1ヵ月に1冊も本を読まない人がこんなに多い時代に「心」はどうなっているのか?「他者を、物語を語り合う」小川洋子×東畑開人対談

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ノーベル文学賞の話題で賑わう秋、国内外に多くのファンをもち、常に新刊が注目集める作家小川洋子さんが『耳に棲むもの』を刊行しました。社会の厳しさが増す中、日常的に読書をする人が減少したことと「心」が置き去りになっていることには関わりがあるのではないか? 先ごろ『雨の日の心理学 心のケアがはじまったら』を刊行して話題を呼んでいる、臨床心理士の東畑開人さんと小川さんの、ジャンルを越えたスペシャル対談をお届けします。物語と心ーーそれぞれの領域からお二人が何を感じているのか。前篇は、あえて「一人でいること」の意味について語ります。

小川洋子(おがわ・ようこ)

1962年、岡山市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1988年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。‘91年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、同年『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、‘06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、‘13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、‘20年『小箱』で野間文芸賞を受賞。‘19年『密やかな結晶』の英語版「The Memory Police」が全米図書賞の翻訳部門最終候補、’20年ブッカー国際賞の最終候補となる。‘07年フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。著書に『完璧な病室』『薬指の標本』『アンネ・フランクの記憶』『猫を抱いて象と泳ぐ』『人質の朗読会』『最果てアーケード』『琥珀のまたたき』『不時着する流星たち』『掌に眠る舞台』などがある。

東畑開人(とうはた・かいと)

1983年東京生まれ。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学教育学部卒、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。精神科クリニックでの勤務と、十文字学園女子大学准教授を経て「白金高輪カウンセリングルーム」主宰。博士(教育学)・臨床心理士。著書に第19回大佛次郎論壇賞受賞、紀伊国屋じんぶん大賞2020を受賞した『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院 2019)、『心はどこへ消えた?』(文藝春秋 2021)、『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社 2022)、『聞く聞く技術 聞いてもらう技術』(筑摩書房 2022)など。

「物語」について考える文化のない時代を生きる

東畑:はじめまして。今日はお話をいろいろ伺おうと思って予習をしてきました。河合隼雄との対談集『生きるとは、自分の物語をつくること』は本当にすばらしかったです。その本を読んで感じたことで、今回の短編集『耳に棲むもの』にも通じるんですけど、この20年くらいで、物語について考える文化があっという間になくなってしまったように思うんです。物語についていろいろ話をすることが人の心を語ることでもあったのに、最近はそういう考え方がすっかりなくなってしまった。

小川:物語について他者と語り合う、ということには、そもそも結論がありません。明確な成果を求めないままに、ああでもない、こうでもないと、互いの心がさ迷う。このあいまいな揺らぎに耐えるだけの辛抱強さが、失われつつあるのかもしれません。文学は本来、職場でも学校でも家庭でもない場所で、人と人の心をつなげるものなんですね。だから、1ヵ月に1冊も本を読まないような生活をしていると、心はどうなってしまうのかなと不思議に思うことがあります。

東畑:『耳に棲むもの』を読ませていただいて、まずすばらしいと感じた上で、それをどう表現していいかわからない僕がいるんです。社会的なテーマを扱っていたりして、みんなが共有できる外の世界のことが書かれている小説についてはしゃべりやすいんですけど、『耳に棲むもの』はそういう話じゃないじゃないですか。耳の中という最も非社会的な世界の話なので、どう表現していいのか悩んでしまって。小川さんのお話を聞きながら考えればいいかなと思って、今日は参りました。

小川:いつも不思議なんですけど、いい小説すごい小説を読んでも、それを人に伝えようとして粗筋を説明し出すと途端につまらなくなっちゃうんです。たとえば川端康成の『掌の小説』に収録されている掌編はどれもすばらしいんですが「私はこれが好き。どんなお話かというと……」と説明し出すと、往々にして本文より長くなってしまったりする。小説のすばらしさは、本来、言葉では説明できないものなのでしょうね。

