高級レストラン「ベニハナ」を創業し、全米を手玉に取った「伝説の日本人」…ロッキー青木が愛犬と「最後の妻」と一緒に隠居した「終の棲家」

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かつてアメリカンドリームを体現した「伝説の日本人」がいた。鉄板焼き高級レストラン「BENIH​A​NA」を米国で創業し、大成功を収めたロッキー青木だ。チリチリのアフロと口髭がトレードマークの実業家として、アメリカでは最も有名な日本人の一人に数えられる。「『アリvs.猪木』を影から支える」「気球で太平洋を横断」「宇宙飛行計画」…類まれなる商才で「全米を手玉に取った男」は、ビジネスの世界にとどまることなく、常に挑戦を続けた。ロッキー青木の波乱に満ちた69年の生涯をノンフィクション作家の森功氏が追う。

ロッキーの「最後の妻」が語る

雨あがりの午前11時過ぎ、ボートに乗って湖に出た。東京の梅雨と同じく、マンハッタンは蒸し暑くて参ったが、このあたりの空気は随分冷たい。

「ロッキーさんはこの船で愛犬のムギちゃんを連れてよく釣りに出かけていたのよ。それで私も操縦を練習してね。初めはボートを桟橋に着岸するのにも一苦労でした。けれど、今はすっかり慣れました」

8人くらい乗れるだろうか、モーターボートはけっこう大きい。すっかりボートの操縦に慣れたという青木恵子は、静かな広い湖面を滑るように走らせた。ロッキー青木こと青木廣彰の最後の妻である。湖のひんやりとした風がこのうえなく心地いい。

「Sleepy hollow Lake」という高級リゾート地の一角に、ロッキーの「終の棲家」があった。その名称どおり、スリーピーホロー湖を取り囲むように大きな別荘が点在している。

スリーピーホロー湖はニューヨーク市からハドソン川を北へさかのぼった渓谷の高地に位置する。日本でいえば、軽井沢のような避暑地のイメージだろうか。湖に面しているだけに軽井沢より涼しいかもしれない。南北に4キロメートルほど伸びているスリーピーホロー湖は、かなり広い。実はハドソン川上流渓谷の清流を引き込んでダムでせき止めた人口の湖だという。

湖面に浮かぶモーターボートから岸を眺めると、点在する別荘ごとに入江が伸びてボートを着岸するための桟橋がある。スリーピーホロー湖をスマホの地図で検索すると、動物か魚の背骨のような形をしていた。ニューヨークセレブに人気の別荘地だ。

晩年のロッキー青木が湖の岸辺に造成されたこの別荘用地をいち早く購入したのだという。恵子がロッキーの別荘の反対側にある大きな家を指さしながら、説明してくれた。

「ロッキーさんがここを買ったときは、まだあんなふうに周囲に家がなくてね。湖の岸辺はほとんどが整地されていない原野のようでした。それがいつの間にか造成され、別荘が増えていきました。ほら、あそこに見えるのがグッチ一族のカントリーハウスです」

ニューヨークのセレブたちが休暇を楽しんでいる高級リゾート地、スリーピーホローリゾートのホームページを覗くと、宣伝文が躍る。

<スリーピーホローレイクは、美しい湖畔と湖外の家や家の敷地の自然環境で、のんびりしながらもアクティブなライフスタイルを提供し、水上、海岸、そして周囲のハドソンバレー全体で多くのレクリエーションの機会があります。

ニューヨーク州アセンズのスリーピーホロー湖のゴルフ場でゴルフをしたり、地域のテニスクラブの照明付きテニスコートで友人とテニスをしたりして、親善試合をしましょう。(中略)

あなたは2つのプールのいずれかで泳いだり、都市生活の交通や喧騒から解放されて、スリーピーホローレイクスの私道をサイクリングしたりしたくなるでしょう。釣り人なら、湖にはオオクチバスが豊富に生息しています。あるいは、カヤックや水上スキーをしたり……>

映画のワンシーンに出てくるような贅沢な空間

終の棲家となったスリーピーホロー湖畔の別荘は、ロッキー夫妻の住んでいたマンハッタンのオリムピックタワーから車で2時間半ほどかかる。未亡人となった恵子は今もウィークデイはオリムピックタワーの自宅兼オフィスで過ごし、週末になると、ここへやって来るという。

