「自主映画から商業デビュー」大林宣彦監督こそが先駆けだった――恭子夫人が語る大学での出会い、二人三脚での映画づくり〉から続く

 自主映画『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』が全国各地で上映され注目を集める一方、CM草創期の演出家としても活躍していた大林監督。『HOUSE/ハウス』で商業デビューすることになったが、思いがけない妨害が待っていた。

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『HOUSE/ハウス』販売元:東宝

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赤ん坊の時から大林映画に参加

―― 千茱萸(ちぐみ)ちゃんが生まれたのは、大林さんがCMを撮り始めた頃ですか?

恭子 そうですね。『Complexe』が最初で、その時は本当に赤ちゃん。

―― フィルムに巻かれて泣いてましたね(笑)。

恭子 裸ん坊で草むらに置かれて。冬なのに。

大林千茱萸(以下、千茱萸) 次作の『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』に主人公エミの妹として登場します。瀬戸内の小さな島生まれのエミは都会に行くことを決心し、妹は島に置いてけぼり。お姉ちゃんに一所懸命手を振ってサヨナラする一連のシーン、本編では汽車の音が付いていますが現実には島に鉄道は通っておらず、カメラマンと監督が車に乗って撮影しながら去って行くので手を振ったのを覚えています。モンキーダンスもたくさん踊ったのでいまでも得意です(笑)。

―― あんぱんが転がって泣いている場面もありました。出てくるたびに泣いているという印象があります(笑)。

恭子 あれは成城パンで桜あんぱんを100個買って、それを監督がばらまこうと言い出して。そうしたら、千茱萸さんがすごく泣いちゃって。もったいないって。

千茱萸 あの当時は私のミルク代もフィルム代に足していたほど、お金ができたら映画を作るという家族でしたから、限られた食事の時間は大切で、「ごはんは感謝して戴きましょう」と教えられていた。ところが、いざ撮影が始まると大人たちが嬉々としてあんぱんを空に向かってほうり投げはしゃぎまくるという阿鼻叫喚が目の前で繰り広げられてびっくり! なんてもったいないことをしてるんだろうと泣いて――。

恭子 でも、うれしかったですね。ちゃんと分ってるんだと思って。

千茱萸 のちに、これは“あんパン”とフィルム・“アンデパン”ダンを引っかけた監督式ダジャレだったとわかるんですけどね(笑)。

―― 千茱萸ちゃんは映画作りが普通にある家庭で育ったんですね。

千茱萸 はい。映画館の暗闇にいるか、監督のロケ現場で大人たちに囲まれながら育ちました。なので物心つくまでの幼少時はちょっと現実と虚構との境目が分からなくなる時期もありました。幼稚園の時に、友だちと庭で遊んでいたら、一瞬空気が悪くなって、私が急に「カット、カット」って言い始めたり……。

恭子 自分に都合が悪くなったら「カット」って(笑)。

千茱萸 小さかった私にとって「よーい、スタート」は世界の始まり。「カット」は、もう一回最初から世界が始まる魔法の言葉だったんです。

恭子 「よーい、スタート」ってやってましたね。

千茱萸 撮影現場と映画館が私にとっては学校以上に人生の学びの場でした。学校の教科書よりも映画を見ていたから。

恭子 『ドラキュラ』の時はもう監督はCMの仕事をしていたから、完成までに1年ぐらいかかっているんですよ。毎週金曜日の夜にうちにみんな集まって、土曜日の明け方から出かけていって、土日撮影するみたいな。

最後の自主映画となった『CONFESSION』

―― 次が『CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅』(注1)ですね。

恭子 あれは尾道なんです。初めて尾道で撮影をしたのが『CONFESSION』ですね。みんなを連れて尾道に行って撮影しました。

千茱萸 この間、『尾道』という8ミリ(注2)を見直したけど、あれが最初じゃない?

恭子 ああ、『尾道』があるわね。

―― ありましたね。恭子さんがヒロインみたいなポジションで。

恭子 監督の8ミリに出た初めてだから。

千茱萸 『尾道』はそもそも、監督がお父さんから譲り受けた8ミリキャメラを使い、自分の育った尾道をスナップ的に撮影した断片的なフィルムがあったものの、しばらく放置されていました。その後、上京して成城大学で恭子さんと出会い、恭子さんを連れて尾道へ行き、街の風景を切り取りながら撮り足し、モンタージュして作った作品ですね。

恭子 フェリーに乗って撮ったのを思い出す。

―― すごく自然な恭子さんが映っています。大林さんに案内されて尾道を回っている感じがしました。

恭子 いつも持って歩いてました。

千茱萸 振り返ると、『HOUSE/ハウス』に至るまでの自主映画時代、CM時代の監督は日常的に8ミリや16ミリカメラを回していました。どこに行くにも傍らに抱えて、息を吸うようにシャッターを押して。

―― 大林さんにとって撮影は一定期間の中でやるものでなく、常にあるものだったんですね。話を『CONFESSON』に戻しますと、この作品は個人映画の最終作というつもりで撮られたそうですね。

恭子 コマーシャルがすごく忙しくなっちゃって、1年間のうち半分は外国みたいな生活になっちゃって。

初の商業映画『HOUSE』

―― 『HOUSE』までに商業映画の企画というのは他にもあったんですよね。『花筐』を準備されていたとか。

恭子 『花筐』は監督が学生時代から好きな小説で、いつか映画にしたいというのが最初からあって。桂千穂さん(注3)に脚本までもう書いてもらってましたね。70年代の頭ぐらい。

―― 監督の中では、商業映画を撮るならこれだと準備されていた。

恭子 そうですね。『花筐』を最初に撮りたいというのはありました。でも、それが全然違う『HOUSE』になっちゃうわけですけど。

―― 商業映画を撮ろうとしてもなかなかできなかった時代だったんですか?

