それは小野伸二、稲本潤一から始まった...チャンピオンズリーグ出場チームの日本人は23年かけて今季は12人に
新装なったチャンピオンズリーグ(CL)のリーグフェーズが、今日9月17日(現地時間)、開幕する。出場の期待がかかる日本人選手は以下の12人。過去最高だった昨季の8人を4人上回る人数になる。
伊藤洋輝(バイエルン)、遠藤航(リバプール)、冨安健洋(アーセナル)、守田英正(スポルティング)、上田綺世(フェイエノールト)、川村拓夢(ザルツブルク)、南野拓実(モナコ)、古橋亨梧、旗手怜央、前田大然(セルティック)、チェイス・アンリ(シュツットガルト)、荻原拓也(ディナモ・ザグレブ)。
日本人選手絡みで17日に組まれているカードは、レアル・マドリード対シュツットガルト、スポルティング対リール。バイエルン対ディナモ・ザブレブ、ミラン対リバプールの4試合。18日はセルティック対スロヴァン・ブラティスラバ、スパルタ・プラハ対ザルツブルクの2試合。19日はフェイエノールト対ドルトムント、アタランタ対アーセナル、モナコ対バルセロナの3試合だ。
その数、計9試合。もちろんこれも過去最多だ。このなかで先発出場が濃厚なのはチェイス・アンリ、守田、南野、古橋、旗手、前田の6人。交代出場が見込めそうなのは上田。遠藤、荻原は微妙な立ち位置に置かれており、冨安、伊藤、川村の3人は負傷中だ。コンディションを含めて心配な点も目につくが、それを期待感が上回っているのがいまの状況だろう。
チャンピオンズリーグ開幕戦でバルセロナを迎え撃つモナコの南野拓実 photo by Reuters/AFLO
レアル、・マドリードの2枚看板、キリアン・エムバペ、ヴィニシウス・ジュニオールと間近で対峙する弱冠20歳のチェイス・アンリ。バルセロナと戦う南野。こう言っては何だが、楽勝続きのW杯アジア3次予選、4年に1度しか強豪との真剣勝負が拝めない日本代表戦より、はるかにワクワクさせられる。
戦術的には、4年に1度のW杯より、CLのほうが進歩的で面白いとする声を、その昔、欧州でよく耳にした。カルチャーショックを味わったものだが、日本人もようやくこの感覚を普通に共有することができる時代になった。
【同時多発デロと小野伸二の雄姿】
1998年フランスW杯といえば、日本が初めて出場した大会だが、初戦(アルゼンチン戦)の舞台となったトゥールーズのスタンドは、3分の2近くが日本人ファンで埋まっていた。W杯取材はこの大会が初めてだという知人記者は、その光景を見て「国内の親善試合のようですね」と、漏らしたものだ。正直言って、感激は薄かった。その3年後、ロッテルダムの「デカイプ」で小野伸二を見た瞬間と比較すれば、インパクトは弱かった。ナショナリズムがくすぐられたのは、2001年10月10日に行なわれたCLグループステージ、小野が所属するフェイエノールトとバイエルンの一戦のほうだった。
小野がボナベントゥル・カルー(コートジボワール代表)に代わってピッチに立ったのは、後半28分だった。筆者が日本人のチャンピオンズリーガーをこの目で初めて見た瞬間であった。
1991−92シーズンまで「チャンピオンズカップ」と呼ばれていた時代には、奥寺康彦がケルンの一員として、準決勝に出場していた。1978−79シーズンの話だが、そこで奥寺はゴールも決めている。欧州で活躍した日本人選手第1号として知られるが、第2号はなかなか誕生しなかった。
小野がバイエルン戦のピッチに立ったのは、それから23シーズン、大会の名称がチャンピオンズリーグに変わり、10年が経過してタイミングだった。もっとも、正確には小野が2番目ではなかった。
