「鉄の処女」伝説の真偽を明かす衝撃のクライマックス! それでも人は伝説を愛す!

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「鉄の処女」の真偽を探る旅はいよいよ衝撃のクライマックスへ! 『拷問と処刑の西洋史』の浜本隆志氏による、伝説検証の結末はいかに。

「恥辱の樽」? 「鉄の処女」の正体

前述(「奇想の拷問具、「鉄の処女」伝説の虚実を暴く! 「聖母マリア」は罪人を抱いたか?」)の通説に対して、シルト教授は持論を展開している。まず、(1)処刑装置としての「鉄の処女」、(2)拷問装置としての「鉄の処女」、(3)さらし刑用の樽を改造した「鉄の処女」、という3種類の可能性が想定されるが、史実に登場するものはどれに相当したのであろうか。

シルト教授の結論は、「『鉄の処女』という処刑具・拷問具は、ドイツにはいかなる時代にも実際に存在せず」、われわれが博物館等で目にする「鉄の処女」は、「後の19-20世紀の産物である」(同上書)としている。すなわち教授は、(1)、(2)を完全に否定、(3)の説を採って、拷問具はさらし刑用の樽からつくりだされたものであるという。

中世以来、身持ちの悪い娘は、棘も頭部もない樽に入れられ、市中でさらし者にされたが、人びとはそれを「処女のマント」、あるいは「恥辱の樽」と称した。この刑は、制裁や名誉剝奪のためにドイツだけでなく広くヨーロッパ各地で行われていた。

さてシルト教授は、自説を検証するために、オーストリアのケルンテン、シュタイアーマルクやスイス、ローマなど、ヨーロッパ各地に残されている「鉄の処女」の素性をそれぞれ調査し、その結果、すべてをイミテーションだと断じている。各地のモデルの原型は、オーストリアのファイシュトリッツ城の「鉄の処女」と、1857年からニュルンベルクに存在したとされる「鉄の処女」に集約されるが、シルト教授はこの2種類についてさらに詳しく述べているので、それを要約しておこう。ここでは便宜上、前者を「ファイシュトリッツ型」、後者を「ニュルンベルク型」と省略して呼ぶことにする。

まず「ファイシュトリッツ型」は、1929年にニュルンベルクの「デューラー展」に出品され、その際、専門家が調査している。これは高さ181センチ、下部内径75センチ、肩幅は49センチ、腕はなく木製の型の上に鉄板を張りつけたものである。上部は新しくつくられており、目に相当する箇所に2本の先端が尖った鉄製棘が、さらに上体部の左右に12本ずつ、同種の棘が装備されていた。

ピアサルが1834年に、オーストリアのファイシュトリッツ城でスケッチしたというものとこれを比較すると、外見は類似しているが、棘の数と配置は異なっている。したがって両方が同一か別物かが問題となるが、ピアサルはスケッチの際に、もっとも重要な棘の部分を、不吉な13本という数字にこだわって恣意的に変えていたのではないか。シルト教授はこの点に触れていないけれども、筆者は、ピアサルが実際に「ファイシュトリッツ型」そのものをスケッチしたと推測する。

さて「ファイシュトリッツ型」の素性は、武器マニアのディートリヒ男爵がフランス革命以降(1819年ころから遅くとも1834年以前)に頭部なしの「恥辱の樽」を購入し、オーストリアで頭部のマリア像と、内部の棘を装着させたと考えられる。なお頭部の女性用の飾りは、17世紀前半のヴェネツィアで流行したものであると鑑定され、これは男爵がその時代のものを注文したことを類推させる。

ディートリヒ男爵が所有していた「ファイシュトリッツ型」は、1929年の「デューラー展」後、関心を示したアメリカ人のW・R・ヒーストに買い取られ、やがて1965年にオークションにかけられた。その後の所在は明らかではないが、うわさではスイスにあるといわれている。

「デューラー展」には「ニュルンベルク型」も出品された。これは「ファイシュトリッツ型」とは別物で、ニュルンベルクの銅版彫刻師のG・F・ゴイダー(1818-97)が所有していたものか、あるいはその複製であると推測される。かれは本業のかたわら骨董蒐集を趣味とし、すでに集めた品物を展示することを思い立つ。その際、人目を惹く展示物が必要であったので、ゴイダーは1857年に、「ファイシュトリッツ型」やその他の「鉄の処女」を手本にして、ニュルンベルク出身の錠前屋のヴィルトにこれを製作させた。ここでは何体か製作され、各地(外国を含めて)の骨董蒐集家に販売されたようである。

ニュルンベルクの「蛙の塔」には、「拷問部屋」と「秘密の法廷」という部屋があったが、ゴイダーは1857年に、ここへ「鉄の処女」を含め、かれが蒐集した骨董品を運び込んだ。これらは見物客に公開されており、そのなかには「ニュルンベルク型」と「ファイシュトリッツ型」の2種類の「鉄の処女」が展示されていたという。

このうち「ニュルンベルク型」も、1932年に調査した記録がある。それによると現物は200センチの高さ、7.5-10センチ厚の頑丈なオーク製で、表面が手製の薄い鉄板で覆われていた。内部は鉄の棘が装備され、左側の扉の上部にハウベ(頭巾)付きの頭部が固定されている。下部は何もなく、直接、地面に置くタイプである。各部分の年代は、頭部と棘は19世紀なかば製で、その他の部分も19世紀製だが、ごく一部は15世紀製と判断される。いずれにしても、これもさらし刑の樽をベースに、19世紀にその他の部分が付け足されたものである。しかし現物は第二次世界大戦中の1944年に、連合軍のニュルンベルク爆撃によって焼失した。

