林眞須美死刑囚(左)と息子の浩次氏(提供・林浩次)

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1998年7月25日、和歌山市内の住宅地で開かれた夏祭り会場で、カレーライスを食べた住民67人が中毒症状を訴え、そのうち小学生を含む4人が死亡した。カレー鍋からは猛毒のヒ素化合物が検出され、会場の近くに住む元保険外交員の林眞須美死刑囚の自宅から亜ヒ酸が検出された。林死刑囚は逮捕、起訴され、2009年5月に最高裁で死刑が確定。息子の浩次(仮名)氏は母親の無実を信じ、再審請求を繰り返している。事件に翻弄された浩次氏の約30年を全3回で振り返る。

――和歌山毒物カレー事件から長い月日が経ちました。今、何歳になられましたか?

 カレー事件が発生して今年で28年となります。当時、僕は10歳、小学校5年生でした。現在は38歳で、今年39歳になります。

――改めて家族構成を教えてもらってもよろしいでしょうか?

 両親は母が林眞須美、父が林健治。そして長女、次女、僕が長男、三女の順ですね。

――事件があって両親が逮捕され、その後、きょうだいはどうなったのでしょうか?

 98年10月4日に両親が逮捕されて、そこから子どもたち4人は児童養護施設での暮らしが始まりました。最初は一時的に児相(児童相談所)の保護施設に行きました。和歌山県外の候補もあったんですが、長女が「全員同じ場所で、和歌山がいい」という条件を出して、4人とも同じ施設に入りました。

――施設ではいじめに遭ったそうですね。

 施設に入った当初は素性を隠していました。しかし「林」という名字の4人組が入ってくるということで、すぐにバレました。報道が殺到してヘリが上空を飛んでいるような状況だったので、マスコミからの目隠しのため、窓ガラスにポスターを貼ることになりました。上級生に「お前たちが来たせいでポスターを貼らされる作業をやらされた」と言われ、生まれて初めて悪意のある暴力を受けました。

そこからはもう、いろんな事情を抱えて施設に入ってくる子どもたちの中でも、ヒエラルキーの一番下に位置していました。犯罪者の子どもだったら何を言ったっていいという状況が続きました。「カエルの子はカエル」「ポイズン」といったあだ名をつけられ、ニキビ一つできただけで「ヒ素の後遺症」とも言われました。

暴力的ないじめはずっと続きました。その頃に受けたいじめの傷が今もたくさん残っていて、ロングヘアでいるのは傷を隠すためです。

すべての人間が敵に見えてだんだん感情が死んでいった

――そこから高校に進学されるんですね?

 小学校、中学校と施設内にある分校に通っていましたが、高校からは施設外の一般の高校に通うことになりました。高校でも「おばあちゃんの家から通っている」とうそをついて素性を隠していましたが、実はみんな知っていたようでした。

インターネットが普及し始めた頃で、高校にマスコミが来るようになり、ほとんどバレている状況でした。高校3年生の時に親友だと思っていた同級生から「なんで友達なのにずっと話してくれなかったんだ」と問い詰められ、そこでまた暴力を振るわれました。

――マスコミの取材攻勢はどれくらい続いたのですか?

 一番過熱した期間は事件発生から両親が逮捕されるまでですね。それ以降も公判が始まったとか、父親の出所、母親の(最高裁での)死刑の確定など、節目の報道があるたびにマスコミがやって来て、コメントを求められました。

――人間不信に陥りませんでしたか?

 周りの人間がすべて敵に見えてしまうというんですかね。だからといって感情をむき出しにして怒りをあらわにしたり、逆にメソメソしたりすると、より暴力のターゲットになりやすい。だから、だんだんと感情が死んでいくんです。あまり感情を表に出せない性格になってしまいました。

――高校卒業後は?

 アルバイトをするにしても履歴書に書く住所がなく、家を借りるにも保証人がいないので、公園で寝泊まりする日々でした。何とか姉の家の住所を履歴書に書き、アルバイトを探しました。

飲食店で働いたんですが、名札に本名の「林」と書いていたら、お客さんが(事件のことを)察して、そこから店長に伝わり、呼び出され、「うちは飲食店だから、衛生的にあまり良くないんだよね」と注意されましたね。最後は自分から辞めるということになりました。

状況証拠の“濃淡”の採用でストーリーが構築された

林浩次氏(撮影・内外タイムス

――事件後の眞須美さんの様子は?

