いとうせいこうの「国境なき医師団」をそれでも見にいく〜戦争とバングラデシュ編(5)
作家・いとうせいこうは「国境なき医師団(MSF)」の活動に同行し、世界各地の紛争地や災害地等を訪ねてきた。そして今年6月、いとうが訪ねたのは、バングラデシュにある世界一広大なロヒンギャ難民キャンプ。ミャンマーを逃れた100万人が暮らすその地で、困難を抱えた患者が次々と訪れる病院を取材した著者は…。 国際人道支援の最前線を伝える傑作ルポルタージュ「『国境なき医師団』を見にいく」シリーズ最新版、第5回。
前回はこちら⇒【第4回】いとうせいこうの「国境なき医師団」をそれでも見にいく〜戦争とバングラデシュ編(4)
丘の上の病院へ
翌朝7時に階下の食堂へ行くとエリックがいて、
「4時頃に近くのモスクからお祈りが聞こえたでしょ? 目が覚めなかった?」
と心配してくれたが、俺はまったく気づかずに熟睡していた。
海外スタッフは次々と食堂へ来て、パンかシリアル、そして小さなバナナなどかじってから、食器をキッチンに積み上げて出て行く。ちなみに自分で洗わなくていいのは平日の朝だけで、さすがに忙しいからだ。夕食や休日の朝昼晩は適当にあるものを食べて、食器をそれぞれが洗うルールになっている。
舘さんたちも集まってきて、俺はまた綿で出来たMSFのベストをもらって着た。玄関に行くとそこに動画を含めてカメラマンを務めるシャイカット・モジュンダがいた。背が大きく、髪の毛があちこちにうずまいていて鋭い目をしている。だが、たまに笑うと可愛くなるやつだ。
8時少し前、若干の小雨の中、我々は警備員が開いてくれる鉄扉をバンでくぐり抜け、田園と里山が目立つ風景の間を移動した。
15分もすると、全体を囲む鉄条網の間の入口からついにキャンプの中に入る。2019年からレンガ道になったとのことで、両側は延々と竹で組んだ掘っ立て小屋ではあれ、清潔な印象が俺にはあった。
道はずっと坂道で、なにしろ目的地は『ホスピタル・オン・ザ・ヒル』、略称HoH、いわば「丘の上の病院」と親しげに呼ばれる施設である。起伏の多いメガキャンプの中心にそれはあるらしかった。
左右の小屋の前に目立つのは、日本で言えば小学生以下の年齢らしき子供で、鶏の数羽の群れの放し飼いも目立つから、つまり行けども行けどもTシャツ姿の子供と家畜だ。
強調しておくが、100万人弱の人口のキャンプに毎年4万人の子供が生まれるのだという。いかに広大なキャンプだとはいえ、数年もすればとても今の状態ではいられないことがわかる。
唯一、それら子供が前にいない建物がOxfam、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、WFP(世界食糧計画)といった支援団体の事務所なのだけれど、それぞれがこぢんまりとしているためキャンプに溶け込んでいるのに好感を持った。
さて「丘の上の病院」はさすがに丘の頂上にあった。敷地の中に入るとプレハブの建物が並んでおり、その奥のスペースに朝から立ったまま円陣を作ってミーティングしているスタッフたちがいた。一人はMSF日本の医師、坊主頭の若い塚本裕さんだ。
HoHの責任者、モライヤ・マッカーサーのオフィスに入ると、にこやかに迎えてくれた彼女はすぐに地図ボードを示し、やはり我々がメガキャンプの真ん中にいるのを教えてくれた。幾つかに分割されたうちの、キャンプ8W。
にこにこしながらモライヤは、まず最初に伝えておくこととして、短くこう言った。
「セキュリティのことなんだけど、もし銃撃が始まったら伏せてね」
なんかもう笑ってしまったのは平和ボケの俺ゆえの不誠実だった。とはいえ、いくらなんでもしょっぱなから、あまりにヒリつくアドバイスであった。
「ないとは思うんだけど」