東畑:なるほど。

小川:「この小説、いいですよね」とうなずき合ったとき、お互いに何がいいのか確認し合うのは言葉でしかできないことだけれど、実はもっと深いところで共鳴し合っているんだと思います。賞の選考会でも「この作品はいい。二重丸をつけて絶対に推そう」と思っても、どこがいいか言葉でうまく説明できない。二重バツを付けた作品の悪口はいくらでも言えるんですけど(笑)、絶対に当選作にしたいという思いはなかなか伝えられなくて、自分でも情けないところなんです。

私は十五年間FMラジオで『Melodious Library』という番組をやっていたんです。「未来に残したい文学遺産」と思える小説を毎週一冊ずつ紹介する番組で、私を含めた開始当初からのメンバ15人は、15年間毎週一冊、同じ本を読み続けてきました。すると、何とも言えない深い人間関係が出来上がっていたんです。何か一言しゃべったら「そういうダメ男、田山花袋の『蒲団』に出てきたよね」と、わっと話が盛り上がって、一気に深い共感が生まれる。単なる仕事仲間を超えたレベルのつながりがあるんです。読むときは本と一対一ですけど、そうやって人と人の間で広がっていくのが、文学の本来のあり方なんです。

一人でいることは「悪」なのか?

東畑:すばらしい。僕の今までの人生にはなかった体験です。ゼロではないけれど、そういう感じの友達関係というのはなかったです。むしろ恋人とか家族とかの方がありえそうな気がします、同じ本を読んで語り合うというのは。

小川:心底つながり合っている人同士を仲立ちしてくれるものとして、芸術は大事ですよね。子どもに対しても、たとえば思春期で共通の話題がないときに同じ本を読んでいたら、ただその本の話をするだけで言葉のやり取りができます。

東畑:おっしゃるとおりですね。本の内容について詳しく話し合わなくても、「あれ、めっちゃいいよね」とか、そういう次元でつながり合えると思います。

小川:「あの小説の中では、主人公が一番みじめだよね」とか「あの場面に出てきた料理はおいしそう」とか。全部、現実じゃない話なのに心が通じ合う。河合隼雄先生は、まだ言語を獲得していない子どもに箱庭療法をよくされていたそうですが、東畑さんはされないんですか。『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』に箱庭は出てこないですよね。

東畑:大学院時代にはときどきやっていましたし、沖縄の病院にいたころも少しはやっていましたね。

小川:『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』に書かれていた時期のことですね。

東畑:自分で作ったんですよ。木を買ってきて、箱を作り、砂を敷くんです。それから、おもちゃを集めたりもしていたんですけど、臨床的にあまり機能しなかったんです。というのも、物語を遊ぶような余裕がない、切実に目の前の出来事をどうサバイブするかというクライアントたちに対してのカウンセリングを多くしていたので、箱庭で内的なものを展開させるより、外の世界にどうやって立ち向かっていくかが問題だったんです。それで箱庭からはだんだん離れていってしまいました。この点、小川さんの小説は、内に向かっていきますよね。

小川:『耳に棲むもの』全5編を通しての主人公と言えるサラリーマンは、少年のころから、耳の中にドウケツエビと4人の音楽隊が棲んでいます。心がかき乱されて涙が出てきたときに、涙を音符にして音楽を鳴らして心を静めてくれるイマジナリーフレンドで、それは誰にも説明できないし説明する必要もない自分だけのものです。言葉が未発達で物語化できない少年時代に、何がその代わりになってくれるかというと、天井についている生き物のような染みだったり、あるいは耳の中に飼っている自分だけのエビとカルテットだったりするんじゃないかなと想像したんです。

東畑:サラリーマンのその感覚は、僕個人にとっても心理学全体にとっても、軽視されがちなものを思い出させてくれるような感がありました。臨床心理学ではここ20年くらい、外の世界の問題をどうやって処理していくかが重要な問題でした。それだけ社会が生きづらい、厳しいものになったからです。すると、他者とつながることが生き延びるためには大切で、一人になることは、どちらかというと悪いことだと捉えられてきたんです。

