【1996年の夏から続く交流】

 2023年11月25日、松山市にある坊っちゃんスタジアムに、熊本工業(熊本)と松山商業(愛媛)のユニフォームを着た男たちがいた。1996年に夏の甲子園を沸かせたメンバーは、もう40代半ばになった。

 両チームの選手たちがグラウンドに散り、それぞれのポジションで構える。シートノックを打つのは松山商業の監督だった澤田勝彦だ。


1996年夏の甲子園決勝、10回裏に生まれた奇跡のバックホーム photo by Sankei Visual

 現在67歳の澤田がノックバットを握るのは2年ぶりのこと。2021年の夏に北条(愛媛)の監督を退いてから、その機会はなかった。

 テンポよくノックを打つ澤田。それを両手で捕り、送球する選手たち。ファンブルした選手を冷やかす声が飛ぶ。中年に差し掛かった元球児に昔のキレも安定感もないが、みんな、うれしそうに打球を追う。「外野ノックはできんぞ」と言っていた澤田だが、大きなフライを外野手に向かって打った。

 ノックを打ち終わったあと、腰に巻いたコルセットを外しながら、澤田は言う。

「みんな40代半ばになって、それなりの動きになっとるけど、打つにしても投げるにしても、やっぱりええもんを持っとるな。熊本工業の子らにノックを打つのは初めて。みんな、喜んでくれました」

 1996年の夏の甲子園決勝で対戦した、両校OBの交流試合が行なわれるのは3回目だ。澤田はその試合で松山商業のユニフォームを着て、ベンチで采配を振った。

「プレーボール前はどんな試合になるか心配やったけど、昔を思い出させてくれるプレーがたくさん飛び出しました。選手たちはチームの決めごととかサインをちゃんと覚えていてくれた。いまだに体に染みついとるんやろうね。年齢的に野球の試合をやるのはこれが最後になるかもしれんけど、今後も両チームの交流は続けてほしい」

 あの夏、死闘を展開した選手たちは四半世紀以上の時を経て、強い絆で結ばれている。対戦したのが松山商業と熊本工業でなければ、後世に語り継がれる名勝負にはならなかっただろう。

 どちらも、高校野球の歴史を紡いだ古豪であり、地元を代表する名門だった。彼らには受け継いできた伝統があり、鍛えられた技があり、絶対に負けられないという意地があった。

 松山商業野球部の第20代監督を務めた澤田は、昭和、平成、令和を生きた指導者だ。高校時代は名門校の松山商業で鍛えられ、大学では黄金時代の駒澤大学で揉まれた。コーチとして母校に戻ってからは"松山商業の野球"を後進に伝える使命を負った。

 厳しくなければ、野球ではない。

 ヘラヘラ笑いながら練習してうまくなれるか!

「苦しさの向こうに勝利がある」と信じられた時代に選手として猛練習に耐え、指導者になってからは自分が経験したことを選手に強いた。時に罵声を浴びせながら、時に鉄拳をふるいながら。

 厳しさでは熊本工業も負けてはいなかった。選手たちを罵倒しながら、倒れるまでノックを打ち込む"鬼"に徹した澤田に負けないほどの情熱を持った指導者がいたから、あれだけの名勝負が生まれたのだ。

【優勝と準優勝を分けたもの】

 1996年の夏の甲子園決勝で生まれた"奇跡のバックホーム"。3対3で迎えた10回裏、熊本工業の攻撃。1アウト満塁でライトに大きなフライが飛んだが、直前で代わったライト・矢野勝嗣が矢のようなバックホームで三塁ランナーの星子崇を刺し、サヨナラ負けを阻止。試合は11回表に松山商業が3点を入れ、6対3で勝利した。

 甲子園では現在でも、各試合の5回裏が終わったあとのクーリングタイム中に、名シーンのひとつとしてビジョンで流されている。

 澤田は言う。

「去年も矢野のバックホームのシーンがビジョンに流されて、慶應義塾のアルプススタンドから大歓声が上がったと聞きました。いまだにあのシーンを覚えてくれる人がいること、初めて見た人でも『すごい』と思えるプレーができたことはうれしいね」

"奇跡のバックホーム"で指揮官を喜ばせたのは、絶体絶命のピンチを控え選手が救った、ということだけではない。

「あのシーンを三塁側のスタンドから撮影した人がおる。それは、ライトの矢野、中継役のセカンドの吉見宏明、ファーストの今井康剛、捕球したキャッチャーの石丸裕次郎、そのバックアップに入ったピッチャーの渡部真一郎が一直線に並んでいるのがわかるものでした。サヨナラ負けのピンチの場面で、あんなフライを打たれたらピッチャーはがっくりしてマウンドで膝をついてもおかしくない。でも、渡部はすぐにバックアップに走っていった」

 大観衆のほとんどが「終わった!」と思った打球だったが、松山商業の選手たちは誰もあきらめていなかった。

「練習どおりに一直線。全員が本能で動けるまで練習を繰り返した証しやね。最後まで、みんなが松山商業の野球をやり抜いたことがうれしかった。あれができたから日本一になれたんだと思います。松山商業の伝統を物語っている」

【勝者と敗者に分かれたあとも人生は続く】

 もうひとつ、澤田には忘れられないシーンがある。

「10回裏のピンチの場面で内野手がマウンドに集まった時、サードの星加逸人がピッチャーの渡部の頬をつねった。全国の人たちが注目する場面で平気でああいうことができるのが星加のすごいところ。渡部との間に信頼関係があったんやろうね」

 9回裏、1点リードの場面で同点ホームランを打たれ、2年生の新田浩貴が崩れ落ちるのを見て、マウンドで抱え上げたのは星加とキャプテンの今井だった。

「最後の最後に、選手たちのつながりが見えた試合でした」

 この話には続きがある。

「熊本工業の選手たちとはその後も話す機会があるんやけど、あのバックホームで三塁ランナーの星子くんがアウトになるのを、ホームベース近くで見ていた四番打者の西本洋介くんはこう言っていました。

『僕はあの場面を悔やんでいるんです。なぜ星子を抱き上げてやれんかったんやろう。そこが優勝と準優勝の違いだったと思います』と」

 それを聞いた澤田は西本にこう言ったという。

「おまえはたいしたもんじゃのう。それに気づいて、本当にえらい」

 あの日、日本一を目指して戦った男たちは勝者と敗者とに分かれた。しかし、人生は続いていく。

 監督を退任し、現在は松山商業野球部OB会顧問として後方支援に徹する澤田は言う。

「高校野球の監督としての目標は、全国制覇です。でも、目的は野球を通じて"人間形成"をすること。いろいろな経験をした結果、『目標は全国制覇、目的は人間形成』という言葉が生まれました。目標と目的はまた違う。そこを間違えないようにと考えながら、指導をしてきました」

 一日にして、いや、わずか10分ほどでヒーローになった矢野は高校卒業後、地元の松山大学に進み、キャプテンとして全日本選手権出場を果たした。

「あの試合を境に、矢野の周りは大きく変わりました。秋に開催された国体でもファンの人に囲まれてね。それまで列の一番後ろをついて歩くようなやつだったのに、堂々と先頭を歩くようになりました。でも、人間的にはまったく変わらん」

 矢野は、傲慢なスーパースターにはならなかった。どれだけ騒がれても「素直で謙虚」な選手のままだった。28年が経った今、愛媛朝日テレビで勤務しながら、高校野球を支えている。