話題作次々出演の俳優・岩谷健司、40代半ばまでは「バイト生活」 AD時代には国民的歌手を2時間待たせる大失敗「励ましてくれました」
WAHAHA本舗を経て、村松利史さん、岡部たかしさんとともに演劇ユニット・午後の男優室を結成した岩谷健司(いわや・けんじ)さん。
その後、CMディレクターで映画監督の山内ケンジさんの演劇ユニット・城山羊(しろやぎ)の会などに参加し多くの小劇場に出演。2019年の映画『岬の兄妹』(片山慎三監督)をはじめ、映画『ロストケア』(前田哲監督)、『共演NG』(テレビ東京系)、『Believe−君にかける橋−』(テレビ朝日系)などに出演。
映画『輝け星くず』(西尾孔志監督)が全国順次公開中の岩谷健司さんにインタビュー。
◆AD時代に大失敗
青森県で生まれ育った岩谷さんは、小さい頃から映画が好きで、ブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れていたという。
「ちょうどカンフー映画ブームだったから、小さい頃はアクション俳優になりたかったんですよ。だから千葉真一さんがやっていたJAC(ジャパンアクションクラブ)に絶対入ろうと思っていました」
――青森から東京に出てくるためには、何か理由がないと難しかったのでは?
「そうです。高校を出て地元の大学に行くという選択肢もあったんですけど、田舎にいたくなかったから赤坂にあった制作会社に就職することにして上京しました」
――就職してみていかがでした?
「あっという間にもう出社拒否ですね。一応会社には来るんですよ。で、タイムカードを押してそのまま逃げて神社で一日中寝ているんですよ(笑)。氷川神社のベンチでずっと寝ていて、帰りにまたタイムカードを押して帰るっていう感じで。
でも、フジテレビの朝5時20分からの三波春夫さんが司会の『早起きチャンネル520』っていう番組があって、その中でいろいろなコーナーがあったんですよ。お笑いタレントのナポレオンズとか、そういう人たちが商店街を回ったりするのに付いて行ったりしていました。要はADですよね。ゲストの歌手が歌う準備を整えたりとか…大変でした」
――ADさんだと雑用のすべてというか、とにかくやることが多いですよね。
「そう。時代も時代でしたからね、本当に。今と違って下手すると鉄拳が飛んできたりしていましたよ。『邪魔だ!』とか言われて(笑)。
大失敗もありました。番組で三波先生が新宿御苑の赤い橋のところで歌うことになって。それを3カメで撮らないといけないんですけど、車からおりてその橋に向かっていたらスタッフが『車の中にインカムを忘れたから取りに戻れ』って言うんですよ。
戻った時点で迷子ですよ。全然違う出口から出ちゃったから車がどこにあるのかわからない。グルグル回ってようやく車を見つけて、中にあったトランクを持って橋のところに行こうとするんだけど戻れない。
全然わからないから田舎の母親に電話したんですよ。御苑の中に公衆電話があったんです。それで青森の母親に電話して、『母ちゃん、御苑の中の“赤い橋”ってどこだろう?』って(笑)。青森にいる母親がわかるわけがないのに、それぐらい焦っていたということですよね」
――お母さま、ビックリですよね。
「ビックリしていました。『わかんない、わかんない』って(笑)。そりゃあそうですよね。それで三波先生を2時間くらい待たせちゃって、ようやく橋のところに着いてトランクを開けたら、インカムじゃなくてドライバーセットが入っていたんですよ。インカムは入ってなくて(笑)。
同じようなトランクだったから間違えちゃった。それで『じゃあいいよ、俺が取ってくるよ』って先輩が取りに行ったら、ものの2分で帰ってきましたよ(笑)」
――2時間以上待たされていた三波春夫さんは大丈夫でした?
「三波先生もグッタリしていましたけど、俺がすげえ怒られているのを見て、そのあと一緒に食事会をしたんですよね。そうしたら目の前の席に俺を呼んでくれって言って。三波先生の前でご飯を食べることになったんですけど、『頑張ってね』って励ましてくれました。
三波先生は自分の番組だから気にしてくれたんでしょうね。それでとりあえず頑張って少しはやっていました。でも、やっぱり何かイヤだなと思って。そもそも、そんなにやりたくなかった。言い方が悪いですけど、東京に出てくる理由、親を騙すためのきっかけみたいなものでしたからね」
※岩谷健司(いわや・けんじ)プロフィル
1970年2月25日生まれ。青森県五所川原市出身。1992年、WAHAHA本舗に入団し、1999年に退団。2002年、俳優・村松利史さんと岡部たかしさんとともに演劇ユニット・午後の男優室を結成。山内ケンジさんの脚本・演出による演劇ユニット・城山羊の会、岡部たかしさんとの演劇ユニット・切実などで活動。2009年の『若義母 むしゃぶり喰う』(竹洞哲也監督)をはじめ、多くのピンク映画に出演。映画『At the terrace テラスにて』(山内ケンジ監督)、映画『空母いぶき』(若松節朗監督)、連続テレビ小説『なつぞら』(NHK)、『科捜研の女』(テレビ朝日系)、『9ボーダー』(TBS系)、『地面師たち』(Netflix)など出演作品多数。2024年8月17日(土)〜23日(金)まで映画『輝け星くず』が大阪・第七藝術劇場で公開。2024年8月23日(金)には映画『ラストマイル』(塚原あゆ子監督)の公開も控えている。
◆WAHAHA本舗に入ることに
岩谷さんは制作会社を半年ほどでフェードアウトするようにして辞めたという。
「今ほど携帯電話があるわけじゃないから、追っかけられないっていうか。家にしか電話がないから出なきゃいいわけで(笑)。
でも、そのときに世話になっていた制作の人で、俺のことを『もう辞めるんだな、こいつは』と思っていた人がバイトを紹介してくれて。洋服屋さんのタカキューってあるじゃないですか。そこでバイトしていました。
楽しかったし、成績も良かったんですけど、ずっとやっていようとは思ってなかった。期限があって、そこからまたさらに続けるかどうかっていうときに『もういいかな』みたいな感じになって。それからは建設現場とか、船に乗ったりとか…いろいろやっていました。
東京アクアラインを作る船に乗って、東京湾の真ん中で作業員のご飯を作る食堂で働いていたんですけど、すごく忙しくて、一度味噌汁をバーッとやっちゃったんですね。使えないじゃないですか。そうしたら、今度は夜中に風向きを調べるという仕事に移されちゃって、1時間に1回風向きを調べてメモするだけなんですよ」
――いろんな仕事があるのですね。まだそのときにはお芝居をやろうという気は?
