『ばけばけ』写真提供=NHK

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 トキ(髙石あかり)の叫びは絶品。朝ドラことNHK連続テレビ小説『ばけばけ』第24週「カイダン、カク、シマス。」(演出:泉並敬眞)ではヘブン(トミー・バストウ)が『怪談』執筆にとりかかる。ここでようやく第1話のトキの怪談語りに戻るのだ。ロウソクの灯りの下、トキは怪談を抑揚をつけて臨場感たっぷりにヘブンに語る。

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 長かった。119話もかかった。錦織(吉沢亮)との悲しい別れから10年ほど経ち、トキたちは熊本から東京に引っ越していた。ヘブンは都会が好きではないが、トキが東京に住みたがり、彼はその願いを叶えた。帝大で教師として月400円を得て、大家族は楽しく暮らしていた。

 ところが、ヘブンは50代になり、帝大をクビになる。作品も鳴かず飛ばずで、自分は「終わり人間」と落胆。そんなとき、トキの発案で『怪談』を書こうと閃いた。

 トキはこれまでヘブンの書いたものを読んでいなかった。内容が難しいうえ、そもそも英語だから読めなかったのだ。書く題材に困っていたヘブンに、自分や子どもたちの読めるものを書いてほしいと思い切って頼んでみたところ、『怪談』につながった。

 ヘブンに頼まれたトキははりきって怪談を収集してまわり、自分なりに解釈してヘブンに語り、それをヘブンが文字にする。『耳なし芳一』『むじな』『ろくろ首』『葬られた秘密』……、ヘブンのモデルである小泉八雲の『怪談』に入っている物語の数々が登場する。

 このドラマがはじまるとき、これらの怪談がたっぷりドラマのなかで語られるのかと期待した視聴者も少なくなかった。ところが、有名な『怪談』は小泉八雲の晩年に生まれた作品であり、そこに至るまでは長らく『知られぬ日本の面影』をはじめとして紀行文や民俗学的な研究書を書いていたのだ。その事実を一般視聴者は『ばけばけ』を通して知ることとなった。

 トキとヘブンは絵も共作していく。ふたりが怪談づくりに励むスケッチは『ルックバック』を意識したそうで、力作だった。それだけに、たった1話分(15分)で『怪談』ができてしまったことにはいささか拍子抜けした感もある。しかもイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)は渾身の原稿を表紙と冒頭1、2ページをざっと読んだだけで「幼稚」と落胆する。

 これも史実ベースである。いまでこそ『怪談』は日本で有名な作品だが、外国では相手にされていなかったそうだ(イライザはモデルはいるものの外国人の反応の象徴として創作されている)。

 橋爪國臣チーフプロデューサーは日本語が多く、外国人には理解できない箇所が多かったのだと言う。確かにタイトル『KWAIDAN』からしてなんのことやらわからないであろう。なぜ、小泉八雲は『GHOST STORY』としなかったのか。なぜ八雲は最後に『怪談』を書いたのか。

 『ばけばけ』は独自の解釈をとる。八雲は最後にトキにせがまれ、トキや子どもたちが読めるものを書いた。それはすなわち、司之介(岡部たかし)やフミ(池脇千鶴)が読めるものでもあり、さらにいえば日本の庶民が読めるものということだっただろう。

 最初のうちは異邦人の目で日本の素晴らしさを外国に伝える仕事をしてきた八雲が、日本に帰化して、松江、熊本、神戸、焼津、東京と日本列島の各地で暮らしながら、ついに日本人として日本人のための物語を残したのだ。そのため外国人に理解しづらい日本語を使用しているのだろう。それはセツが助手として関わっているからでもあろうと考えられる。セツが日本語に明るくない八雲に代わって執筆の手伝いをしていた。だからこそリアルな日本語の地名や用語が記されている。

 つまり、ドラマでいえば、商品名や地名などの固有名詞がたくさん出てくると俄然、リアリティが増し、受け手が自分ごととして物語を受け入れやすいというやり方である。例えば、地名や小説やミュージシャン名がたくさん出てきて観客の心をくすぐりまくって大ヒットした映画『花束みたいな恋をした』などがわかりやすい。

 小難しいことを考えたがりな筆者としては、トキが怪談を聞いてまわるのが、高齢者たちであること(少なくとも若者はいなかった)に着目した。高齢者から地域に伝わる伝承を聞くことの重要性。そうしないと歴史が失われてしまうから。小泉八雲は決して晩年に幼稚なものを書いたわけではなく、古くから日本に伝えられてきた日本人の、それもとくに貧しく恵まれなかった人たちの生活から生まれた物語を誰もがわかる形で残すという偉業を行ったのだ。小泉八雲が日本で見つめてきた日本の面影の集大成だったに違いない。

 『ばけばけ』ではそれがたった15分で描かれてしまった。そこをもっと丁寧に描いてほしかったとも思う。いや、序盤でも「怪談とは悲しいもの」と傳(堤真一)が言い、人柱になった人や貧しさゆえ凍死した子どもたちなどのことを物語にすることで悼み続けることであると定義されていた。だからこそ、繰り返しを得意とするふじきみつ彦には、ここをもう少し手厚くもう1度繰り返すことで、骨太な怪談論のようなものを書いてほしかった。

 だが、そういう小賢しい批評的な身振りをしないこともふじきみつ彦のよさでもあり、イライザのように「幼稚」と断じてしまいそうなふわっとやわらかなおふとんのような手触りの脚本を書く。そこに心地よさを見出す視聴者もいるのだ。トキとヘブンのわちゃわちゃ、それだけで満たされる視聴者も。

 筆者は考えたがりではあるが、そういう視聴者をも切り捨てたくはない。でも、ただただその瞬間の喜怒哀楽に流されないでほしいとも願う。その点、『ばけばけ』は楽しいだけで、へんな主義主張はない。作者の主張を極力排すことで、視聴者に想像の余地を残している。ふわっと寝心地のいいベッドマットの下に小さく固い豆が忍ばされているという童話のように。目をこらせば、登場人物の言動に感じる喜怒哀楽はどこからくるものか。いま目に見えているものの裏側に何かないか。もう一步、自分なりに考えることのできる物語だ。

 それはまるで、日本家屋の奥の間の暗がりのように。あの暗がりの向こうに何かが蠢いているのではないかと想像する。それが人間の生きる力だ。(文=木俣冬)