かつてはターミナル駅として繁栄してきたが…

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 2022年4月から休館していた江戸東京博物館が、2026年3月31日にリニューアルオープンする。

【写真】にぎわいを取り戻せ…両国で行われている“巻き返し策”の数々

 同館はJR総武線の両国駅に隣接するという好立地にあった。大相撲の聖地でもある両国国技館とも隣接していることから、新型コロナウイルスの感染が拡大する2020年以前は訪日外国人観光客が多く訪れる地としてにぎわっていた。

 江戸東京博物館は東京都の鈴木俊一知事(当時)が計画・建設を推進したミュージアムで、その目的には東京の歴史や文化を広く発信して魅力を再発見してもらおうという思いが込められていた。

 ただし、それはあくまでも表向きの理由に過ぎない。というのも、鈴木都知事は前任の美濃部亮吉都知事が残した都庁移転という課題に向き合わなければならず、都庁を丸の内から西新宿へと移転させることを検討していたからだ。

かつてはターミナル駅として繁栄してきたが…

 丸の内の都庁舎は1954年に完成し、鈴木都知事が就任した頃には時代に合わない庁舎になっていた。地方都市では続々と巨大な庁舎が建設されていたこともあり、東京都の庁舎が地方の庁舎より巨大かつ瀟洒でなければならないという自負もあった。

 そうした経緯から建て替え議論が進み、同じ場所で都庁舎を建て直すのか、それとも新天地へ新たに都庁舎を移すのかといった複数の選択肢が検討された。鈴木都知事は都庁舎が東側に寄り過ぎていることを理由に、多摩からもアクセスしやすい西新宿を新庁舎の候補地に絞った。

「発展から取り残された東側」

 東京は明治期から高度経済成長期まで一貫してにぎわいの中心が東側にあった。しかし、高度経済成長期に人口が急増すると、住宅地開発が西へと広がっていく。それに伴って、山手と称されていたエリアは西へと拡大する。それまで山手エリアの外に位置していた新宿・渋谷・池袋も山手エリアとみなされるようになり、街が発展すると同時に山手線の西側に位置する各駅はターミナル化していく。

 こうした情勢に加えて、都庁が丸の内から西新宿へと移転したら東京の東側は発展から取り残されてしまう。そうした危機感が高まり、東側を地盤にする都議の多数が都庁の移転に反対した。

 そうした反対派を説得するため、鈴木都知事は都庁移転と引き換えに墨田区に江戸東京博物館、江戸川区に葛西臨海水族園、足立区に東京武道館などを建設し、それらハコモノによってにぎわいを創出することを目指した。

 これらハコモノ建設は都庁移転により東京の東側が寂れてしまわないようにするための配慮であり、そうした利益誘導が奏功して都庁の西新宿への移転は都議会で承認される。

鉄道網もフル活用

 鈴木都知事が都庁移転のために打ち出したのは、そうしたハコモノだけにとどまらない。東京都荒川区・北区・足立区を走る日暮里・舎人ライナーや東京・千代田区の秋葉原駅と茨城県つくば市のつくば駅を結ぶ常磐新線(現・首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス)といった鉄道網の整備も都庁移転を実現させる道具としてフル活用された。

 日暮里・舎人ライナーは、主に足立区の鉄道空白地帯となっていた舎人エリアのアクセスを改善させることに成功。いまや全国でもっとも混雑する路線となっている。

 つくばエクスプレスは高度経済成長期に政府が考案した筑波研究学園都市と東京との距離を縮めることに主眼が置かれてきたが、開業後は想定以上に沿線開発が進み、沿線のベッドタウン化を担う路線となっている。

 都庁移転と引き換えに建設されたハコモノと鉄道は、政治的な使命を色濃く帯びていたものの、今ではそうした思惑を超えて東京都にとって欠かせないインフラとして周知されている。