みたいなフォローを一応モライヤはした。
かえってありそうな感じしかしなかった。
みんなで病院内を巡回する
さて、モライヤに連れられて、我々は丘の上病院の全体を見せてもらうことになった。これは他の病院でもほぼ同様だが、まずはじめに入口に直結する空間が“トリアージ”のための場所だった。
外来の患者はそこに来て、自分の患者としての優先度合いを決められる。右にデスクがあって医師が患者の容体を聞き、カルテを書いて必要な部屋へ通すことになるのだ。診察結果次第では入院も可能である。
ちなみに救急外来ならエントランスからそのまままっすぐ行った奥がいわゆるER(Emergency Room)で、これは動線としてまったく無駄がない。
我々はトリアージの待ち合い室から次の部屋に導かれた。ベッドが6床あり、そのうちのふたつに女性と子供が寝ていた。
「私はOCP(オペレーションセンター・パリ)の所属だけど、このキャンプには三つのOCが入ってる。ハーモナイズしてるわけね」
ハーモナイズ。モライヤはそういう言葉で、運営の構造を教えてくれた。
そんな説明を受けていると、さっき円陣の中にいた塚本さんが来てくれた。自然、モライヤから説明役が移る。俺は各病室を巡りながら話を聞くことになった。
HoHには患者がひきもきらないとのことで、他のクリニックに行った人が紹介されてくるなど、特に朝の混みようは大変なものだそうだった。
面白いことに、塚本さんのもとにすぐサラム・ラセルという、ロヒンギャ難民と医師の間をつなぐ役割(メディカル・インタープリター)の男性が来て、続いて看護マネージャーの韓国人女性キムさん、病院全体のコーディネーターなどなど、ふと気づくとあれこれの役目を担う人々が我々を囲んでいた。
そしてみんなで病院内を巡回する。なんだか俺を中心とする『白い巨塔』みたいな具合だったが、どうやらそうやって自分たちも院内の仕組みを再確認しているらしく、互いに説明をし合ってそれぞれがうなずいている。MSFによくあるケースなのだが、なんであれチャンスを活かして勉強するというか、あらゆることがブリーフィングになり得るのだ。
デング熱、マラリア、C型肝炎の混交
巡回中の話で興味深かったのは、現在雨期ということもあってデング熱とマラリアが増え始めていること、献血による血液バンクが始動していること、結核患者はバングラデシュ発祥で世界最大のNGOと言われる『BRAC』と連携して対策を行っていること、そして前々から耳にはしていたがC型肝炎患者が非常に多いことであった。
C型肝炎に関してはキャンプ内の成人の5分の1が陽性で、原因ははっきりとはしておらず、民間医療の中で注射器がどう使われているか、また散髪屋などで消毒が不十分なカミソリが使われている可能性など、様々な要因が考えられていた。しかし最大の問題としてミャンマーでロヒンギャの人たちがしっかりとした検査・治療を受けられなかったことが根底にあるらしい。
俺たちは各担当から話を聞きつつ、老若男女で満床の入院病棟を見、メンタルの問題も扱うカウンセリングルームを訪ね、さらにその奥に男女でエリア分けされた入院病棟があるのを見た。
「C型肝炎が多いのも問題なんですが、アンモニアが脳に行くと肝性脳症になるんで、油断出来ないんです」
明らかに動けなくなっている患者をかすかに示して塚本さんは言い、
「しかもキャンプ内ではデング、マラリア、C型肝炎の罹患者が容易に入り交じりますから」
とベッドの幾つかが蚊帳で囲われているのを指さし、さらに説明した。
「デングかマラリアの患者さんです。蚊が彼らの血を吸って他の患者に媒介しないようにしてます」
ともかく忙しそうなその院内に現地の医師が13人おり、“病状がややこしそうな人を僕ら海外ドクターが診る”ということになっているそうだった。
