なぜ安定した職を捨てたのか、その理由は思ったよりも単純だった(写真:尾形文繁)

チャレンジすることは大切なこと。言うは易く行うは難しで、人とは歳を追うごとに新しいことへのチャレンジは難しくなるものだ。それまでの人生経験から失敗のリスクを学んでいるし、気力や体力の衰えもあるだろう。

しかし、やはり何歳になっても新しいことにチャレンジし続ける人がいる。

今回、話を聞いたのは50歳を過ぎて役者となり、アイドルとなった中原さくら。

前職は看護師。30年以上看護師として働いてきた彼女は、なぜまったく違うフィールドへと降り立ったのか。その生き方、半生を聞いてみた。

「50歳を過ぎて始めた」俳優とアイドル活動

看護師が天職だって思っていた時期もあったんです。でもある時、宝塚歌劇団にハマって『自分でも表現したい』という気持ちがいっきに強くなったんです」

中原さくら(55歳)。現在、劇団ひまわり所属の俳優。そしてアイドルグループ「アラフォーアイドル輝けプロジェクト!(通称:フォティプロ)」のメンバーとして活動している。

50歳を超えて始めた俳優とアイドル活動。俳優業は演技やダンスのレッスンを受けながらドラマなどのオーディションを受ける日々。アイドルは基本ソロ活動をしながらフォティプロの活動をこなす。

とはいえ、全国に散らばるメンバーで成り立つフォティプロは、気軽には集まれずになかなか難しい側面もある。今はアルバイトをしながらオーディションとステージの日々を過ごす。

彼女が俳優を目指すきっかけとなったのは、宝塚歌劇団だった。男女世代問わず多くのファンに愛される日本屈指の歌劇団だ。

中原は40代の頃そんな宝塚を知り、演劇・舞台という世界に目覚めることになる。きっかけは宝塚ファンの両親だったという。

「両親が好きでこれまでも何度かすすめられていました。でも、あのメイクや男装とか特殊な感じが勝手に苦手だなと“食わず嫌い”でして。でもあるとき、だんらんしていた時に家族で見た宝塚のストーリーにひかれて、いっきにハマりました」

きっかけは家族というありがちなことかもしれないが、中原の熱はいっきに加速し、自らも「舞台に立ちたい」と思うようになる。


観劇に目覚め、推し活をしていたことが、その後に活きてきた(写真:尾形文繁)

いわゆる推しは、早霧せいなさん。舞台に足しげく通い、時には涙した。そんなファンとしての活動、いわゆる推し活を続けてきた。

いったいなぜこんなにすごいものに今まで気がつかなかったのだろうと、これまでのすすめを無視してきたことを悔やんですらいた。

実はこれには中原の家庭環境が大きく影響している。

「作曲家の父」と「音楽にあふれた家庭」で育つが…

「父が作曲家で母も作詞なんかをやっていて、とにかく音楽がずっとかかっている家で育ちました。だから、当時の昭和歌謡とかクラシックなんかも、いろんな音楽を自然と聞いてましたね。でも私は松田聖子ちゃんが好きだったんですが笑」

父は狩人のヒット曲『アメリカ橋』などを手掛けた作曲家の信楽順三。

当然、家には当時普通の家にはないような量のレコードにあふれ、テレビなども最新のものがあった。十分に裕福な家庭環境と思われるが、中原は幼心に安定したものを欲していた。

「やっぱり子どもでも、なんとなく収入に落差があるんだろうなってわかるんですよね。両親は厳しくて、私自身は『うちは貧しいんだ』って思い込んでいたくらいなので。だから『将来は安定した仕事に就きたい』と思って看護師を目指しました」

周りから見れば、明らかなお嬢様。実際のところ父は音楽・芸能に携わる身として当時の最先端のものをいち早く取り入れるためにお金を使い、子どもには回ってこなかったようだ。

しかし、本人はそうとは思わず、ある種、両親への反発もあり、習い事のピアノも早々にドロップアウトしたという。

そうして、高校卒業後に看護学校へ進学。資格を取得し看護師の道へ進むことになる。

「最初は総合病院に就職しました。なってみてわかったのですが、なぜか看護師って自己主張が強い人が多いんです。今でこそ男性看護師も多いですが、私の就職したときはほぼ女性社会で、いじめなんかもあったりしましたね」

当時は「女性の中でのヒエラルキー」が看護師の中に存在していたという。

そして気がつけば総合病院で12年。その後、健診センターも12年、巡回健診を6年と、30年にわたって看護師として働いてきた。

そうして2019年に運命の歯車は動き出す。

「縁があって、劇団ひまわりの若手俳優が出ている舞台を見に行ったんです。劇団ひまわりは子役のイメージが強くあったのですが、大人の俳優さんがメインで、演技も殺陣もすごくて感動しました。それで自分も表現したいなっていう熱がいっきに出てきて……」

偶然、子どもの頃に通っていたプールの近くに劇団ひまわりの稽古場があることを思い出し、すぐに検索しオーディションに応募する。

勢いもあっただろうし、子どもの頃の思い出とリンクしたこともあったろう。いずれにせよ、気がつけばオーディション会場にいた。

オーディション内容は伏せるがシニアクラスに合格。劇団ひまわりの養成所に通うことになった。

「まだ看護師として巡回の仕事をしていたので合間にレッスンに通っていました。でもそのうちに少しずつテレビのエキストラのオーディションに行き始めて、最初に決まったのが再現VTRのお仕事です」

エキストラのお仕事とはいえ、未経験者からすればまったくの未知の世界。そして偶然にも当日、制作側の要望で役が変わりセリフまでもらえテレビデビューすることとなる。


アイドルとしてはもちろん俳優としても活動の幅を広げている(写真:尾形文繁)

「運がよかったですね。ほんの一瞬ですが再現VTRでテレビに出て友人たちからも連絡が来たりして俳優のお仕事っていうものを少しだけ実感しました」

「挑戦することに年齢は関係ない」

30代で宝塚に出会い、40代で自らの意思で劇団ひまわりに入り、練習を積み重ねてきた。

30年間続けてきた看護師というキャリアから新たな道へ。

「挑戦することに年齢は関係ない」

年齢関係なく今、中原さくらはまさにチャレンジの真っ最中にある。

この先、彼女の先にはどんな風景が広がっているのか注目していきたい。

(松原 大輔 : 編集者・ライター)