秀吉は醜かった…?

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「信長らしさ」「秀吉らしさ」は本当か

 いつも眼光鋭く家臣たちに目を向け、自分で決断しては、豪快に声を上げる。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で小栗旬が演じる織田信長は、凛々しい顔つきや少し顔を傾げた斜に構えた態度とともに、いかにもそれらしく見える。また、池松壮亮が扮する木下藤吉郎秀吉も、辺り構わない大きな声や、満面に笑みを浮かべたときの敵の心さえくすぐってしまう愛敬ある表情など、いかにもこの人物らしい。

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 だが、考えてみると、私たちが「信長らしい」とか「秀吉らしい」と感じるイメージに根拠はあるのだろうか。NHK大河ドラマをはじめとする歴史ドラマや映画を通じて、なんとなくそういうイメージができているだけではないのか。それぞれの肖像画は、だれでも見たことがあるだろうが、あくまでも静止した姿で、豪快な声や満面の笑みが、はたしてその武将らしさなのかどうかはわからない。

秀吉は醜かった…?

 では、彼らの容姿を知る方法はあるのだろうか。同時代の日本の史料には、ほとんど書き残されていない。彼らは天下人であり、天下人となる前も、多くの家臣を従える有力な武将であり(秀吉の出自はともかくとして)、その容姿を書き記すことは不遜な行為なので、書く側にははばかられたと思われる。

 そんななか書き残した人物もいる。ヨーロッパから渡来したキリスト教の宣教師である。彼らには、有力武将や天下人に忖度する必要はなかった。面会する際は言葉や態度に気をつけたとしても、書いたものは日本人宛てではないし、そもそも日本人には読めなかった。そこで、ルイス・フロイスの『日本史』から、2人の天下人の容姿や様相を記した部分を以下に引用したい。

 フロイスの記述は、キリスト教に寛大な大名を褒め、それを弾圧した秀吉を悪しざまに書くようなところもあるので、あまり信用を措かない研究者もいる。しかし、それは文章の味つけに影響が出る程度のもので、さまざまな制約があった日本側の書き手が書けなかったことが自由に書かれ、捏造はほとんどないと筆者は考えている。

信長は中背で華奢な体躯

 まず、信長について描写した箇所から引用する。

「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった」(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)。

 小栗旬を含め、歴史ドラマや映画で見る信長は、背が高く、がっしりした体躯であることが多いが、中背で華奢だったという。ただし、メリハリのある声がよく通ったのだろう。引用を続ける。

「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった」

 日ごろはそれなりに穏やかで、人情味も見せるが、いざとなると激昂する信長。すばやく決断し、自分に対する侮辱には厳しく当たった、という姿は、流布しているイメージとさほど差がないように思える。

「彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、他人の取り扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した」

 非常にストイックであると同時に、他者に対してはきわめて尊大な態度をとっていたことがわかる。続いて次のようにも書かれている。

「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした」

 潔癖な合理主義者だったのだろう。会議が予定より伸びたり、説明する際にムダな前置きしたりするのを嫌った点は、現代の役所や企業なども見習うべき合理主義で、卑賎な家臣からも話を聞き出すところも、同じ合理主義の延長のように思われる。少し先には、次のような描写もある。

「何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した」

自他ともに「醜い」と認めていた

 さて、秀吉はどうか。天正14年(1586)3月、イエズス会の日本準管区長のガスパール・コエリョが大坂城で秀吉に謁見したときの記録には、「関白はあたかもはるかな聖幕屋にあるがごとく、がんらいあまり見栄えのせぬその容貌の特徴は我らの席からは辛うじて識別できるほどであった」と書かれている。「見栄えのせぬその容貌」が、具体的にどうだったのか気になるところだが、翌年、九州征伐に出向いた秀吉を、コエリョたちが訪れたときのことが、こう記されている。

「ルイス・フロイス師が通訳を務めていたが、関白はフロイスに言った。『皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ』と」

 身体は小さく華奢で、容貌は自他ともに「醜い」と認めていたことがわかる。さらに具体的なのは、生い立ちにまでさかのぼって秀吉のことを描写した次の記述である。

「彼は美濃の国の出で、貧しい百姓の伜として生まれた。若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができないで、極貧の際には古い蓆以外に身を掩うものとてはなかったと述懐しているほどである。だが、勇敢で策略に長けていた」

 生まれは「美濃(岐阜県南部)」と書かれている。秀吉の生誕地は尾張国(愛知県西部)の愛知郡中村(名古屋市中村区)とされるが、美濃だという説もないではない。

「ついでそうした賤しい仕事を止めて、戦士として奉公を始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、戦争の際に挙用されるに至った。信長は、美濃国を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、その封禄を増し、いっぽう、彼の政庁における評判も高まった。しかし彼は、がんらい下賤の生まれであったから、重立った武将たちと騎行する際は、馬から降り、他の貴族たちは馬上に留まるを常とした」

 それなりに出世してからも、信長のほかの重臣たちが騎馬で進行するとき、秀吉一人、馬から降りて進軍したというのである。こうした扱いも、下剋上への野心につながったのかもしれない。

直接会った人物による生々しい記録

 これに続いて、秀吉の容姿が描写されている。

「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった」

 後半は悪しざまに描写されている感があるが、小さく、目がとび出し、髯が少ないのは、いまに伝わる肖像画の印象とも重なる。「片手には六本の指」というのは、少し前にデイリー新潮に書いたが、いわゆる「多指症」である(別記事「NHK大河が絶対に描かない秀吉の身体的特徴 信長が呼んだ『六ツめ』」参照)。右手の親指が2本あったことは、前田利家の回想や逸話をまとめた『国祖遺言』(『加賀藩史料』所収)などにも記録されている。

 残念ながら、弟の羽柴秀長の容姿についての記述は見つからない。いずれにせよ、これらは実際に信長や秀吉に何度も会い、会話を交わし、彼らがさまざまな人たちに接する様子も、直接生で観察してきた人物による記録だから、生々しく、貴重である。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部