少し遠くまで行くと、隔離病棟が四つあるのがわかった。中のほとんどが結核患者だとのことだった。中に入るとデスクがあり、看護師が詰めていた。
*
透明ガラスで仕切られている小さな空間にひとつのベッドがあった。斜めに起こしたそれに一人の痩せた老人が寝ており、マスクを耳にかけずに口の上に置いたまま、肉の落ちたおなかをなで、ひたすら不安そうな目でこちらを見ていた。とにかくただ見てくる。
晩年入院していた頃の俺の父が、まさによく似た雰囲気をかもし出していたのを思い出して、俺はその患者から注意を離せなくなった。結核でおそらく末期だった。衰えていく自分をどうすることも出来ず、ただただ不安に嚙みつかれている老人。
俺は誰にも気づかれないよう、彼に頭を下げて次の部屋に移動した。
8人の家族と共に国境を越えて
男性病棟のベッドに座っていたアブ・シャマさんに、直接話を聞くことが出来た。通訳は例のメディカル・インタープリター、サラム・ラセルさんだ。
アブさんは白いヒゲを口のまわりと顎にたっぷり生やし、すっかり老人と見えたが、聞けば62歳で俺のひとつ年下だった。困難は人の容貌を簡単に変えてしまう。以前、ギリシャでシリア難民の男性にインタビューした時も、彼が50歳間近なのに虚を突かれたものだった。年上にしか見えなかったからである。
アブさんはマラリアが主な病因で、そこから血小板減少をひきおこしていた。数日入院しているという。本人いわく、
「熱も引いたし、嘔吐や咳もなくなった。ここにいれば安心だから退院したいが、実は右腕の痛みと足のしびれもあってね」
後者の病状はおそらく糖尿病と関係があるようだが、もともとミャンマーでは井戸掘り職人だったというから、肉体を長く酷使してきたことは確かだった。
それが2017年、70万の難民がバングラデシュへ避難してきた時、彼も8人の家族と共に国境を越えた。残念ながらその後、妻は亡くなり、甥と姪と3人で暮らしているのだという。他の子供は離れたところにいる。
付添いで横にいたのはやはり白いヒゲの弟さんで、聞いてみるとこう答えた。
「わたしらは難民登録が遅れたんです。もっと早く済ませていたら待遇も変わっていたでしょうが。ただ病院ではよくしてもらっているし、こういう活動は続けていて欲しい。あとのことはとにかくね、わたしらは神様に祈るしかないです」
一人でキャンプに暮らす不安
一方、女性病棟ではC型肝炎に苦しむロシーダ・ハトゥンさん(53歳)に話を聞けた。真っ青な民族衣装を痩せこけた体にまとい、起きることも出来ずにいる。時折、病棟のアシスタント女性が枕の位置を直した。しゃべるとすこしずれてしまうからだ。
ロシーダさんの最も目立つ特徴は膨れた腹部で、それは服の上からでもはっきりわかった。実際、C型肝炎に6年悩まされたうち、この1年は腹痛に襲われているという。入院は2日前からだった。
「キャンプに来たのは2017年です」
か細い声でロシーダさんは言った。
一緒に避難したのは3人の娘だが、全員結婚して今は一人暮らし。
「病気なので生活は苦しく、決して幸せではありません。たった一人でキャンプに暮らすのは恐ろしいです。何があるかわからない」
息をつぎながら話すうち、ロシーダさんの片方の目から涙がふくれあがってきた。
「なかなか……よくならない。C型肝炎のない世界へ行きたい」
それは頰にこぼれて落ちた。
膨れた腹部はつまり腹水が溜まっているからで、肝硬変に移行していると塚本医師は教えてくれた。厳しい病状だ、と。
乳幼児を連れた逃避行
入院病棟を出て、丘を少し下りたところが日射しをよける廊下のようになっていて、そこに乳児を抱いた若い母親がいた。話を聞けるのだと言う。
