【全文公開】水谷 豊「いつでも俳優を辞める覚悟はありました」名優が人生を赤裸々に語る

写真拡大 (全8枚)

挫折を経て

「ああ、ようやく始まったな--。完成した映像を初めて観た時、僕はそう感じました。60年近いこれまでの芸能人生は長い長い準備期間で、今ついに自分の世界が始まったんだと思ったのです」

俳優・水谷豊(73)は穏やかな眼差しで人生を語り始めた。冒頭の「映像」とは現在、順次全国の劇場で公開されている映画『Piccola felicità(ピッコラ・フェリチタ)~小さな幸せ~』のことである。監督第4作にして、自ら企画・監督・脚本・プロデュース・主演という一人5役を担った大作だ。

水谷といえば、’74年放送開始のドラマ『傷だらけの天使』(日本テレビ系)で注目を浴び、視聴率40%超えの『熱中時代』シリーズ(’78年~・日テレ系)、さらには今年26周年を迎えた国民的ドラマ『相棒』(テレビ朝日系)と、常に第一線を走り続けてきた。それを「準備期間」と言うのはどういうことなのか。

「子供の頃から映像の世界には興味を持っていました。最初の記憶は3~4歳くらいでしょうか。野外の移動式映画館で観た『鞍馬天狗』です。大人も子供も地べたに敷いたゴザに座って観る。鞍馬天狗が悪人をやっつけるシーンは拍手喝采で、すごくワクワクしたことを覚えています」

その後、テレビでアメリカのドラマを観て「この世界に行ってみたい」と思い、劇団ひまわりに入団。14歳でテレビドラマ『マグマ大使』(フジテレビ系)に出演し俳優デビューを果たすものの、高校3年の時には芝居をやめてアメリカ・カリフォルニアへの留学を決意する。

「留学を決めたのは新しい世界を見たいと思ったからです。ところが、父の会社が経営破綻して留学を断念。日本の大学受験も失敗して自暴自棄になり家を飛び出した。山中湖畔のレストハウスにたどり着き、2ヵ月ほど住み込みで働いたりしました」

当時、水谷自身は芸能の世界に戻るつもりはなかった。しかし、周囲が放っておかずドラマへの出演を打診。バイトのつもりで再び現場へ戻ったそうだが……。

「バイトだからといって中途半端にはせず、どの作品も全力で取り組みました。自分ができる限りのことをやるというのは、僕がずっと心がけてきたことです。でも、終わってみるとなぜかやった気がしない。どれほど評判が良くても不思議なほど達成感がないんです。いつも『自分には他にもっと向いている世界があるはずだ』と思っていて、もしその世界が見つかればすぐに俳優を辞める心構えでいました」

松田優作との約束

その思いに変化が生じたのが娘の趣里(35)が生まれた38歳の時だった。

「戸籍に娘の名が記載されたのを見て、『守るものができた』という感情が湧(わ)き上がってきました。もちろんオファーあっての仕事だけれど、その時初めてできる限り長く俳優をやってみようと思ったんです」

趣里が生まれた9月21日は、奇しくも前年に亡くなった親友・松田優作(享年40)の誕生日でもあった。松田との出会いは20歳の時。彼がジーパン刑事として人気を博した『太陽にほえろ!』(日テレ系)に水谷が犯人役で出演したのだ。すぐに意気投合した二人は何でも話せる、気の置けない関係になった。

「実は優作ちゃんが膀胱(ぼうこう)がんで入院した’88年頃、僕にも同じ病気が見つかったんです。同じ病院に入院して手術したんですが、公表していなかったので僕の病室の名札は二人の名を合わせた『水田豊作』にしていた。優作ちゃんは『なんだ、この名前は』と呆(あき)れていましたけど(笑)。お互い病院に出たり入ったりしていたので、退院しているほうがお見舞いに行ってはいろいろ語り合った。治ったら二人でドラマの監督をしようか、なんて話したこともありましたね」

しかし、それは松田の死によって叶わぬ夢となってしまった。

実は、30代の頃から水谷の下には何度も映画監督としてのオファーが届いていたという。しかし、すべて断ってきた。

「オファーの多くは俳優として名が知られているからというもの。そんな理由で監督をしたら、ずっと監督をしてきた方々に失礼じゃないですか。だから、『一生続ける覚悟ができるまではやらない』と決めていました。その覚悟が固まったのが還暦を迎えた時です」