では、ローテンブルクの「中世犯罪博物館」に展示されている「鉄の処女」は、どのような素性であるのだろうか。これは、構造を調査すれば「恥辱の樽」の改造品であることがわかるので、先述のゴイダーが所有していた「ニュルンベルク型」のひとつであるといえる。かれは1889年に、現物をロンドンの美術商に売却した。1968年に「鉄の処女」がロンドンのオークションに出品され、それをローテンブルクの「中世犯罪博物館」が競り落として購入したという。

要するに「中世犯罪博物館」の「鉄の処女」も、さらし刑用の樽にマリア像の頭部を付け、さらに内部に刃を付け足した19世紀の「模造品」である。それでも本体は15-16世紀製のもので、資料的価値は高い。かつて展示されていたニュルンベルクでも、これが強烈なインパクトを与えていたはずであるが、買い戻されたローテンブルクでも、「鉄の処女」は現在、観光客の人目を惹く展示物であることには変わりない。

シルト教授は以上の調査を踏まえ、「鉄の処女」は17-18世紀に、とくにドイツのシュレースヴィヒ゠ホルシュタインやスペインで使用されていた、「恥辱の樽」から生まれたもので、拷問・処刑を目的に製作されたものでないと強調している。したがって「鉄の処女」伝説は、「恥辱の樽」の風習と、異端狩りや魔女狩り、マリア信仰が融合して生成されたということになる。

検証「鉄の処女」伝説

結局、シルト教授は「鉄の処女」伝説が根拠のない虚構であると結論づけている。この結末は、好事家にとってそっけない期待はずれのものといえよう。筆者もドイツでこのテーマの資料を収集してみたが、「鉄の処女」については伝説が数多く紹介されているけれども、教授の見解を覆す歴史的資料を入手することはできなかった。

よく考えてみれば、伝説の「鉄の処女」としての「処刑装置」は、人びとの関心を惹くものであるが、技術的にそのような手の込んだ方法が実際に必要であったとは思えない。まず当時の処刑は裁判をへて、公開で行われるものであったから、地下室で秘密裏に処刑し、死体を水路に流したというのは、ミステリーじみており、専制君主の恣意的な強権をもってしても考えにくいことだった。

スペインの異端審問の際に、聖母マリアをイメージした拷問具や処刑具を使用したという説は、常に伝聞であり、証拠がまったく挙げられていない。また想像図以外に現物が残っているわけではない。出所は19世紀初頭のナポレオン軍によるスペイン占領時であったが、この時代にはスペインの異端審問はもうほとんど実施されていなかった。またスペインの異端審問のなかで、これについて論及している記録は、筆者の知る範囲内では認められない。

たしかに、地下の拷問室がヨーロッパ各地に存在したのは事実である。実物も残っているし、そこにたとえ「聖母マリア像」が安置されていたとしても、罪を告白させるためであれば、それじたい不自然なことではない。

しかしカトリックが「聖母マリア」をイメージした拷問具を作製することはありえない。というのもスペインの異端審問の目的は、処刑することにあったのではなく、異端にまどわされている被告をキリスト教側に復帰させることにあったからだ。スペインでは異端から回心し、懺悔をすればほとんど命は助けられている。マリア信仰の厚いカトリックが、パロディとはいえ聖母像を残酷な拷問具に用いることは、キリスト教の聖母を冒瀆することにほかならないことであった。

その意味において、カトリックほど聖母マリアに特別な感情をもっていなかったドイツのプロテスタント地域では、むしろ「鉄の処女」の使用例は、被告を威嚇するためだけに限定するならば、可能性がなかったとはいえない。というのもゲルマン神話には、ヴァルキューレという救済と罰をあたえる女神がいたからである。しかし「鉄の処女」伝説の震源地のニュルンベルクはカトリック地域であったので、この点においても矛盾がある。

伝説はなぜ心を掴んだのか

とはいえ「鉄の処女」伝説が、どうして特別に人びとの関心を惹き、広く伝播し、メルヘンや映画にも登場してくるのであろうか。筆者はこのような伝説が好まれ、人びとのこころを掴んだ理由を5点挙げておきたい。

1. モティーフがキリスト教徒にとってもっとも身近な「聖母マリア」であったこと。

2. 異端狩り、魔女狩りのなかで残酷な拷問、処刑が実際に行われていたこと。

3. 拷問、処刑、死体の処理方法がミステリーじみており独創的で、強烈なインパクトを与えるものであったこと。

4. 伝説にそった「鉄の処女」の複製が実際のところ製作され、博物館や展示場で人びとの話題をさらったこと。

5. エピソードは真実と受けとめられ、口伝によってもヨーロッパ中に伝播したこと。

日本で出版されている拷問具の本には、複製品が実際にあるため、魔女狩りの尋問の際にこのような処刑方法があったなどと、まことしやかに解説しているものも多いが、歴史的事実と伝説をはっきり分けて、虚像と実像を区別しておく必要がある。

なおわが国では、明治大学の博物館がこの「鉄の処女」を所蔵しているので、筆者もそれを見学した。たしかにこれも資料としては重要であるが、実際に使われていなかったことははっきりしている。

(『拷問と処刑の西洋史』より)

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「鉄の処女」伝説にかかわる本記事の前半部は「奇想の拷問具、「鉄の処女」伝説の虚実を暴く! 「聖母マリア」は罪人を抱いたか?」で!

奇想の拷問具、「鉄の処女」伝説の虚実を暴く! 「聖母マリア」は罪人を抱いたか?