僕も、本を書くときはやっぱり人と人とのつながりが一番大事なんだと考えたし、臨床でもそう思ってやってきたんですけど、耳の中で自分のためだけの音楽が鳴っているとか、ドウケツエビが泳いでいるというようなきわめて個人的な世界への憧れを、大学に入ったころは持っていたことを思い出しました。『耳に棲むもの』を読んで、うまく感想が言葉にならないのは、内側の価値を語る言葉が貧しくなっていたからかもしれないです。

小川:自分の内側と向き合うのはしんどいことであって、外の世界に手っ取り早く単純で面白いことがあれば、そっちに行くほうが楽ですよね。スマホを開けば、いくらでも時間を潰せる。むしろ今の人は一人になることの難しさに直面していると思います。

東畑:本当にそうですね。

小川:どうやったら一人になれるか。全てを遮断して、村上春樹的に言えば井戸を掘って、自分の地下2階、3階に降りていけるか。まずは、その井戸の入り口が探せないという状況なのでしょう。別に探さなくても日々は流れていくから、本も売れなくなってきているんだと思います。

自分の「中」にいる上司は現実の上司より厳しい

東畑:僕はいつもAirPodsで音楽を聴きながら移動しているんですけど、あれは『耳に棲むもの』に出てくる補聴器とは逆に、外の音を聞こえなくするための器具です。いやそれだけじゃなくて、自分自身の声や、自分の中で鳴っている音楽を聞こえないようにするためのガジェットです。何も考えず、移動をスムーズに行うためだけに音楽を聴いている。最近は、そうやってみんな耳に何かを差し込んで歩いていると思うんです。どうしてかと言うと、一人になると悪いことを考えちゃうから。つまり、カルテットのようないいものが耳の中にいる感じじゃないのかもしれない。

小川:私が東畑さんのご本を何冊か読んで一番深く納得したのは、「自分の中にいる上司は厳しい」ということでした。自分の中にいる上司は現実の上司よりも厳しくて、「そんなんじゃダメだ」といつも怒ってくる。そういう自分一人に向かってくる内側の声を消してくれるのがイヤホンなんですね。私もやっぱりそういう上司がいて、怖いんですよ。小説を書いていて褒められたことがありません。「何だ、これは。もっとうまく書けるはずだ」と、怒鳴られています。

東畑:つらいですね。

小川:もうダメだ、もうダメだと言いながら書いて、本当に申しわけありませんという気持ちで編集者に渡す。すると編集者が「面白かったですよ」と言ってくれて、ああ、現実のほうが優しいと胸をなで下ろすんです。

東畑:編集者のありがたさはまさにそれで、書き手を現実に戻してくれるんです。

小川:これは、ケアですよね。もしかしたら本心からの言葉ではないのかもしれないけど、「いや、よく書けてますよ」と心の中の上司につけられた傷をなでてくれる。でも、ゼロから何かをつくる人間は、心に厳しい上司を持っていないと安易に妥協してしまうとも思います。

東畑:厳しい上司というのは精神分析で言うと「超自我」というもので、フロイトがつくったモデルなんですね。フロイトは、心の奥にはクジラのように破壊的なエスがあるとか、厳しい上司のように取り締まってくる超自我があるとか、無意識を怖くて危険なものとして描いています。それをどうやって受け入れるか、もしくは押し込めておくかが自我の仕事で、それがうまくいっているのが健康だという発想です。だけどユングは、そこにもうちょっとクリエイティブなものがあると考えるんですね。

先ほど村上春樹の井戸の話がありましたが、井戸の底には禍々しいものではなく、清らかでおいしい水があるというのが、『耳に棲むもの』を読んで感じたことでした。つまり、一人になることの良さが語られていますね。

