山門がオートメーションで開いてくれたら…シングルファザー住職の愛する2人の子供たちとの滑稽で孤独な朝の風景

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仕事を遅くまで頑張ったご褒美にちょっとお酒を…。そんな夜もあるだろう。しかしつらいのは翌日の朝。

ワンオペで2人の子供を育てていればなおさらである。

浄土宗・龍岸寺住職の池口龍法さんの著書『住職はシングルファザー』から、そんなつらい朝のバタバタする親子のひとときを一部抜粋・再編集して紹介する。

年に数回起きる“気の緩み”

さて、「シングルマザーよりシングルファザーのほうが孤独だ」という愚痴の根拠についてさんざん書き綴ってきたが、現実の生活をワンオペで回さなければいけない点においては、およそ違いはない。

私の場合、原稿の締切が間近に迫っている日など特に過酷だった。

子供が寝静まったあとに、疲れた体に鞭を打ってPCに向かわないといけない。昼間のうちに提出できれば編集側もその後の段取りが楽なのだろうが、無理なものは無理である。せめて心配させないように「締切は忘れていません。今晩中に送ります」と一報入れておいて、最後の気力を振り絞ってなんとか書き上げる。ささやかなご褒美にお酒を飲む。一杯だけのつもりが「今日ぐらいいいよね」とつい深酒してしまう。

そうすると、朝が起きられない。

10歳にも満たない子供2人が気を利かせて私を起こしてくれることはほとんど期待できないから、私が起きなければ、一家全滅が確定する。いくら気を付けていても、こういう気のゆるみが年に数回はどうしても起こる。

ワンオペ中の朝の訃報

そんな朝にかぎって、早朝から電話が鳴ったりする。

寝床で「うわぁ…檀家さんの訃報だ」と直感する。私が出なければ電話が鳴りっぱなしなのはわかるが、体がどうしようもなく重たい。

それでも、「この電話に出られなければ住職失格だ」と自分を奮い立たせ、気力を振り絞ってなんとか電話機のところまで行く。受話器を取る前に一呼吸を置き、声がきちんと出るか確認をする。

「アアア…」

二日酔いの寝起きらしい、ガラガラしたかすれ声しか出ない。この声で、受話器の向こう側の悲しみに暮れる遺族と話すのかと思うと泣きたい気持ちになるが、今さらどうしようもないので覚悟を決めて受話器を取る。

精一杯はきはきした発音で「おはようございます。龍岸寺です」と話そうと試みるのだが、やはりいつもの声色からは程遠い。「まだお休みでしたか」と気遣われる。本来なら私が檀家さんの悲しみに寄り添うべきところなのに、「すみません、早くから」とかえって檀家さんから謝られる始末。

私は「ついこの前までお元気にされてらっしゃったのに…」「可能な限り丁重にご供養させていただきます…」などと神妙をよそおって話すが、檀家さんには神妙さをよそおった分だけ滑稽に聞こえていたはずである。

空回りを重ねるだけのスベりっぱなしの電話の応対が終わったら、再び布団にもぐってひとしきり泣きたい気分であるが、時計を見ると、お寺の山門を開ける7時はとっくに過ぎている。

山門が閉ざされているということは、住職一家が今日は寝坊していることが、地域全体に知れわたる。「あら、お寺さん、今日はよう寝たはるわ」と通りがかった人に噂されている声が耳元にこだまする。

山門がタイマーで開く自動ドアになればいいのに、と何度も思った。テクノロジーの力をもってすれば、山門の開閉をオートメーション化するのは不可能ではないだろう。お寺の鐘を定刻につくために、タイマー式の「鐘つき機」を導入したお寺も相当数あるらしい。

愛する子供たちとの滑稽な日常

もちろん、朝から訃報が入るというのはお寺特有の事情であるが、疲れた翌日の朝寝坊はどこの家庭にでもある話だろう。

でも、親が2人いれば、私が起きられなさそうなしんどい朝は、妻が気を利かせて早起きしてくれたりもする。仮に2人そろって寝坊しても、お互いに傷をなめ合い、笑い話にすることができる。

