広島テレビ放送

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太平洋戦争の特攻作戦に向かった若者のなかに福山で訓練を受けた隊員がいました。彼らが乗り込んだのは、その形から「下駄ばき水上機」と呼ばれていました。隊員が残した日記からひもとく特攻の秘話です。

鹿児島県指宿市。かつてこの場所に海軍の航空基地がありました。80年前、ここから特攻隊が出撃し、82人の若者が亡くなりました。

■指宿海軍航空基地を研究 橋野裕明さん
「福山の、ここやな。9人ですね」

慰霊碑には、福山で訓練を受けた9人の隊員の名前も刻まれていました。彼らが乗り込んだ機体は、「下駄ばき水上機」と呼ばれていました。海の上から離着水するため、機体の下についていた「フロート」。「下駄ばき水上機」はその形から呼ばれていたものでした。

特攻で使用された水上機は、戦艦大和にも搭載されました。正式名称は「零式観測機」。敵艦の観測が任務で、戦闘機と比べ、スピードが出ませんでした。海軍航空隊の基地は、福山市大門町にありました。全国から若者が集まり「下駄ばき水上機」で特攻訓練に励みました。性能の劣る機体で特攻した隊員たち。どんな運命をたどったのか…。

橋本榮嗣さん。父の遺品を、大切に保管していました。

■橋本中尉の息子 橋本榮嗣さん
「ここに書いてあるが、サングラスをかけているのが父です」

福山海軍航空隊の特攻隊員だった橋本光榮中尉。日記を残していました。そこには、日々の訓練の内容や、その時の心情を記していました。日記は、特攻訓練が始まった3月から書かれています。

■橋本中尉の日記
「三月二十六日。愈々(いよいよ)特攻攻撃法の訓練だ。照準器に入れつつ、冷静に諸計器に注意し一度掴みたるは断じて逃がさじ。みるみる大きくなる目標、気速増大にしてフラフラしてくる。何くそなにくそ死にもの狂いの照準だ」

■橋本中尉の日記
「五月二十日。愈々(いよいよ)来るべき日は来た。準備万端整いたる時、静かに回想すればいひ知れぬ喜びの中に悲しき決意の情走る。何ど考へても何ど直面しても死は恐しい」

元整備兵の梶原さんは、この日のことを忘れられません。

■福山海軍航空隊 元整備兵 梶原志計雄さん
「航空隊の司令がね、茶碗に一升瓶からだくだくと飛行兵に酒をつぐの。『飲んでくれ、別れの茶碗酒』と。飲むというよりもぶつけるとういうような感じだった。じっと見ていたら、キラッと涙が見えた。『そうかこの人、死にに行くんだ』と」

日記に度々出てくる名前があります。「椎根中尉」。椎根正中尉は橋本中尉と海軍の同期でした。仲も良く、それぞれ部隊を率いるリーダー的存在でした。福島県出身。早稲田大学文学部を卒業した椎根中尉は、温厚な性格で部下からも慕われていたといいます。

文学青年らしい一面も。家族には度々手紙を送っていました。

■椎根中尉の手紙
「いつでも笑ってやれます。肝っ玉ができました」

かつて福山駅前にあった「小林旅館」。訓練を終えた隊員たちが、疲れを癒やす憩いの場となっていました。椎根中尉は、お世話になった旅館に、写真と歌を残していました。

■椎根さんの歌
「皇神の御代安かれと祈りつつ 特攻隊員弥継ぎて発つ」

「日本が平和になるよう祈りながら、特攻隊員は次々とお国のために飛び立つ」という歌でした。

福山海軍航空隊で先陣を切ったのは椎根中尉が率いる部隊でした。6月25日夜。下駄ばき水上機とともに出撃した椎根中尉は沖縄本島周辺で敵の部隊を発見。突入の打電後、連絡を絶ちました。

橋本中尉は、翌26日に出撃する予定でしたが、天候が悪く、それ以降も飛び立つことはありませんでした。

■橋本中尉の息子 橋本榮嗣さん
「私がちらっと父親に聞いたのは、死ななかった、死ねなかったというか、正直生きのびたという嬉しさと戦友に申し訳ない、自分だけ生き残ったみたいな部分があったし、そんなことをちらっと漏らしたことがあった」

戦後、橋本光榮さんは椎根正さんの家族に手紙を送っていました。そのなかに椎根さんが語ったという最後の言葉がありました。

■橋本中尉の手紙
「貴様と俺とは同期の桜、同じ福山の庭に咲く、血肉を分けたる仲ではないか。何故か気が合うて別れられぬ」

「下駄ばき水上機」で飛び立った若者たち。彼らの素顔は、仲間と笑い、別れを惜しむ。それは、今の若者と変わらないものでした。

【2025年10月31日 放送】