小川:心の上司がいるからこそ小説を書けるわけで、その人に去ってもらいたいとは思わない。厳しくつらいけれども、超自我は決して悪者ではないんです。

これもまたすごく共感したのですが、東畑さんが「週刊文春」で連載されていたときに、コロナの期間でもあり、もうダメだという気持ちになって担当編集者に「1カ月休ませてください」と言ったら、案外優しく気遣ってくれた。あ、自分は休んでいいんだと思った、と書かれていた。私も一時期、首がものすごく痛くなって、いろいろな病院を回って最終的に行き着いた心療内科の先生に、「あなたは今、仕事なんてできない状態です」と言われて、心が晴れ晴れしたということがありました。

東畑:すばらしい先生ですね。

小川:自分の中の厳しい上司に向かって「今この人は仕事ができない状態なんです」と、外部の立場から言ってくれたんです。それで私も「休む」という発想にそこで初めて気がついて、ものすごく心が楽になりました。首が痛かったのも脳が出している警告によるもので、整形外科的な問題じゃなかったことがわかりました。東畑さんも書かれていましたが、脳って本当に別人格なんですよね。自分のものだと思っていましたけど他人でした。

東畑:僕は以前脳がピキッていったんですよ。朝に原稿を書いて昼は大学に行って夜はカウンセリングでクライアントの話を聞いてという生活を続けていたら、あるとき、ピキッと音がして、頭を働かせようとすると、脳が痛むようになった。完全に働き過ぎだったんです。それで、文章を書くことを諦めるか大学を辞めるかという判断を迫られて、だったら大学を辞めようと思って学科長に相談に行ったら、「いろいろつらかったんだね。1年後だったら(辞めて)いいよ」と言ってくれた。1年後なのでかなり先の話ですけど、そう言われたことで脳がほどけるように調子よくなって、結果、執筆も大学の仕事も休まずにできるようになりました(笑)。脳の痛みは心の声だったんですね。

心の領域への関心の低下

小川:これは霊長類学者の山極壽一先生が言っていたのかな。意識や心が生まれたのは人間が言語を獲得した最近になってのことだから、身体が蓄積してきた記憶のほうがずっと歴史が長くて、脳より身体のほうがお利口なのは当然ですと。心とは何かという問いを、いろいろな心理学の本に当たっていくと、「身体じゃないもの」という否定形でしか定義されていないのにも、びっくりしました。

東畑:最近、思想や文学の世界であっても心の形勢は不利ですね。身体や社会については盛んに語られていますが、心固有の領域への関心が大きく低下しているように思います。でも、真面目に心の仕事をしている身としては、個人である、他人とは違う、自分だけの秘密があるというところに、やっぱり心の強い固有性があると思うし、生き延びていくために誰かとつながることも大事なんだけど、同時に心の中に秘密の部屋があるということの良さも語っていきたいなという気持ちがあるんですよね。

小川:小説もそこなんです。一人一人が秘密として抱えている、外側からは規定できないものの中に分け入っていく。その人がお墓まで持っていこうと思っている秘密を覗かせてもらって、物語にしているんです。これは作家の特権ですね。「選鉱場とラッパ」の主人公が、少年だったころに犬を足蹴りにしたのも、彼はきっとお母さんにも言わなかっただろうし、親友にも言わなかった。成長した後で思い出しても、恋人にも言わない。だけど、私はそれを見てしまったんです。

東畑:秘密というものには心を成り立たせる力があります。ただ、ミステリーだと秘密が明かされていくじゃないですか。最終的にその秘密は登場人物たちが共有するものになって、みんなの心が癒やされる。一方で、『耳に棲むもの』は特にそうですが、秘密は最後まで秘密にされる作品もありますよね。

小川:読み終わった後に、「何なんだ、これは。俺にもわかるように説明してくれ」と言われるような小説はダメだと思うんですね。謎のまま終わっても、「ああ、そうなのか」と気がついたら心のどこかで受け止めてしまっているのが、上質な文学だと思うんです。