最近は渋滞を避けるため車を避けてアムトラックの特急列車でハドソン駅まで向かっている。アムトラックは国鉄から民営化された日本でいうところのJRのような高速鉄道で、マンハッタンの中心部から出発してハドソン川沿いに北上していく特急列車は新幹線のようで快適だ。

恵子は別荘の管理人に別荘に置いてある自家用のベンツでハドソン駅まで迎えに来もらい、保養地を目指す。私も6月21日、恵子や彼女の友人といっしょにそうした。

途中、スーパーマーケットで買い物をして湖畔の別荘を訪ねた。スリーピーホロー湖ではニューヨーク州にありながら、都会の喧騒をいっさい感じない。映画のワンシーンに出てくるような贅沢な空間だった。恵子が20年近く前を目に思い浮かべるかのように懐かしんで話した。

「私たちが結婚してしばらくして、ここができたんです。2005年に家が建ってね。正直に言って、私ははじめカントリーハウスなんて興味がなかったの。オリムピックタワーに住んでいたから、『シティのほうがいい、なぜこんな田舎に来なきゃいけないの?』とロッキーさんに言って、あまり行かなかったの」

「僕が死んだらこの家どうするの?」

ロッキーの家は2階建てのログハウスだ。玄関が2階にあり、別荘に入ると広いリビングがある。大きな窓ガラスの向こうにテラスがあり、その先が湖になっている。そのリビングのソファーで一休みしながら、恵子が小さな白い愛犬コメの頭をなでながら、話を続けた。

「でもロッキーさんはここが気に入ってね。引きこもっていました。若い頃、あれだけ社交性のあった人が、友人やビジネスマンと会わずに犬といっしょにずっとここで暮らしていたんです。可愛がっていたその犬はムギといってね、亡くなってしまいました。だから今飼っているのはコメちゃん……」

ロッキー青木が最後の妻となる恵子と結婚したのは別荘が完成する4年前の2001年のことだ。結婚生活はわずか7年ほどしかなかったが、その間に、ここに別荘を構えたのだという。

「亡くなった年の5月でした。私はマンハッタンのシティで暮らすほうが性に合っていたから、結婚してからもあまりここへは来なかったんだけれど、あのときはたまたまいっしょに来ていてね。バルコニーに座って、ふと私のことを見て、『ねぇ、僕が死んだらこの家どうするの?』って聞くじゃないですか。

私はまさか具合が悪いなんて思っていなかったので、『そんなの売るに決まってるじゃん。私1人になってここで何するの?』って笑ったんです。すると、ロッキーさんは『僕は売ってもらいたくない。ここはとっといてくれ』と真顔で言っていました。

なに言っているのよ、とそのときは思いました。だって、それまでは本当に元気でしたから。もともとC型肝炎を患っていたので、薬を飲んでいたけれど、ふつうに歩いていたし、冬になるとこのあたりは雪が降るのでスキーを楽しんでいたほどです」

あのときの言葉はロッキーの遺言だった

ロッキー本人は2008年7月10日、肝臓がんによる肺炎の合併症によりニューヨークの病院にて命を落としている。恵子が笑顔をつくりながら言う。

「ロッキーさんはこの家を残してほしいと言いたかったのでしょう。それが5月ですからね。具合悪くなったのは最後の2〜3カ月くらいでしょうか。だからほとんど闘病はしてなかったんです。そこから本当に具合が悪くなってしましました。

やっぱり当人にはストレスがたまっていたのでしょうね、糖尿病がひどくなって、2カ月後の7月にあっという間に亡くなってしまいました。それで、あのときの言葉は、ロッキーさんの遺言だったんだ、と思い直してここを大事に管理してきたんです」

ロッキー青木は戦前、東京・日本橋に生まれ、慶応大学1年生の終わりに日米レスリング対抗戦の選手として渡米した。試合後、そのまま米国に残り、ニューヨークで鉄板焼きレストランチェーン「BENIHANA」を開業して財産を築いた。日本ではさほど知名度がないかもしれないが、米国では最も有名な日本人の一人に数えられる。

そのロッキー青木はスリーピーホロー湖を眺めながら別荘で倒れ、昏睡状態に陥った。恵子はすぐに救急車を呼んで、そのままマンハッタンの病院に向かったが、そこで息絶えた。享年69。20代で全米を手玉にとり、大金持ちになった伝説の日本人である。(敬称略・次回につづく)

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