連載 怪物・江川卓伝〜屋鋪要が放った26安打の記憶(後編)

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 1980年代中盤に「スーパーカートリオ」のひとりとして一世を風靡した大洋(現・DeNA)の屋鋪要。

 屋鋪と言えば、端正な顔立ちに口髭を携えた雰囲気ある姿を思い浮かべる者も多いだろう。現在、社会人軟式野球ソレキアの監督を務めながらも、一方では写真集も出す鉄道写真家の顔もあれば、ラベンダー栽培する花職人の顔もある。いま思えば、現役時代の風貌はすでにアーティスト気質から来ていたのかもしれない。


93年オフに巨人に入団した屋鋪要 photo by Kyodo News

【王監督にトレードを直談判】

 1977年に三田学園(兵庫)からドラフト6位で大洋に指名され、プロ2年目から守備固めや代走で82試合出場し、その翌年からは準レギュラーとして100試合以上出場するようになる。

 83年からセンターのレギュラーを獲得。当初は下位打線を打っていたが、俊足を生かして1番バッターに起用されると、85年には3番打者として58盗塁を記録し、86年からは3年連続で盗塁王に輝くなど、三拍子揃ったスイッチヒッターとして80年代の大洋の主力として活躍した。

「82年から監督になった関根(潤三)さんの影響は大きかったですね。関根さんは元祖二刀流をやられた方なので、ピッチャーでもあり、バッターを育てることにも定評がありました。昔はスイッチヒッターになったら『叩きつけてゴロを打て』って言われたもの。そんなのはもう非理論的ですよ。関根さんはそんなおかしいことを絶対に言わなかったし、遠征先でも試合後に『部屋にちょっと来い』って言われて、(スイングを)よく見てもらっていました。関根さんの頃から、スッチヒッターの理論が変わりだしたんじゃないかなと思っています」

 右打者だった屋鋪は足の速さを買われて、当時の別当薫監督からスッチヒッターに転向を命じられた。スイッチになりたての頃は、不慣れの左ではゴロを打って塁に出るというのが定番の教えだった。それが、関根が監督に就任してからは左でもレベルスイングを強制され、ホームだろうが遠征だろうが来る日も来る日も練習したおかげで、バッティング技術が向上していった。

 屋鋪は、93年に大量解雇の人員整理の余波を受けて自由契約となり巨人へと入団したが、じつはそれよりも6年早い87年に巨人へトレード移籍するはずだった。

「この年、巨人の最終戦が広島市民球場での広島戦でした。僕たちは異動日で(翌日からの広島戦に備えて)広島に到着し、その日の夜に台湾料理屋さんに行ったんですよね。ここは巨人の首脳陣や大洋の選手もよく行く店でした。僕は、巨人と広島の試合中に行って食事していると、店のお姉さんから『今夜、王(貞治)さん来るよ』と伝えられたんです。それだったら、一回ホテルに戻ってまた来ようと思ったんです。

 ナイターが終わり、巨人の首脳陣が個室で食事している最中に店に到着し、頃合いを見てお姉さんに王さんを呼んでもらったんです。そこで『王さん、僕、巨人に呼んでください』と直談判しました。王さんは『よしわかった。君の気持ちはわかった』と言ってくれ、紹興酒一本をご馳走になりました。

 関西出身でもともとは阪神ファン。むしろ巨人憎しという思いだったんですが、やはり巨人は常に優勝する戦力を持っているのが魅力的に映ったのは確かです。槙原(寛己)くんとのトレードで話が進んでいたと思うんだけど、新聞にすっぱ抜かれてご破産になりました」

 87年と言えば、江川が現役を引退した年。江川の同級生である大洋の遠藤一彦がペナント終盤の巨人戦でアキレス腱断裂という大ケガをするなど、江川の引退発表が引き金になったのか、球界をざわつかせる出来事がいくつも起きた。

 屋鋪は江川を打った覚えはなくとも、速球派に対しての苦手意識はなかった。むしろ変化球投手への対応に苦労した。

「当時の巨人は江川さんのほかにも、西本聖さんをはじめ、定岡正二さん、角盈男さん、鹿取義隆さん、そうそう加藤初さんもいました。とにかく、強力投手陣でした。西本さんや定岡さんのような変化させるピッチャーにはてこずりましたね。所詮スイッチヒッターはつくりもんだから、うまくバットが捌けない。ただ、瞬発力があったので速いボールはそんなに怖くなかったですね」

 プロに入ってからつくり上げた左打ちは、手元で微妙に変化する球に対してバットがうまく順応できない。やはり生まれ持った右利きの感覚と同じにはなれなかった。屋鋪ほどの選手でさえそう思うのだから、プロに入ってスイッチに転向することがどれだけ難しいのかがわかる。

【クイックも牽制もしない】

 そして屋鋪と言えば、86年から3年連続盗塁王に輝いた足だ。

「ジャイアンツ戦はよく盗塁をさせてもらいました。ただ、西本さんは牽制がうまかった。それにセットポジションで制止するか、しないかの寸前でピュッと投げる。そのタイミングがわからなかった。クイックも使っていたし、牽制のターンも速かった。

 その点、江川さんは失礼だけど、ランナーを出してもバッターを抑えればいいというタイプの投手で、クイックはやらない。江川さんが投げている時の盗塁成功率は100%に近いんじゃないかな。ランナー無視ですから、余裕で走れるわけですよ。逆に、どれだけ自分の右腕に自信があったってことですよね。西本さんは別として、巨人の投手は全体的に盗塁しやすかったです」

 現役時代の江川は、ランナーが出てもクイックも牽制もしない。とにかく盗塁されても、点を取られなければいいだろというスタイルだった。江川曰く、「一塁ランナーがいると集中できないから、だったら走らせてしまえばいいと思っていました」と堂々公言している。だがランナーが二塁に進むと、途端にギアを上げて打者をキリキリ舞いさせ、威風堂々とベンチに戻る。

 そんな姿を見ていた後輩たちは、「江川さん、カッコいい」となり、みんなが真似をする。投手コーチは江川に「みんなの手前、頼むらかクイックをやってくれ」と言ったらしい。

 いずれにしても、相手球団からすればいくら二塁にランナーを進めても、そこからの攻略法がない。だからこそ首脳陣は「高めを振るな」としか言わなかった。いや、言えなかったのだ。

「江川さんの全盛期とロッテの佐々木朗希を比べて、スピードガンの数値が正確に出るとしても、どっちが速く感じるかってわからないと思います。打者によって感じ方は違いますから。

 あと、江川さんって指が短かったんじゃないですか。おそらく、まともなフォームで投げられないくらい短いはずです。手も小さいですし。もし江川さんの指が長くてフォークを投げられたら、もっとすごい投手になっていたんじゃないですか」

 まさか屋鋪の口から"たられば"話を聞けるとは思わなかった。とにかく、肩を痛める前の全盛期と、現役晩年とのギャップが大きすぎて、まったく打っているイメージのない屋鋪にとって、江川の球は我々の想像をはるかに超えていたことだけは確かだ。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している