阪急ブレーブスのレジェンド・山田久志氏が語ったアンダースロー誕生のきっかけ 独特の投球フォームと“伝家の宝刀”シンカーの秘密

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昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・紱光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)のエースとして活躍し、アンダースロー投手としては歴代最多の284勝をあげた山田久志氏。17年連続2けた勝利、12年連続開幕投手、3年連続MVP、最多勝3回など輝かしい足跡を残した史上最高のサブマリン投手に紱光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

投げ方はオーバーハンド?

“史上最高のサブマリン”と称される山田氏だが、山田氏の投球フォームは独特で通常のアンダースローのピッチャーとは異なるという。

山田:
私のアンダーハンドは、皆さんのアンダーハンドとちょっと違うんです。
オーバーハンドは頭の後ろにボールを持っていってから投げますよね。私の投げ方は、そのオーバーハンドと同じ入り方で、そこからただ体を前に倒してるだけなんです。

徳光:
すると、投げるときの腕の振りが後ろの方までいってないっていうことですか。下手投げは、普通は後ろのほうに腕を伸ばしてから投げますよね。

山田:
それではスピードが出ないんですよ。私のフォームは、最初はオーバーハンドの入り方なんです。オーバーハンドと同じように振りかぶって、それから体を倒して投げるんです。単純なんです。

“伝家の宝刀”シンカー習得

徳光:
山田さんといえば“伝家の宝刀”シンカーですが、阪急の先輩である足立(光宏)さんが投げてましたよね。これは足立さん直伝になるわけですか。

山田:
いや、足立さんからは最後までシンカーを教わってません。

徳光:
へぇ。そうなんですか。

山田:
プロに入って7〜8年ぐらいになってきたら、だんだん打たれ出したんです。「やっぱり真っすぐとカーブだけじゃ通用しないかな、このままだとそんなにいい成績を残せないな」っていう危機感を持ってたんですね。
そのときに、山口高志っていう剛速球ピッチャーが入ってきた。私は、阪急のピッチャーの中では自分は速いっていう自信を持ってたんだけど、彼の速さにはかなわないと思ったのね。
「速さだけでは勝負できないから、何か球種を覚えなくちゃいけない、足立さんが投げてるシンカーを覚えよう」って思って、足立さんに聞きにいくんですよ。

徳光:
すると、足立さんは?

山田:
「そんなもの、覚えんでいい」って言われた。
後から足立さんに伺ったら、「山田は器用なピッチャーだから、教えたら、恐らく2〜3カ月で俺のシンカーをマスターできたんじゃないか」って言うんですよ。「そのシンカーがうまくいってくれたらいいけど、もし使ってみて、あんまりうまくいかないなと思ったらシンカーをやめるだろう。だから、あえて教えなかった」って言われましたね。

徳光:
もしかすると後々教えるつもりで、そういうことをおっしゃったのでは。

山田:
最後には「俺の握りはこう」って、握りだけ教えてくれました。

徳光:
山田さんのシンカーと足立さんのシンカーの違いを教えてもらえますか。

山田:
足立さんのシンカーは縫い目に指をかけないんですよ。それで、そのまま真っすぐ投げるんです。足立さんのシンカーは、極端に言えばボール1個半ぐらいしか沈まないんですね。

山田:
私のシンカーは、今でいうスプリット系なんです。アンダーハンドでも、もっとボールが落ちないかなと。足立さんのシンカーは滑らす感じのシンカーなんですが、私は沈むというよりも落としたかったんですね。

徳光:
ストンと。

山田:
人さし指と中指の間を開いて両方の指を縫い目にかけるんですよ。それで落とすんですね。だから、スピードも落ちなくて落差が大きいんです。そうすると空振りが取れるんですよね。

徳光:
でもコントロールが難しいでしょう。

山田:
難しいです。だから、自由自在に扱えるようになるまで2〜3年かかりましたね。

兄の甲子園出場でお祭り騒ぎ

山田氏は秋田県能代市の出身。中学時代にお兄さんが能代高校で甲子園に出場した。

山田:
大変な騒ぎになったんですよ。甲子園初出場ですから。
「甲子園に出るってすごいことだな。俺も本格的にやってみようかな」と思ったのが、野球にのめり込んでいくきっかけですね。

徳光:
すぐにピッチャーを始めたんですか。

山田:
いえいえ、私は内野手でした。中学で野球やってたときは、とにかく内野手がやりたくて。
長嶋さんファンですから、できることならサードがやりたい。中学校のときはサードで3番。

