記者たちは銀座の街を歩き回って情報を集めた(写真はイメージ)

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実名・年齢・年収・顔写真付きで…

 第1回記事でご紹介した『銀座百年史』には、「CLUB」欄が十数カ所で引用紹介されている。そのなかで、誌面そのものを複写収録した、驚くべき記事がある。それが、連載開始からわずか4カ月後の、1976年5月4日号、《五十年度かせぎ高に見る 銀座ホステスのプロフィル》である(全2回の第2回)。【森重良太/ライター・編集者、元週刊新潮記者】

【写真を見る】今となっては貴重な「銀座ホステス長者番付」記事など、CLUB欄が残した輝かしい歴史

 いま、このような記事は、まずできないであろう。各地の税務署が発表した所得番付(高額納税者公示制度。2005年に廃止)に名を連ねた銀座のママやホステスを“一斉調査”。ご当人が、実名・年齢・年収・顔写真付きで続々登場。もちろん、勝手に載せているわけではなく、ちゃんとご本人に取材、撮影し、コメントまでもらっているのだ。

記者たちは銀座の街を歩き回って情報を集めた(写真はイメージ)

 第1位は、当時TVなどでもおなじみだった有名クラブ「順子」の田村順子ママで、公示税額が1700万円、年収は2020万円だという。

 その「順子」のナンバーワン・ホステスが、Nさん(30歳、記事では実名。以下同)で、年収1350万円。「色気もないし、お酒も飲めないし、話しベタだし……」と謙遜している。

 お次は、年収1235万円、渋谷税務署管内で140番目あたりにランクインした、クラブ「P」のホステス、H子さん(27歳)。実家は京都の造り酒屋。京都女子大在学中に家出して上京。劇団青年座の研究生からフーテン族を経て銀座へ。コメントは「年内に何とか独立して、お店をやりたいの。銀座でクラブをやるのって、詐欺みたいな商売だから、いちばん手っ取り早いでしょ」。記事では〈イヤ、ご立派!〉と誉められている。

 だが、“高額収入ママ・ホステス”たちにも、苦労が多いようだ。記事の最後に登場したのは、〈去年、仲間と「N」を買い取ってオーナー・ママの仲間入りをしたYママ(34歳)〉。コメントは、

「オーナーなら、役員賞与だから、ふつうのホステスなら三割は落せる必要経費を認めないって、税務署がしつこくイジメるの。衣装代だって車代だって、ホステス以上にかかるのに……」

 むかし、“税務署職員は、週刊新潮をスミからスミまで読んでいる”との伝説があったが、その理由がわかるようなコメントである。

皇族も続々登場

 こうして『銀座百年史』で紹介される「CLUB」欄のタイトルをならべると、それだけで、見事な“銀座史”になっていることが、わかる。

《高松宮殿下御臨席 「ワールド・ジョイ」の開店祝》(1976年7月8日号)……開店に駆けつけた高松宮殿下。店でくつろぐ殿下とママのツーショット写真付き!

《脂粉と紅灯の裏方 銀座のオバチャンたち》(1978年2月2日号)……銀座クラブ街を陰から支える女性たちを、愛情たっぷりに紹介。靴磨き、花売り、オニギリ屋、トイレ係、更衣室係等々。

《取締り強化に泣く 銀座のポーターたちの生態》(1982年2月18日号)……銀座に約60人いる、お客呼び込みと車の誘導の専門家たち。この道26年のジミーさんは、松本清張『彩り河』にも登場。

《消費税導入で銀座の値段はどう変る》(1989年3月30日号)……3%導入で講習会は大盛況。全都道府県出身のホステスを置く老舗キャバレー「白いばら」は「便乗値上げなし、4%値下げします」。

《「水割り」時代は終りか 銀座の洋酒文化》(1989年4月13日号)……銀座の客は水割りでガブ飲みし、ボトルを消費することで店に貢献してきた。だが、ワインやシャンパンが定着してボトルが減らなくなった。

《「二割引き」の店も現れた 銀座クラブのバブル以後》(1991年7月25日号)……バブルがはじけて、ついに「二割引き」の案内状を発送するクラブも登場。

《寛仁殿下も弔問した 銀座『らどんな』ママの死》(1991年8月8日号)……名店「らどんな」の名物マダム、“お春さん”こと瀬尾春さんが72歳で逝去。なんと葬儀は、お店で開かれた。そこに黒塗りの車が。降りてきたのは、三笠宮寛仁殿下だった。