水谷は映画監督として60代で『TAP-THE LAST SHOW-』(’17年)、『轢き逃げ-最高の最悪な日-』(’19年)、『太陽とボレロ』(’22年)の3作品を手掛けている。2作目以降は脚本も手掛けるなど意欲的だったが、「やってもやってもやった気がしない」という思いは変わらない。『ピッコラ・フェリチタ』を撮り始めたのは、「一生このままで終わってしまうんだろうな」と思っていた矢先の’24年のことだった。「ピッコラ・フェリチタ」とはイタリア語で「小さな幸せ」という意味で、人生の岐路に直面した60代、40代、30代の3組の男女の人間模様を描いたオムニバス形式の物語だ。

「映画化の話はまったくなかったんですが、脚本自体は’22年に書き上げていました。僕の心には常に『幸せとは何だろう』という問いかけがあります。幸せは特別なことが起きた時に感じるものだと思い込みがち。だから人は幸せを追うのだけれど、実は日常の中にある小さな幸せこそが大切だったりするのではないか。そう思って『いつかこんな世界を作れたらいいなぁ』と物語を編(あ)んでいきました」

娘からの″幸せな一言″

初めは自主制作でスタート。別の作品が直前に中止になってしまい、すでに押さえていた役者やスタッフのために何かできないかと考えた時に、ふと脚本の存在を思い出したという。配給会社すら決まっていない状態だったが、周りには公開しなくても試写会はやろうと伝えて撮影を開始。自身が出演したのも予算の都合で、「自分なら毎日現場に来るし、お金もかかりませんからね」と笑った。

さらに、この映画で話題となっているのが趣里との父娘初の共演だ。これは趣里本人からの申し出によるものだったと振り返る。

「脚本を書いている時に『読んでいい?』と聞かれたので見せてはいたんです。でも感想は聞かなかったし、キャスティングしようとも考えていませんでした。ところが、撮影することを知った趣里が自ら『私、出てもいいよ』と言ってくれて。本人には一切話していませんが、趣里が演じる30代女性の役は彼女を思い浮かべながら書いたもの。それを感じてくれたのかはわかりませんが、娘から(出演してもいいと)言ってもらえたのは嬉しかったですね」

現場では監督と役者の関係に徹した。監督として状況に応じた動きをつけることはあっても、芝居そのものについて助言することはなかったという。

「自分で役を作りこんでいるのがわかりましたから。普段も感想を言い合うくらいで、芝居について深く語ることはほとんどありません。趣里には子供の頃から『こっちの世界には来ないで』と言い続けていました。天国と地獄の差が大きい世界なので辛い目に遭(あ)ってほしくなかったんです。だから、芝居の道に進む時も(妻の)蘭さんには相談していたようですが、僕にはなかなか言わなかった。でも今は、彼女の演技を観るたびにこっちに来てくれて良かったなぁと思っています」

昨年、趣里は元『BE:FIRST』の三山凌輝(27)と結婚、第一子を出産した。娘が我が子を抱く姿を見て思い出すのは、水谷自身が俳優として生きる覚悟を決めた時のこと。

「ついこの間まで娘を抱っこしていた感覚があるのに、母になったのだと思うと不思議な感じがしますね」

水谷は「今まで出会ったすべてがカタチになっている」と本作の撮影を回顧した。

「撮影現場でよく役者やスタッフに『今日はどんなことをやるんですか?』と聞かれました。意識していなかったんですが、僕は急に台本にないことをやろうと言い出すようでみんな楽しみにしているとか。おそらく自分がそうやって育ってきたからでしょうね」

例えば、伝説と謳(うた)われる『傷だらけの天使』の最終回で水谷演じる亨(あきら)は風邪をこじらせて急死する。萩原健一(享年68)が演じる修(おさむ)は弟分だった亨の死体をドラム缶に入れ、夢の島に棄てて逃亡するのだが、この強烈なラストシーンは当初台本にはなかった。

「工藤栄一監督(享年71)がその場で加えたんです。修が『女を抱かせてやるからな』と言って死んだ亨の身体にベタベタとヌード写真を張り付けるのもその場で出てきた監督のアイデア。直前まで、よりおもしろくしようと考えているんですよ。僕もそれが自然と身に付いていて、カチンコが鳴るギリギリまでもっとおもしろいことはないかなって常に探しています」

『ピッコラ・フェリチタ』を全国のホールで上映会をしようと考えたのは自身が経験した移動式映画館の記憶によるもの。映画館のない街にもたいていホールはある。みんなで映画の世界を楽しんでほしいという水谷の思いに配給を担当した会社が賛同して全国23ヵ所(6月30日時点)での巡業上映が決まった。

「やった気がしなかったのは、もっとおもしろいことはないかなという思いがあるから。それが知らない自分に気づかせてくれるし、前に進む原動力になるのだと知りました。まだ見えない新しい世界に向かうことでどんな出会いや発見があるのか、今から楽しみでなりません」

『FRIDAY』2026年7月17・24日合併号より

取材・文:中川明紀