徳光:
高校では。

山田:
高校は2年生からレギュラー取ってサードで2番ですね。

徳光:
ピッチャーはいつからなんですか。

山田:
それは、あんまり言いたくない話なんですけどね。

痛恨エラーでなぜか投手に

山田:
甲子園の予選(西奥羽大会)3回戦で、9回裏ツーアウト満塁で私はサードを守ってたんです。それで、何でもないゴロが来たんですよ。
満塁ですから、ボールを取って目の前にあるベースを踏めばいいだけなんですけど、そのとき、ボールをポロっと落としたんです。それでも、まだ全然慌てる必要ない。拾ってそのままベースを踏めばいいのに、落とした瞬間にアッと思ったんでしょうね、一塁に投げたんですよ。ファーストもボールが来ると思ってないですから、入るのがちょっと遅れているんです。それで暴投になってサヨナラ負けです。
2年生のとき、3年生にとっては最後の大会。

徳光:
後期高齢者になって、そんなことを思い出させてしまいまして、申し訳ございません(笑)。

山田:
だけどそういうのは、よく覚えてるんですよね。
それで、もう野球を続けていく自信ないなと思ってたら、監督に呼ばれて、「お前、ピッチャーやれ」って。「はっ?」ってなって。だって高校2年までピッチャーやったことないんですよ。

徳光:
でも、その後、プロで大投手になるわけで、それも稀有なケースですね。

アンダースロー誕生

高校2年のときに投手に転向した山田氏。当初はアンダースローではなかったという。

山田:
高校時代は我流で投げてました。自分が投げたいとこから投げる。
ピッチャーやるとなったら、最初は上から投げますよね。でも全然ダメで。
先輩から「腕を下げてみろ」と言われて、横から投げたりスリークォーターから投げたり、いろいろしてたんですよ。

徳光:でも実業団の富士製鉄釜石(後の新日鉄釜石)には野球でお入りになったわけでしょ。

山田:
実は最初は、学校の先生が茨城にあった日本鉱業という社会人野球を紹介してくれて、受けに行ったんですけど、不合格。
さあ困った。野球続けるための場所がなくなっちゃった。そのとき、富士製鉄釜石にまだ1つか2つ高校の枠があるということで行ったんですよ。

山田:
そしたら、釜石の監督さんが、「お前、ピッチャーやるか、それとも、バッティングもいいし足も速いから野手をやるか」って両方を言ってくれたんです。「できることならピッチャーで勝負してみたいです」って答えたら、「よし分かった。アンダーハンドでいこうか」って言われたのが最初です。

徳光:
その監督の勧めでアンダースローになったんだ。

山田:
「アンダーハンドっていうのはこういうもんだ。こういう投げ方をしなくちゃいけない」とかのコーチングを受けたのは釜石なんですよ。

都市対抗で初登板初完封

徳光:
富士製鉄釜石では、かなりいい成績を残したわけですか。

山田:
いや、1年目はまだやっぱりフォームが完成されてませんから…。
そんなとき、釜石が都市対抗で東北の代表になるんですよね。1回戦の相手が日本生命なんですよ。もう全くかなわないですよ。優勝候補ですから。

山田:
そしたら、監督が朝、「山田、お前、今日先発だ」って。

徳光:
寝耳に水もいいとこですね。

山田:
びっくりしたっていうよりも、恐らく何かの間違いだろうって思いましたね。
ところが、その試合、なんと完封で勝ってしまうんですよ。

徳光:
10代で優勝候補を完封。それはプロが注目しますよね。「何だ、こいつは」って。

母のひと言でプロ入団拒否

徳光:
その年のドラフトで、確か西鉄ライオンズに指名されましたよね。

山田:
そうなんです。11位指名。単純計算でその年の120番目とか130番目の選手です。だけど本人は舞い上がってるんですよね。

徳光:
そうでしょう。プロに指名されるって。

山田:
ドラフトに名前が出るっていうことは、それはもうすごいことですよね。
でも、お袋が「何、馬鹿なこと言ってるんだ」って。「自分が行きたいところに行けなくて釜石さんにお世話になってまだ半年。何のお返しもしないで、『今度はこっちへ行きます』なんて言うのはおかしいんじゃないか」って言われて。

徳光:
そのお母さんの言うことを聞き入れたわけですか。結果的には大正解でしたね。

山田:
確かに、ライオンズに行ったら違ってましたよね。博多の街にやられてますね(笑)。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/5/21より)

【後編】へ続く