《フランス政府が叙勲した 銀座二十年の名バーテンダー》(1992年5月28日号)……バー「オリオンズ」の澤井慶明さんが、ワイン文化向上を認められ、フランス政府から「シュバリエ勲章」を受勲。バーテンダーとしては世界で2人目の快挙。

《酒の安売り屋大進出で 銀座「高級クラブ」の飲み代》(1994年6月2日号)……「信濃屋」「ビッグ銀座」など、格安酒店が続々開店。年中無休、現金のみ、配達なし、深夜営業。ドンペリがディスカウント価格で大売れ。
 
 まさに「CLUB」欄は、銀座の歴史そのものであった。

クニさんの“銀座取材方法”

 そんな「CLUB」欄の名物記者、クニさんこと國安輪記者に連れられ、銀座クラブの取材を経験した記者がいる。現在60歳代後半のAさんだ。

「あのころ、わたしは20歳代後半でした。クニさんの銀座取材に、連れていってもらったことがあります」

 それは、ある有名クラブをめぐるスキャンダルめいた話題だったが、クニさんは、最初からその店に乗り込むのではなく、まず、どんな店なのかを、旧知のクラブへ行って、周辺の“予備取材”からはじめるのだった。

「その店で、クニさんは、奥に入らず、入口すぐの小さなカウンターに座り、横にママさんに来てもらっていました。そして『ママ、今日は水割り一杯で勘弁して。女の子(ホステス)も、いいから。すまないけど現金で払うので、領収書をもらえるかな』と頭を下げたうえで、いろいろと、目的の店の噂話を聞きだしていました」

 てっきり、美しいホステスたちと同席できるのかと思っていたAさんは、拍子抜け。あとで聞くと、クニさんは、こう話してくれたという。
 
「奥のテーブルに座ってホステスが付くと、すぐウン万円だからね。いくら取材費があっても、足りない。そもそも普通は、あとで請求書が来て、会社が振り込むもの。銀座の客は大半が、社用族だからね。だけど、ぼくたちはそんな贅沢はできないから、取材のときは、現金払いで“学割”にしてもらうんだ。もちろん、なじみで、よく知ってる店でないと、こんな呑み方できないよ」

 Aさんは、「どうやらクニさんは、そういう呑み方のできる店を何軒も、銀座に抱えているようでした」と、回想する。さらに、

「1978〜1980年に、松本清張さんの、銀座を舞台にしたサスペンス小説『黒革の手帖』が週刊新潮に連載されました。このとき、取材源を極秘で松本先生に紹介したのが、『CLUB』欄の両記者です。先生は、さすがに銀座ホステスの実態までは、取材ルートがなかったので、おおいに助かったと、喜んでくださったそうです」

 近年も、しばしばTVドラマ化され、米倉涼子の当たり役となった『黒革の手帖』の陰には、「CLUB」欄があったのだ。

 連載が長引けば、当然、記者も老いる。しかも、毎晩、酒席がらみの取材で、締切日は完全徹夜である。まず岩本記者が現場取材を引退。福島清茂記者が加わり、國安・福島両記者の取材を岩本記者がまとめるスタイルとなった。だが、やがて岩本記者も完全引退。

 その後、國安・福島コンビで連載は続くが、次は國安記者が引退。野村健記者が加わり、最後は、福島・野村コンビで、1997年8月7日号《銀座を捨てたホステスが選んだタクシー人生》で、最終回を迎えた。タイトルに《銀座を捨てた》とあることが、いかにも「CLUB」欄の終焉を思わせる。連載は、足かけ「22年」、「1076回」におよんだ。

 最後の「CLUB」欄記者、福島清茂さん(75)は、「岩本さんもクニさんも、最後はきつかったと思います。でも『CLUB』欄は、銀座の最盛期からバブル崩壊の、さらにその後までを、見事に見届けたんだよね」と、懐かしむ。

 岩本隼記者も、國安輪記者も、すでに鬼籍に入っている。活字になった原稿は、400詰め用紙で約1万枚。取材原稿は、ゆうに10万枚を超えていたという。いま、銀座は、高級ブランド店と外国人観光客でにぎわっている。有名クラブの閉店がつづき、チェーン店の飲食店も増えた。そんな銀座を、天上の岩本・國安両記者は、どんな思いで眺めているだろうか。

【第1回は「銀座“100年史”を彩った異色の週刊誌連載『CLUB』欄とは? 銀座の最盛期からバブル崩壊までを見届けた『担当記者』の素顔」週刊誌の歴史に残る名物企画誕生の舞台裏】

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部