『耳に棲むもの』の1本目の「骨壺のカルテット」は、主人公が補聴器を売るサラリーマンとしての人生を生き抜いて老年となり、死んで骨になるところから始まります。すると不思議な耳鼻科の先生が突然出てきて骨壺を勝手に開け、耳の中にいたカルテットらしきものの骨をピッと引き出す。娘も知らなかった主人公の秘密を、理解できる人なんです。そうやって秘密が第三者に受け渡されたのは、主人公にとって幸福だったんじゃないかなと思います。

東畑:あのセールスマンは徹底的に孤独で悲しい人ではあると思うんだけど、結構好かれているというか、みんなが何となく彼のことを愛しているのが面白いと思いました。でも誰も彼のことを本当には知らないわけで、その関係性がすばらしい。読者の体験としても、彼の秘密の全部には触れられないんだけど、愛すべきよき人であるというのはわかる。

小川:彼をよき人にしているのは、おそらく彼がつくり上げた架空のカルテットとドウケツエビでしょうね。「踊りましょうよ」の中で、女の子と池のボートに乗って耳と耳を重ね合う場面を書きましたが、恋愛小説が苦手な私としては、あれが精いっぱいのラブシーンだったんです。誰かと耳と耳をくっつけ合うなんて普通しないですよね。

東畑:そして女の子にもカルテットの演奏が聞こえていく。

小川:でも、あの女の子は果たして実在していたのかどうか。昔あの池で死んだお婆さんなんじゃないかという解釈もできます。

東畑:なるほど。僕はあのシーンを読んだとき、深い交わりがなされていると思った一方で2人は孤独なままだとも感じたんです。体と体が触れて同じ音を聞いているのに、サラリーマンの孤独な生を一緒に生きていこうという感じにはならなくて。孤独が孤独のまま2つあるという感じがして、それがすばらしいと思ったんです。

小川:彼がその後もセールスマン人生を続けていく中で、女の子とのことは記憶として残っていくでしょう。それが物語となって、未来のどこかの局面で彼の心をケアすることになるかもしれません。

東畑:そんな彼の秘密を、作家である小川さんだけは知っているんですよね。読者もまた、登場人物の頭の中を覗き見させてもらって、謎めいた物語が謎のまま頭の中に残っていく。それによって心がモヤモヤするのではなく、温かい気持ちになる。これはとても不思議な体験だと読んでいて思いました。

小川:理解して共感するだけが全てではないということでしょうね。人には、他人には決してわからない部分があり、他人が決して踏み込んではいけない領域がある。しかし、そのことによって心が遠ざかるんじゃなくて、むしろ近しく感じることが、人間関係の中で起こるべきなんです。単純に言っちゃうと、この人は自分とは宗教が違う、だから自分とは遠い人だ、敵だということになってしまったら、それは危険なことです。自分にとって理解できない人、価値観が違う人、あるいは自分は絶対にこういう生き方はしないという人とも、小説の中では触れ合える。会話を交わせるわけです。

そして、ある人物を拒絶したり抹殺したりする権利は作家にはありません。作家はジャッジする立場ではなく、ただこういう人がいますよと読者に差し出しているだけ。読者もそれを受け取って、あ、こういう人間もこの世の中にはいるんだなと思ってくれればいい。そこには共感とはまた違う心の働きが必要なんだと思います。

個人的世界が文学を豊かにする

(「群像」2024年11月号掲載、2024年9月8日講談社にて。構成/鈴木隆詩)

原作:小川洋子 監督:山村浩二

『耳に棲むもの』VRアニメーション版も小説版と同時発売!

小川洋子がVR作品のために書き下ろした原作をもとに、アカデミー賞ノミネート他、海外での評価も高いアニメーション作家山村浩二がVR映画化した、画期的かつ野心的な作品。独特の世界観を持つ2人の巨匠が2年半の歳月を掛けてVRというメディアでしか味わえない物語を完成させました。世界中の映画祭やイベントで上映され、三大アニメ−ション映画祭であるオタワでベストVR賞を受賞、話題をさらった作品です!

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