#3 この世界をめぐる「認知」と「認識」の違いは?──若松英輔さんと読む、西田幾多郎『善の研究』【NHK100分de名著ブックス】
若松英輔さんによる西田幾多郎『善の研究』読み解き #3
西田幾多郎の『善の研究』は、日本初の哲学書とされ、難解な名著として知られています。しかし、批評家・随筆家の若松英輔さんは、「4つの章を逆から読む」と、その思想は驚くほど身近なものになるといいます。
『NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究』では、「知と愛」「善」「純粋経験」などの5つのキーワードを手がかりに、西田哲学を私たちの日常へと引き寄せながら、「生きる」ことの本質を見出していきます。
2026年7月~9月に開催の「100分de名著」シリーズ・図書カード全員還元キャンペーン対象書籍でもある本書より、「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第3回/全5回)。
第1章──生きることの「問い」 より
西田哲学の出発点
西田幾多郎の『善の研究』を読み始める際には、その出発点や立ち位置を知っておくことが大切です。ここで西田の哲学的態度をよく伝える二つの文章を紹介したいと思います。まずは西田の考える「真の実在」をめぐる一節です。
元来(がんらい)真理は一である。知識においての真理は直に実践上の真理であり、実践上の真理は直(ただち)に知識においての真理でなければならぬ。深く考える人、真摯(しんし)なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処(いずこ)に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何(いか)なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明(あきらか)にせねばならぬ。
(第二編 実在 第一章 考究の出立点)
真理は一つであり、それは「知識(知ること)」と「実践(行うこと)」の両方を伴わなければならない。人は何をなすべきか、どう安心を得るかの前に、まずは真の実在とは何かを明らかにしなければならないというのです。
この一節に書かれていることは、哲学者・西田幾多郎の生涯そのものだといってもよいでしょう。彼の哲学の核心は、この世界の本当の姿、すなわち「真の実在」の探究でした。この「実在」については第3章で詳述します。
ここで西田は「実在」を認識するためには「実践」が重要だといいます。西田における「実践」、その一つが坐禅(ざぜん)、すなわち参禅(さんぜん)の経験でした。彼が禅を始めたのは、一八九六年、二六歳のときです。参禅の経験は、熾烈(しれつ)なものでした。禅の道を極めるまでは学問のことも考えまい、という記述が若き日の西田の日記にあります。しかし、彼は修行者になろうとしたのではありません。彼の目的はあくまでも「実在」を経験することにあったのです。
以後、禅の経験は、生涯を通じて、彼の思索の土壌になっていきます。彼は禅で体感したことを哲学的思索──彼がいう「思惟」──によって普遍化していったのです。
哲学者・西田幾多郎にはいつも、求道者である己(おの)れが共にいます。彼の哲学の言葉は、「考える」ことによってではなく、「行(ぎょう)ずる」ことによって生まれてきたものでもあるのです。
「認知」と「認識」の違い
次に、彼が「世界をどう認識していたか」ということについて考えていきます。
西田はこう述べています。
真実在は普通に考えられて居る様な冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立った者である。即(すなわ)ち単に存在ではなくして意味をもった者である。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。
(第二編 実在 第三章 実在の真景)
先にも言及しましたが、いくつかの言葉は、現代とは少し異なる意味で用いられています。西田にとっての「知識」は頭と身体の両方で知ることを指しています。知は頭、識は身体全体を意味しています。
西田は、知識に加えてもう一つ大切なことは、「情意」だという。「情」は、私たちの「こころ」のはたらきです。情意とは、容易に言語化されない「おもい」だと考えてよいと思います。世界は頭や身体だけで認識されているのではなく、そこにはつねに「こころ」のはたらきがある。これらが一つになったとき、「真実在」への扉が開かれる、というのです。
知識と情意の二つが揃わないと哲学は始まらない。頭脳だけではなく心身も同時に育み、開花していかなければならない、というのです。
頭脳で行う科学的「認知」が重要なのはいうまでもありません。しかし、それは心身で育まれる哲学的「認識」の始まりに過ぎないと西田は考えています。
「認知」とは、科学的に、客観的に、あるいは再現可能に理解することです。しかし、「認識」は違います。それは、個々の人間が、それまでの経験を踏み台にして、心身の両面で理解を深めていくことです。
このことをめぐって『善の研究』では次のように述べています。
物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。この点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達して居る。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んで居る。同一の意識といっても決して真に同一でない。
(同前)
ここでいう「物理学者」とは、「科学的世界が唯一の世界だと考えている者」というほどの意味です。現代には、世界をもっと繊細に、深遠に認識している物理学者も少なくありません。日本にも、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(ゆかわひでき)のように、科学的見地と宗教・哲学的見地の双方を深めた人物もいます。
ここで西田が強調しているのは、人が、同じことを認知しながら、個々別々の世界を認識し、生きているということです。さらにいえば、世界は一つである一方で、一〇〇人いれば一〇〇通りの世界がある。それが、この世界の現実だということです。
ただ、ここで注意しなくてはならないのは、西田が個々別々の世界を生きることを強調しているだけではないことです。現象的には無数の世界がありながら、実在的には一なる世界であることにも西田は注意を促します。
それは、人間は無数に存在しながら、同時に人類という一なる存在でもあることと同質のことです。同じ人間は存在しない、という真理があり、すべての人間は人類である、という真理がある。現実の世界では別々のものも、実在の世界においては「一なるもの」だというのです。
西田哲学を解説した書物のなかには、「場所」「叡智的世界」「逆対応」などの鍵となる言葉から読み解いていくものもあります。しかし、そうした理解は彼の哲学を「概念的」に理解することにつながりかねません。概念によって理解しようとすることで、西田の哲学を難解にしている、ともいえます。
西田哲学のもっとも顕著な特徴を挙げよといわれたら、私は躊躇(ちゅうちょ)なく「動的」であることだと答えます。のちの西田自身は「動揺的」という表現を用いています(「絶対矛盾的自己同一」『西田幾多郎哲学論集』Ⅲ、岩波文庫)。
「動揺」という言葉は、今日では心理状態を示す言葉ですが、西田にとってはまったく異なる意味を持つものでした。世界は「動き」、私たちの心が「揺れる」。一瞬たりとも同じ世界は存在しない。これは彼がいう「実在」の在り方でもあります。
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016 年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018 年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33 回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16 回角川財団学芸賞受賞。著書に『イエス伝』(中公文庫)、『生きる哲学』(文春新書)、『悲しみの秘義』(ナナロク社/文春文庫)、『詩集 見えないものを探すためにぼくらは生まれた』『探していたのはどこにでもある小さな一つの言葉だった』(亜紀書房)、『詩と出会う 詩と生きる』『14歳の教室 どう読みどう生きるか』『考える教室 大人のための哲学入門』『はじめての利他学』(NHK出版)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス 西田幾多郎 善の研究 日常で深める哲学』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書における『善の研究』の引用部分は、岩波文庫(二〇一二年改版)によります。
※本書は「NHK100分de名著」において、2019年10月に放送された「西田幾多郎 善の研究」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「現実の奥にある『真の現実』を求めて~西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』を読む」を収載したものです。