名前はレヘナ・ベガムさん、25歳。飾りのかわいらしい黒い布(ニカブ)をかぶり、着ている衣服も黒。子供の背をぽんぽんと叩く手以外は、伏せがちな目元しか見えない。澄んだ目をしていることだけはわかった。
25歳にして、彼女はすでに5年間糖尿病を患っていた。この3年はインスリンを投与しているという。
やはり彼女も2017年にミャンマーから避難していた。早朝に家族7人で村を出て、豪雨の中、ジャングルを夜通し歩き続け、ボートでナフ河(ミャンマーとバングラデシュを分ける河川)を渡り、そこからさらに2日間歩いて難民キャンプにたどり着いたのだという。ちなみに逃避行の時には生後半年の子供がいたそうで、乳幼児を連れての移動はさぞ大変だったろう。
今、一番の不安はなんですかと聞くと、レヘナさんは考えながら小さな声で答えた。
「子供を育てるのに不安はないです。生活は楽じゃありませんが、夫がキャンプの外で働いているので」
本当はキャンプ外での労働は禁じられているのだが、それではとても食べていけない。食糧配給券はあるのだが、多くの人がそれを売って現金収入にして暮らしている。つまり100万人近い人間が、腹を空かせて生きているのだ。
「もし他に何かあれば教えてください」
重ねて問うと、レヘナさんは今度は即答した。
「治安が不安なんです。夜中に銃声がするのがこわい」
真っ暗闇のキャンプに響く銃声。
どんなグループがなんのためにしているのかわからない襲撃。
夜の難民キャンプで難民自身が怯えていた。
薬が圧倒的に足りない
こうして数人の協力者にインタビューさせてもらい、最後は立ち話のように塚本さんから話を聞いた。何を答えても恥ずかしそうに笑う人だった。
塚本さん自身は10年超の医師経験を持っており、MSFに入る前は沖縄の離島で病院に勤めていたこともあるそうだった。つまり医療の届きにくいところにいようとしてきたのだ。
なぜMSFに?と問うと、
「MSF最初の日本人ボランティアの女性医師の話が、教科書に載ってたんですよ。それで興味が湧いて少しずつ経験者の本も読んだりするようになって、そうしながらだんだん道を決めていった感じです。海外派遣スタッフに多いパターンですよ」
そう言って塚本さんは苦笑っぽく笑った。
「あ、ええ、MSFで働くには医師としての経験が足りないんで、長崎大学の熱帯医学研究所で学んだりしました。それでやっと入れて最初はアフリカ、それからすぐにここバングラデシュです」
今度の笑いはひたすらうれしそうな、しかしやっぱり照れているようなものだった。
「このメガキャンプでの最大の問題はなんですか?」
「わたしは医療のことしか答えられませんが、百万人規模のキャンプに対して薬が圧倒的に足りていません。例えばC型肝炎は慢性疾患といえます。つまり抑制可能な病気なんです。キャンプでは成人の3分の1が感染したことがあり、5分の1が(肝機能を悪化させる)活動性の肝炎にかかっている。しかし高くて薬を行き渡らせることが出来ない」
世界の援助資金がロヒンギャ難民に向いていない。ゆえに5分の1がC型肝炎陽性という地獄めいたことになる。
「HIVだって、いまや慢性疾患ですからね。一生のつき合いでやっていく対象なんです。しかしそのためには薬が要る」
HIVだって、いまや慢性疾患……。
人類は多くの重大な病を乗り越えてきたが、残念ながらリッチな国でしかその営為は実っていないのだった。
さて塚本さん、というか最終的に塚本君と呼ぶようになっていたのだが、彼とはまたディナーでも食べようと約束して、我々は「丘の上の病院」を去り、ひとつ隣のブロックであるキャンプ17に向かった。
ロヒンギャ難民がロヒンギャ難民を苦しめている一方、そこではロヒンギャ難民がロヒンギャ難民を救おうとしていた。
(第6回へつづく)