しかし、ひとり親家庭であれば、寝坊した責任は誰にもなすりつけられず、すべて自分が負わなければならない。ここに、ひとり親の悲哀がある。ましてや私の場合、早朝から飛び込んでくる訃報や、オートメーションで開かない山門のために、寝坊すればひときわ恥辱にまみれることとなる。

それなのに、である。

子供たちは、ひとり親の孤独感も、私が訃報の電話対応をしていることも知らないで、目覚まし時計が鳴っても一向に起きる気配がない。寝室に向かえば、すやすやと寝息を立てている。

ついカッとなって「あんたたちいつまで寝てんのよ!学校に間に合わないよ!」「こっちは朝から檀家さんが亡くなって大変なんだから、自分のことは自分でやりなさい!」とわめき散らす。

子供たちは私のあまりの剣幕にびっくりして飛び起きるが、顔を見ると「なぜお父さんはこんなに怒っているんだろう?」とキョトンとしている風で、その表情を見て私は子供たちに八つ当たりしている自分に気づく。お互いに目を合わせてニヤッとする。

こういう時、育児と家事と仕事を全部抱えて空回りしている自分の姿が、なんと滑稽なことかと楽しくなるが、そんな面白さに興じている暇はない。

子供は「そんなん知らんやん」という冷ややかな視線を送っているが、私は自分を正当化するために先手を打って「なんでもいいから早くしなさい!」とまくしたてる。「朝ごはん用意しに行くからね!」と言い残してキッチンへと急ぐ。

なんとか3分あれば食べられる朝食はなんだろうと考える。シリアルに牛乳をかけるなども思い浮かぶが、お寺だとお供え物のお下がりの果物が冷蔵庫にあるからありがたい。

リンゴは腹持ちもいいから、こういう時の朝食には特にピッタリである。私が本堂のお供えを買う時にリンゴをよく選ぶのは、困った時の朝食に役立たせるためのリスクヘッジだったりもする。

あまりにリンゴばっかり供えるから、仏さまには「またか」と飽きられているかもしれないけれど、お釈迦さまの教えにしたがって「考える禅」「考える育児」を果たした結果だということで許してもらうことにしている。

フルーツだけの朝食を囲みながら、子供たちに学校の準備ができているかを尋ねる。

「鉛筆は削った?」
「あ、忘れてた…」
「水筒は見当たらないけど?」
「あ、出してなかった…」
「今日は体操服は要るの?」
「あ、時間割見ないと…」

会話するほどにイライラが募っていく。

「あなたたちね、人がひとり死んでるのよ。昨日まで元気で生きてた人が今日死ぬかもしれない。それが人生なんだから、もうちょっと生きることに真剣になりなさい」などと、説教めいた愚痴を吐きながら水筒を洗い、お茶を入れ直してテーブルに置く。

「お父さん、ありがとう」と申し訳なさそうな声。
「歯磨きして早く出かけなさいよ」と急かしてバタバタッと送り出す。

送り出したあとのテーブルを見ると、せっかく用意した水筒がポツンと残っているのであった。しっかりオチをつけてくれる子供たちに感謝である。

悲しげな水筒とにらめっこしながら、「誰か届けてくれないかなぁ」と思うが、自分が届けるしかないのはわかりきっている。

朝から疲れた体を押してでも「小学校まで届けてあげたいなぁ」という愛おしさはある。でも、「本人の不注意をかばいすぎるのもよくないよなぁ。叱ったことが台無しになるよなぁ」という苛立ちも交錯する。

「どっちも正解でどっちも正解じゃないよなぁ」ともだえながら、ひとり親家庭の親は、こんなにも孤独だったのかとため息が出る。

池口龍法
僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。二児の父。1980(昭和55)年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』など。