ところが現在は…

 しかし、鈴木都知事が1995年に退任してから30年以上が経過し、それらのインフラは当然ながら経年劣化している。

 葛西臨海水族園は建て替え議論が起き、一時期は小池百合子都知事がガラスドームの建物を結婚式場へと転用するアイデアを披瀝すると、設計を担当した建築家の谷口吉生氏は猛烈に反対。そのため、建て替え議論は紛糾した。現在、東京都は新たな建物の整備を進めつつ、既存のガラスドームについての活用を模索中だ。

 一方、江戸東京博物館は2022年にリニューアルを発表して休館。特に建物をいじるということなく、展示内容の刷新に努めた。そのため、葛西臨海水族園のような反対は起きず、2026年3月31日にリニューアルオープンを果たす。

 江戸東京博物館は両国国技館が隣接していることから、大相撲観戦とセットで訪れる訪日外国人観光客が多かったが、そうした両国に根付く文化をいち早く察したのがJR東日本だった。

 両国駅の歴史を紐解くと、総武鉄道のターミナル駅として1904年に開業。当時は両国橋駅という駅名だった。また、両国駅西側に隅田川が流れているが、開業当時は隅田川に鉄道橋を架けることができず、両国橋駅は終点となっていた。

 そのため、千葉方面から東京を目指してきた乗客たちは、両国橋駅で下車して東京市電(後の東京都電)に乗り換えなければならなかった。

 こうした不便な状況は、1932年に鉄道橋が架橋されたことで解消される。両国駅で止まっていた総武線は御茶ノ水駅まで乗り入れることになり、利用者の利便性は飛躍的に向上した。

 その一方、両国駅は単なる通過駅になってしまい、乗換客を目当てにしていた飲食店や物販店などは売上を減少させることになる。当然ながら廃業する店も出て、ターミナル駅として繁栄してきた両国のにぎわいは減退した。

日比谷、錦糸町はにぎわうも

 両国の退潮傾向に追い討ちをかけたのが、阪急総帥の小林一三だった。阪急を率いた小林は私鉄のビジネスモデルを築いた人物と言われる。なぜなら小林は鉄道会社を単に列車を走らせる企業と考えずに沿線で住宅地を分譲し、駅に百貨店を併設し、郊外に動物園や遊園地をオープンさせるといった経営の多角化で鉄道会社の経営を安定化させた。

 小林は阪急を成功に導き、関西経済界のみならず東京でも名経営者として知られることになる。その後、小林の活動フィールドは東京にも広がっていくが、東京進出はそれまでの鉄道事業ではなく、宝塚歌劇団の公演や映画の制作・上映といったエンターテイメント分野に傾斜した。

 小林が東京の本拠地としたのは千代田区有楽町・日比谷で、周辺に勤めるサラリーマンをターゲットにするべく有楽町・日比谷一帯を劇場街にする青写真を描いた。

 しかし、そうしたホワイトカラーだけが娯楽を希求しているわけではない。工場労働者だって働いた後に娯楽を必要とする。

 小林は工場労働者、いわゆるブルーカラーの人たちも楽しめる街として両国駅の隣、錦糸町に白羽の矢を立てる。そして1937年、錦糸町駅の隣接地に江東楽天地をオープン。これを機に錦糸町は一気に繁華街と化していく。

 退潮する両国駅を尻目に、にぎわいを増す錦糸町駅。この構図は戦後にも引き継がれ、さらに1972年に始まる総武快速線・横須賀線の直通運転が追い討ちをかける。

 総武線快速と横須賀線の運行は、国鉄が高度経済成長期に打ち出した通勤5方面作戦によるもので、これは首都圏における鉄道の輸送力を強化する狙いがあった。

 通勤5方面作戦では、あらかじめ横須賀線と総武線快速は直通運転することになっていた。そのため、神奈川方面から走ってきた横須賀線の電車は東京駅から総武線へと乗り入れて千葉方面へと走っていく。東京駅から千葉方面へと向かう線路は、どこかで総武線と合流することになるが、国鉄はその合流地点を両国駅と想定し、両国駅にも総武線快速を停車させようとしていた。