「まだなかったかな。お笑いライブを見に行ったりしていたので、そういうことをやっている友だちはだいぶ増えていて、なんとなくやってみたいかなっていう気持ちもちょっと出てきていた頃だと思いますけどね」
――実際にやりはじめることになったきっかけは何だったのですか。
「同じアパートに住んでいた友だちがお笑いライブに出ているときに、ある芝居に役者として誘われたんですよ。それで、人数が足りないから誰かいないかなみたいな感じで。『やってみる?チョイ役かもしれないけど』って言うから『やってみます』って言って参加したのがWAHAHA本舗がやっている若手公演だったんです」
――やってみていかがでした?
「初めてやったわりには、すっごいウケるんですよね。『あれ?イケるんじゃねえか?』みたいな(笑)。そうしたら、WAHAHA本舗の主宰者の喰始(たべ・はじめ)さんが、『次のワハハの公演があるんですけど、それも出てもらえませんか』みたいな話になって。
それで出たんですけど、ワハハに入る気はなかったんですよね。なぜならそのときワハハの女の子と付き合っちゃっていたから(笑)。自分の彼女が所属している劇団に入るのってイヤですよね。それで、何回もお断りしていたんですけどね」
――喰さんは、そのことを知らなかったのですか。
「知らなかったです。それはもちろん言う必要もないし、バレもしなかった。でも、ずっと誘われていたので、一応彼女にも言ってちょっとだけ入ることになったんですけど、やっぱり彼女と同じ劇団にいるとうまくいかなくなりますよね。
結局、ワハハには7、8年いたのかな。村松利史さんとか吹越満さんとか、個性の強い役者がいっぱいいて、いろんな人がいたからおもしろかったんですけど好きだった人がみんな辞めちゃったんですよね。
そもそもワハハも村松さんがいたから入ったっていう感じだったんですよね。その村松さんが辞めちゃったから、『自分でやります』みたいな感じになって。
前にワハハの若手公演の演出を喰さんじゃなくて、九十九一さんがやったことが1回あったんですね。それで九十九さんに相談したところ、『うちに来いよ』って言ってもらえて。その頃九十九さんを中心に結構人が集まっていたんです。その中に東京乾電池の若手だった岡部(たかし)もいて知り合ったという感じですね」
――ワハハのときは、アルバイトしなくても生活はできたそうですね。
「ギリギリでしたけどね。あといろいろなお手伝いとか雑用もあったし、営業とかも結構多かったので何とか生活できていましたけど、ワハハを辞めてからは肉体労働とかも15年ぐらいやったんじゃないかな。バイト生活は長かったですよ、つい最近までというか、45、6までやっていたんじゃないですか。岡部のほうが2つ年下なんだけど、多分同時期ぐらいまでやっていたんじゃないかな」
――岩谷さんもかなり映像作品へのご出演が多いイメージがありますが。
「芝居だけで食べていくのは難しいですよね。それ一本でいこう、なんていう気はなかったですしね。ちゃんと仕事を持って空いている時間にやるみたいなスタンスで。今はありがたいことに忙しいことが多くて、ちょっと自分の理想としていたのとは違ってきちゃったかもしれない。『あれっ?』と思う自分もいます」
岩谷さんは、WAHAHA本舗を辞めた後、村松利史さんと岡部たかしさんとともに演劇ユニット・午後の男優室を結成。基本的に3人で脚本を書いていたが、コント的なオムニバスの芝居をやることになったときに村松さんがCMディレクターの山内ケンジさんに書いてもらったことがきっかけで、2004年に城山羊の会がスタートしたという。
――いろいろな演劇ユニットを組んで活動されていますが、ご自身で望んだ方向に進んでいるという感じですか。
「そうですね。今、岡部(たかし)とやっている『切実』っていう演劇ユニットと、山内(ケンジ)さんの『城山羊の会』というのは、本当にやりたい形になっているなと思います。
城山羊の会というのは、山内ケンジさんが午後の男優室のためにちゃんとした脚本を1本書きたいと言ってくれたのを聞いた村松さんが、『俺たち3人だけでやってもお客が入らないし、山内さんのためにもならないから他にも役者を呼びましょう』と言って、亡くなった深浦加奈子さんとほかにも何人か役者を呼んで『葡萄と密会』をやって始まったんです」
岩谷さんは舞台をメインに活動しながらテレビや映画など映像作品にも出演することに。次回はピンク映画に出演することになったきっかけ、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の国内コンペティション長編部門で優秀作品賞と観客賞を受賞した映画『岬の兄妹』、ドラマ『共演NG』の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)