『劇場版「進撃の巨人」完結編THE LAST ATTACK』©諫山創・講談社/「進撃の巨人」The Final Season製作委員会

写真拡大

 テレビアニメ『進撃の巨人』第1話のファーストショットは、空を飛ぶ鳥だった。

参考:『チェンソーマン』『呪術廻戦』『いぬやしき』 “東京を破壊し続ける”MAPPAアニメの美学

 そして、セカンドショットはエレンの目のクローズアップだ。ここでエレンの瞳に空を飛ぶ鳥が映りこんでいる。

 しかし、それ以降のショットで描かれるのは、超大型巨人を見上げて立ちすくむ人々の姿だ。この卓越した物語は、多くの人々が突然の巨人の出現に呆然としている時に、主人公だけは鳥を見ていた、というシークエンスから始まる。主人公エレンは、物語の始まりの時から他者とは違うものを見ている存在だったのだ。

 この鳥は原作の第1話には出てこないが、後に原作においても鳥は象徴的な存在として扱われるようになる。例えば、物語の重要な転換点となる「マーレ編」最初のエピソードでも鳥のショットから始まり、セカンドショットはその鳥を見ているファルコの目のクローズアップとなる。

 この一見なんでもない描写は、秀逸だ。地を這う人類と巨人の「争いの現実」と、空を舞う鳥が象徴する「自由への憧れ」。

 本作は、人が争いをやめられないメカニズム(地獄)を描ききった稀有な作品であり、同時に、そこから逃れうる唯一の光をも描く。この作品が持つ力は、急速に混沌としてきた世界情勢を前に一層説得力を帯びるようになっており、まさに世界はこのようなメカニズムで動いているのかと実感させられる。

■「守る」ために殺し合う人類の業 『進撃の巨人』は、母親を巨人に殺された少年エレンが、巨人を「この世から一匹残らず駆逐してやる」と決意し、兵団を目指すところから物語が大きく動き出す。エレンたちの生きる世界は、3つの高い壁によって守られており、兵団は巨人の脅威から人々を守るために存在している。

 軍隊の存在意義は守ることにある。「全ての戦争は防衛戦争である」と言った人がいたが、どんな戦争も、内実はどうあれ宣戦布告の際には、国民や領土を守るためと称して戦いは行われる。プーチンですら、ウクライナに侵攻する際、NATOの東方拡大からロシアを守るためという理屈を持ち出しているし、ナチスドイツも同様だった。今トランプ米国大統領がグリーンランドを占有しようとしているのは、明確に侵略であるにも関わらず、それは中国やロシアの脅威の増大という理屈で展開される(それが事実かどうかはとりあえず置いておく)。ここで重要なのは、戦いとは「守る」という目的があって初めて正当化されるということだ。

 誰もが「守ること」を口実に戦うというこの事実を、本作は視点を入れ替えることで説得力を持って描いてみせる。前半では巨人の脅威と戦うエレンたちの視点から展開していた物語が、今度は攻め込んでいたライナーたちマーレ側に視点を移し、侵略者と防衛者の構図を逆転させる。すると、侵略者たちもまた、自らの家族や立場を守るための戦いをしていたことが明らかにされていく。

 彼らを戦わせるために、国は歴史を都合よく歪曲し、互いを悪魔化する。排外主義もそうやって生まれていく。本作では長きにわたる歴史教育によって相手を悪魔化するようになった人物(例えば初期のガビ)も登場すれば、諸外国からの脅威に晒され、数年間で急速に排外主義的になっていく人物(例えばフロック)も登場する。どちらも、昨今の現実社会でよくいる人間だ。こうなると人間は争うことをやめられなくなる。

 しかしながら、この作品が時代を先取りしたということではない。むしろ、人類の歴史は常にこの繰り返しだったというべきだろう。そういう歴史の普遍性を、強い説得力を持って描いたのが『進撃の巨人』という作品なのだ。