恭子 できなかったというよりも、コマーシャルはフィルムで回してましたから、監督はそれに魅力を感じていましたね。

―― それが映画だという感覚だったんでしょうか?

恭子 そう。35ミリフィルムで回してましたから。1分、3分の短編映画みたいなつもりで。

千茱萸 監督は最後まで自分は映画監督ではなく「映画作家」だと明言していましたが、自身としてはジャンルや媒体にこだわることなく、常に実験精神に富んでいました。映像を作ることに対してとても自由な精神で取り組んでいた人なので、自主映画、CM、商業映画に対して特に垣根はなく、監督の中ではすべてが「大林映画」だったように思います。

―― 映画監督というと映画の監督のイメージになっちゃうけど、映画作家というともっと広くて自由な感じでした。

千茱萸 それはきっと、監督と映画との特殊な出逢いが起因ではないでしょうか。監督は3歳のときに実家の納戸で映写機とフィルムを見付け、機関車のおもちゃだと思った。しばらく遊んでいるうちにそれが映画を映すモノだと知り、6歳のとき、アクシデントでフィルムがお湯に浸かり絵が消えたので、消えたフィルムのコマに絵を描いてアニメーションを作って……。つまり監督はそもそも映画監督になるために映画を作り始めた人ではなく、映画監督という職業の概念がないまま映画を拵え始めた希有な人ですよね。

 そして「商業映画を撮ろうとしてもなかなかできなかった時代だったんですか?」というご質問に関しては、商業映画を撮ることができなかったというより、時代の流れとして、前例がなかったというのが正しいと思います。つまり、個人映画作家が劇場にかかる映画を監督するという背景がなかった。映画監督になるのであれば、大学をちゃんと卒業して、東宝や松竹の試験を受けて、下積みからはじめ、助監督を経験し、ようやく会社が許して1本映画を撮るという時代。撮影所の外でコマーシャルや自主映画を撮っている人に門は開いてなかった。だから商業映画を撮れなかったとかそういうことではなくて、時代の背景がそういうことでした。

妨害する東宝の組合を説得した岡本喜八監督

千茱萸 『HOUSE/ハウス』がなぜ商業映画として成立したかというと、例えば当時メディアミックスという宣伝の仕方が始まっていました。角川春樹さんに代表されるような戦略です。『HOUSE/ハウス』も、それはもう多くの仕掛けをしました。映画公開前にラジオドラマを仕込んだり、マンガにしたり、日比谷の町中では1台の車に7人のハウスガールズが乗り込み、さらに何人乗れるかを競うイベントしたり……。

 一方、日本映画が斜陽になっていく時代背景の中で、監督はコマーシャルを作るために東宝撮影所の一番大きなスタジオやプールを借りて、映画より潤沢な予算を預かりコマーシャルを撮っていたため、撮影所にとってはよいお客さんでもあった。ただ、それが映画を撮るとなると話はまた別で、当時組合が強かった東宝では、コマーシャル上がりの監督に映画なぞは無理だとピケを張られたこともありました。門が閉ざされバリケードが組まれていて、組合が「大林さんを入れるな。よそ者を入れるな」と言っていた。それまでは私もコマーシャルの現場によく遊びに行っていたので門番の守衛さんとも仲が良く、遊びに行くと「あっちでお父さん撮影してるよ」と通してくれていたのに、映画を撮るとなったら、いきなり門を閉じられて……。ところがその門を開けてくれたのは、いまは有名な話ですが、岡本喜八さん。岡本喜八さんが、「自分たちが作る映画は残念ながらいま受け入れられない。ならば、大林さんみたいな新人に映画界に新しい風を入れてはどうか」と組合を説き伏せて下さった。もしあのとき喜八さんをはじめ幾人かの方が行動を起こして下さらなかったら、東宝が門を開けなかったら、『HOUSE/ハウス』は誕生しなかったかもしれないですね。

―― 大林さんという先例があったから、僕たちは自主映画監督が商業映画に進むことができると思えた。大林さんの時代には、そういう発想自体がなかったんですね。

注釈
1)『CONFESSION¬=遥かなるあこがれギロチン恋の旅』(1968 16ミリ 70分)尾道を舞台に青春との惜別を描いた大林監督の個人映画最終作。

2)『尾道』(1963 8ミリ 17分)撮り溜めていたフィルムをまとめた作品。

3)桂千穂 脚本家。大林作品では『HOUSE/ハウス』『廃市』『ふたり』『あした』『花筐』などを担当。

〈『転校生』『青春デンデケデケデケ』間近に見た、大林宣彦監督の唯一無二の天才的な映画作りとは〉へ続く

(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)