 しかし、総武線快速は東京駅で地下に停車する。両国駅のホームは地上にあり、総武線快速のホームを設置するには線形的に無理だった。そのため、東隣の錦糸町駅に総武線快速ホームが設けられた。総武線快速が錦糸町のにぎわいを強化する役割を果たした。

観光立国で転機に

 鉄道という面から不利を被った両国に転機が訪れるのは、2012年に発足した第2次安倍政権が観光立国を掲げたことだった。安倍政権は訪日外国人を2020年までに2000万人まで増やすという目標を設定。ビザの緩和やアベノミクスによる円安誘導なども奏功し、訪日外国人観光客は想定以上のスピードで増え、政府は目標を繰り返し上方修正していった。

 そうした訪日外国人観光客の増加を受けて、JR東日本は両国駅のリニューアルを断行する。両国駅は関東大震災で駅舎が損壊し、1929年に新駅舎へと建て替えられた。建て替えられた両国駅舎は細部で改修をされながらも、現在まで使用され続けてきた。

 JR東日本は両国駅の歴史的価値を鑑みて建物外観や内装の装飾などは大きく変更せずに、「両国江戸NOREN」と命名した商業スペース部分を拡大することで駅の商業施設化に舵を切る。

 両国江戸NOREN最大の特徴は両国という国技館が立地する街に調和するように施設内に土俵を設け、並んでいる店舗も江戸情緒の雰囲気を大事にしたことにある。

 駅舎の商業施設化による活性化だけではなく、JR東日本は使用されなくなった両国駅3番線をイベントスペースなどとして積極的に有効活用するようになっている。

 前述したように、両国駅はターミナル駅として繁栄してきた歴史がある。錦糸町駅にその地位を脅かされながらも、両国駅は房総方面の特急列車始発駅という役割を手放さなかった。それが両国駅のターミナルとしての“格”を保ってきたが、需要が減退したことにより1991年に両国駅を発着する特急列車の定期運行の終了を迎えた。

 これによって、3番線から発着する定期列車は房総方面の駅売店に新聞や雑誌を運ぶ新聞輸送列車だけになった。ほとんど使われない3番線は改修工事を経て、2010年からイベントスペースへと生まれ変わる。

 3番線ホームではビアホールのような飲食イベントを実施することもあれば、江戸東京博物館のリニューアル100日前イベントといった地域に密着したイベントも開催する。

さらなる巻き返し案

 3番線ホームを活用したイベント開催は、どうしても土日祝日に偏在する。稼働率を考えれば効率的とは言えない。JR東日本は2018年から両国駅発着のサイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE(B.B.BASE)」の運行を開始し、積極的に有効活用を図ろうとしている。

 同列車は輪行ブームに目をつけたJR東日本による需要掘り起こしという試みだった。房総エリアはツーリストの間で人気が高く、それゆえにB.B.BASEは年を経るごとに運行範囲を拡大。また、停車駅を追加してツーリングコースのバリエーションも増やしたことにより、手堅い人気となっている。

 さらにJR東日本は2013年に両国駅の隣接地に“新”両国広小路ともいうべきオープンスペースを開設している。

 江戸時代、市中のあちこちに公共空間として広小路が開設された。広小路は火災時の延焼防止といった防災機能や人が集まる集会機能などを内包している。江戸には上野広小路や浅草広小路など複数の広小路が設定されている。

 隅田川の東岸にも両国広小路が設けられている。両国広小路は江戸三大広小路とも呼ばれる名所で、現在の中央区東日本橋に所在していた。しかし、それらは都市化の進展によって姿を消した。

 新たに誕生した両国広小路は、墨田区・観光協会・NPO・地元の民間企業など官民によるイベントを盛んに実施。JR東日本は遊休空間を地域に貸し出すことで、両国のにぎわいの側面支援に努める。

 間もなく迎える江戸東京博物館のリニューアルオープンは、長らく錦糸町の後塵を拝してきた両国が巻き返しを図るための総仕上げでもある。

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮編集部