泣く」とあったように、異なる二つのものが、異なるままで、「共鳴」し「共振」しているようなイメージでとらえた方がよいと思います。
西田にとって共鳴と共振は哲学的経験の始まりにほかなりません。さらに西田は「一致」をめぐってこういいます。
我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。
(同前)
自分と花が一つになる。月と一つになる。この言葉は、歌人である西行(さいぎょう)や俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)の姿をほうふつとさせます。西田は、しばしば短歌を詠んでいます。西田哲学を理解しようとするとき、「詩情」もまた、一つの重要な扉になります。
西田にとって「愛」とは、生けるものの本質をつかむちからです。花のなかには生けるもの、いのちがある。それを感じたときに私たちは花を愛し、そして花に愛されていると感じる。花に愛されるというのは、花との交わりが生まれるということです。
ここでの花は自然の象徴です。自然は私たちにいつも呼びかけてくれる。しかし、「知る」ことしか知らない者は、その呼び声に応えられない。しかしその「声」に応えさえすれば、そこに循環が生まれる。これが西田のいう「一致」です。
「一致」の世界には、損得や利害といった関係は成り立ち得ません。他者の喜怒哀楽が、そのまま「わがこと」になっていくからです。
ここでいう「親が子となり子が親となり」とは、子どもは歳を重ねるといつか親になる、という意味ではありません。親と子は、心ではそれぞれに入れ替われるほど、互いを「わがこと」として感じることができる。愛とはそのような、お互いの心を感じ合うものだというのです。
西田は、このことについて「親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の様に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである」(同前)とも書いています。
ここで述べられていることを別の表現でいうと「無私」ということになります。無私とは、私たちが全身を投げ出せるような状態、「私」をなくすことのできる状態のことです。別ないい方をすれば、親が子となり、子が親となるというのは、共に「私」が主語ではなくなる状態ともいえます。
「私」が主語になると、世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しないかもしれない。しかし、「私」が深くなっていくと、表層意識の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底にふれていこうとする。この状態が、西田のいう「善」の世界なのです。
この「善」とは何かは、第2章で考えていくことにします。
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016 年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018 年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33 回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16 回角川財団学芸賞受賞。著書に『イエス伝』(中公文庫)、『生きる哲学』(文春新書)、『悲しみの秘義』(ナナロク社/文春文庫)、『詩集 見えないものを探すためにぼくらは生まれた』『探していたのはどこにでもある小さな一つの言葉だった』(亜紀書房)、『詩と出会う 詩と生きる』『14歳の教室 どう読みどう生きるか』『考える教室 大人のための哲学入門』『はじめての利他学』(NHK出版)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究 日常で深める哲学』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書における『善の研究』の引用部分は、岩波文庫(二〇一二年改版)によります。
※本書は「NHK100分de名著」において、2019年10月に放送された「西田幾多郎 善の研究」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「現実の奥にある『真の現実』を求めて~西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』を読む」を収載したものです。
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