小野が日本人初のチャンピオンズリーガーの座を"さらわれる"格好になったのは、世界を揺るがした大事件が大きく関係していた。9月11日。筆者は2001−02シーズンのCLの開幕戦をローマで迎えた。「オリンピコ」でローマ対レアル・マドリードを観戦したのだが、その昼間にアメリカで同時多発テロが勃発。この開幕戦はなんとか開催されたが、翌12日に行なわれる試合はキャンセル、延期となった。ローマからアムステルダムのスキポール空港に到着し、その知らせを耳にし、地団駄を踏んだものである。
地元メディアが記したバイエルン戦の予想スタメンには、小野の名前がしっかり刻まれていた。日本人初のチャンピオンズリーガー誕生の瞬間に立ち会えるという期待は一気に萎んだ。フェイエノールトの次戦はスパルタク・モスクワとのアウェー戦。モスクワに行く予定はなかったので、この試合に小野が出場しなかったことに少し安堵した。
【CLに出場できなかった中田英寿】
一方、9月11日のマジョルカとのアウェー戦に臨んだアーセナルのスタメンに、稲本潤一の名前はなかった。サブにも名を連ねていなかった。アーセナルの稲本はチーム内の順列においてフェイエノールトの小野に劣っていた。稲本が日本人初のチャンピオンズリーガーになる可能性も同様と考えるのが妥当だったので、続く「ハイバリー」で行なわれるシャルケ戦にも出場することはないだろうと予想し、ロンドン行きは考えもしなかった。
ところが、監督のアーセン・ベンゲルはそんな日本人を仰天させる采配に出た。シャルケ戦の後半31分、ロベール・ピレス(フランス代表)に代わり、なんと稲本を投入したのである。これで日本人初のチャンピオンズリーガーの栄誉は稲本の頭上に輝いたのだった。
小野、稲本がそれぞれフェイエノールト、アーセナルに移籍したのはこの2001−02シーズンだった。欧州ではこの時、日本人選手と言えば中田英寿のことで、圧倒的な知名度を誇っていた。前シーズンの終盤、ローマのセリエA優勝に貢献する働きを見せていたからだ。
ローマを2000ー01シーズンをもって退団した中田はセリエA4位のパルマに移籍。2001−02シーズンのCLの予備予選に臨んだ。相手はリール。当時のセリエAは、現在のプレミアリーグのような存在で、その4位チームがフランスリーグの3位チームに負けるはずがない。日本人初のチャンピオンズリーガーは中田で決まり。パルマへの移籍が決まった瞬間、誰もがそう思ったはずだ。
だがパルマはリールに通算スコア1−2で敗れてしまう。リールの監督、のちの日本代表監督であるヴァイッド・ハリルホジッチの前に、道を断たれることになった。中田の現役生活が29歳で終わってしまったことと、日本人初のチャンピオンズリーガーになり損ねたこと、つまりもう一段上のステージに上がれなかったことは、深い関係があると、筆者は見ている。
日本人で初めて決勝トーナメントに進出した選手は2006−07シーズンのセルティックの中村俊輔。初ゴールを決めたのも彼だった。
中田、小野、稲本、中村。この4人が、ジーコジャパンの船出となったジャマイカ戦(2002年10月)で、初めて中盤ボックス型の中盤を形成したとき、この世の春とばかり、日本のサッカー界は華々しいムードに包まれたものだ。
日本人がCLに出場し始めた時、日本はまさに中盤王国の時代だった。優秀な選手は中盤に集中していた。名波浩、小笠原満男、藤田俊哉、遠藤保仁らも、上記の4人に匹敵する選手たちだが、いまやこの手の選手の数は少ない。
その原因は、すべてCLの歴史に刻まれていると言っても過言ではない。CLをモデルとして、サッカーそのものが変化していった。その経緯を徹底的に紐解くことが、日本のサッカーの進歩には不可欠だと考える。
日本人初のチャンピオンズリーガーが誕生して今季で23年目のシーズンである。23年かけて12人。これが決勝トーナメントを戦う人数になると、W杯の決勝のトーナメントに出ても、他国に見劣りしなくなる。チャンピオンズリーガーの数を増やすことこそが、日本代表の強化の近道だと、筆者は信じてやまないのである。