■自由の逆説に囚われる主人公 国境や壁といった線を引いて、自分たちと相手を分断して争う人間たち。一方で鳥は国境も壁も関係なく空を飛び回る。自由を象徴する鳥に見とれていたエレンは、果たして本当に争いをやめられない人間の業から自由になれただろうか。

 50メートルの壁に囲まれた世界で生きるエレンは、壁を疎ましく感じ、自分たちは鳥かごに囚われているのだと感じていた。だからこそ、その壁を悠々と飛び越える鳥に憧れた。

 その壁の向こうには海があり、その海の向こうにいたのは敵だった。どこまで進めば自由になれるのかとエレンは海を指さしながら問う。人はどこまで行っても争っており、何かに囚われており、壁の中も外も同じだったとエレンは失望する。

 それでもエレンは歩みを止めず、人類の虐殺へと向かう。それは104期の仲間を守るためであり、同時にそこには個人的な動機も潜んでいた。「自由になりたい」という渇望だ。

 エレンは結局自由だったのか、それとも不自由だったのか。ここには「自由の逆説」がある。端的に、エレンは「自由になりたい」という想いに囚われすぎていた。「自由になりたいという気持ち」から自由になれなかった。

 「自由になりたい」と願い、進み続けること自体が、彼を争いの奴隷にしていたのではないか。エレンが人類共通の敵となり、自らを犠牲にして仲間を守ろうとした結末においてさえ、結局のところ争いをなくすことはできなかったことが示唆されている。

 「守るための戦い」も「自由への渇望」も、人を争いから解放してはくれなかったのだ。エレンはどこまでも鳥のように自由になりたいと思い進み続けた。しかし、生きているうちにはそれが叶わなかったのだ。

■そんな地獄でも生まれてくることは素晴らしい 自由にもなれないし、争いも止められない。そして、人間は地を這うしかなく鳥にもなれない。そんな世界は地獄だ。

 では、そんな地獄に生きる価値はないのか。獣の巨人・ジークの言うように、この世界に生まれてくること自体が悲劇なので、生まれてこない方がよかったのか。

 『進撃の巨人』がすごいのは、一切世界をごまかさずに地獄を描きながらも、なおそれでもこの世界は生きるに値すると描いた点にある。

 アルミンは、「夕暮れ時、丘にある木に向かって3人でかけっこをした。なんでもない一瞬がすごく大切に思えた」と言う。人が生きる喜びを見つけるのは、そんな小さな一瞬にある。世界に絶望していたジークもまた、クサヴァーとのキャッチボールを意味もなく興じていた時の楽しさを思い出す。

 種を増やすためにも、国を守るためにも役立たない、何の意味もないことに興じること。それが実のところ、一番自由な状態なのではないか。

 世界は混迷している。絶望的な排外主義が世界で立ち上がっている。役に立たないものは不要と切り捨てられて効率ばかりが優先される。しかし、それでもなお私たちの生きる世界には美しいものもあり、生きるに値するものがある。かけっこをすること、キャッチボールをすること、友達と話すこと、海や山に行くこと、アニメや映画を見ること、マフラーを巻いてもらうこと。それらは何の役にも立たないが、それゆえに生きることの価値はそこにある。この作品はそう描いているのだ(おまけマンガの『進撃のスクールカースト』ですらそういう結末だった。「お前らと映画見れて楽しかったよ」というエレンのセリフ)。

 人は争いをやめられない。しかし、もしみんながどうでもいいこと、役に立たないが美しいものや楽しいことに夢中になれば、その時だけは争わずに済むのかもしれない。ずっとキャッチボールをしていることさえできれば、この世界はただ美しい平和な世界になるかもしれない。

 争いを止められない人類の業を圧倒的な深度で描きながらも、小さな幸せはそれに匹敵するのだと力強く描いたからこそ、『進撃の巨人』は名作なのである。(文=キットゥン希美)