 98年から母親は一貫して無実を主張していて、事件のあった次の日から、僕は普段通りの母親の姿を見ていました。67人の負傷者が出て4人が亡くなったという報道を通常の人間が見た時、もし殺意があってそれを遂行したならば、何かしら態度に異変が出ると思うんです。だけど、振り返ってみるといつも通りの母だったんです。

20歳を超えたぐらいの頃、理解のあるマスコミの方が判決文を見せてくれました。そこには事件当日の行動において、自分の見た両親たちの行動との乖離(かいり)を感じたんです。これは全然違う、誤った事実として進んでいって死刑に至っていると確信しました。それから出所してきた父親とともに活動することになりました。

――事件の当日、カレー鍋の前できょうだいと目が合ったそうですね。判決文ではその事実が削除されたそうですね?

 次女ですね。僕も取り調べを受けて、「次女と母親が並んでいた」という証言をしたんです。捜査官から「それは何時だ」と問われたんです。小学5年生だったこともあり、「朝、何時にゲームを買いに行って」とか、時間をうやむやに答えたんです。

後から、そのゲーム屋さんのレシートを入手した捜査官に「時間が違うじゃないか」と問い詰められ、「この時間のズレをはっきり答えられないのに、何で次女と母親が並んでいたということをお前は本当だと言えるのか」と小学生相手に机をバンバンたたいて、そんな取り調べが行われたんですね。事件から半年後ぐらいの取り調べだったので、うやむやになるのは当然です。判決文を読むと、非常にあやふやで家族をかばうための証言だとして採用されなかったんですね。

一方で母親がカレー鍋の近くで不審な動きをしていたことについては、それを1階の窓から見た、2階から寝そべって見た、2階から立って見た、というように次々と変遷する目撃証言をいとも簡単に採用するんですね。有罪にできるところをチョイスするんです。

袴田事件で争点となった冤罪という事実

 後に、事件の当日に現場にいた主婦たちを警察学校の体育館に集めて、一斉に証言を取っていくのですが、最初は皆さん当日の行動はうやむやなんです。だけど、証言の回を重ねるごとに精度が上がっていき、次第に林眞須美が一人でカレー鍋の近くにいる時間ができてくるんです。状況証拠の“濃淡”はこうやって作られていくのだと初めて知りました。

無罪に有利に働きそうな意見は弾いていく。これを繰り返し、裁判のストーリーが出来上がっていく。事件当日の事実を知っている僕が、事件を知らない大人たちが作った文章を見た時、すごい乖離を感じました。これはおかしなことが起きていると。

――サングラス、マスクをしているとはいえ、公の場に出てくることにためらいはなかったですか?

 最初は父がマスコミに対応していたのですが、70歳を超えて脳出血で倒れて、言語障害が残ったりしたことで、それを機に少しずつバトンタッチしてきました。

先日も渋谷で松本(麗華)さん、大山(寛人)さんと一緒にトークイベント※1に出演しました。これまでも2人が顔を出して活動しているのをずっと見てきました。ネットの時代もあって、2人はバッシングを受けていました。見た目の部分でたたかれていたり、笑いものにされているような感覚を受けて、それで僕は顔出しが怖くなったというのもあります。

(※1.4月5日に東京都渋谷区で映画&トークイベント「『加害者家族』と共に生きる社会」が開催された)

――健治さんは2005年に出所されていますね。

 そうですね。父が「眞須美は無罪だ」と言ったところで、誰も耳を傾けてくれなかったですね。父は取り調べで、「もう眞須美は自分が犯人だって言ってるぞ」だとか、誘導尋問のようなこともあったと言います。だけど、地上波テレビ局を含め新聞、週刊誌、どこも「警察がそんなことするわけないだろう」と全く取り扱ってもらえないのが現実でした。

他で大きな事件でいうと「袴田事件※2」があって、国民のヒーローたる警察、検察が間違いを犯すことがあるということが少しずつ認知されてたと思うんです。当時は「林眞須美は真っ黒だ」という人がほとんどでしたから。

(※2.1966年一家4人殺害事件で袴田巌さんに死刑が確定した後、再審無罪となった)

第2回に続く。4日18時公開。

《プロフィール》
林浩次(仮名)1998年7月25日に発生した「和歌山毒物カレー事件」でカレー鍋にヒ素を混入したとされる林眞須美死刑囚の長男。同事件で67人がヒ素中毒となりそのうち4人が死亡。2009年最高裁で林死刑囚の死刑が確定した。林死刑囚側はこれまで何度も再審請求している。著書に「もう、逃げない。」(ビジネス社)、ドキュメンタリー映画「マミー」に出演。