西大伍は鹿島の8年間で「突き抜けた自信」まで備えた「いかにサッカーを楽しめるか」を追求
ベテランプレーヤーの矜持
〜彼らが「現役」にこだわるワケ
第6回:西大伍(いわてグルージャ盛岡)/前編
今季でプロ19年目となる西大伍
寸分たりとも自分の才能を疑わずに生きてきた。心に留めてきたのは、いかにサッカーを楽しめるか、だけ。
「どんな時も、自分のサッカーだけは裏切りたくない」
その真っすぐさが時に誤解されてしまうこともあるが、気にしない。自分の人生――どんな時も、一番サッカーを楽しめると思う方法を追求する。人にどう思われても構わない。自分を信じて、生きたいように生きる。気がつけばプロキャリアは19年目。
「歩いてきた道を、自分の力で正解にする」
その揺るぎない、信念のもとに――。
◆ ◆ ◆
「サッカー人生でピークと言っても過言ではないくらい、サッカーが楽しくて仕方がなかった」
いわてグルージャ盛岡での2シーズン目を迎えている西大伍がそう振り返るのは、北海道コンサドーレ札幌でプロキャリアをスタートするより前の話だ。
クラブからは「トップチームには昇格できない」と伝えられていたなかで戦った、高校3年生時の高円宮杯全日本ユース(U−18)選手権。札幌U−18の主軸のひとりとして、西はチームをクラブ史上初の決勝進出に導く。結果的に東京ヴェルディユースに逆転負けを喫して準優勝に終わったものの、そこでの活躍がトップチームのスタッフの目に留まり、プロへの道が拓けた。
「昇格できないとわかった時点で、気持ちを切り替えて大学からプロを目指そうと思っていたので、高円宮杯を(昇格のための)最後のアピールチャンスとは考えていなかったです。ただ、あの時の僕はサッカー人生で一番うまかった(笑)。そして、今になって振り返ってもあの時が一番、心からサッカーが大好きでした。毎日、起きている間はサッカーのことばかり考えていて、ボールを蹴りたくて寝るのも惜しい、みたいな。
当時はトップ下でプレーすることが多かったので、家に帰っても毎日、ずっとビデオでカカやロナウジーニョのプレーを観ていました。スパイクもカカと同じのを履いて、練習ではビデオで観たプレーを何回も真似して......ってやっていたら、本当にプレーが似てくるんですよ。
できることもどんどん増えて、プレーのイメージも次から次へと湧いてくる。試合をしても最初から最後までず〜っと楽しくて、終わった瞬間から『ああ、もう終わりなんだ、早く次の試合がこないかな』って思っていました。高円宮杯はその最高潮がきた感じでした」
だからこそ、札幌でのプロ1年目、2006年は苦しんだ。初めて「人に評価されること」を意識する環境に身を置くなかで、高校時代に感じていたような"サッカーが楽しい"という気持ちも、どんどんプレーがうまくなっていくような感覚も、失われていった。
「プロになった時は、『40歳くらいまでプレーできたらいいな』ってことと、(年俸)1億円もらえる選手になることが目標でした。でも1年目は、1試合も公式戦に絡めなくて。評価されなきゃ試合に出られないんだって意識し始めた途端に、どんどん自分のプレーもできなくなって、サッカーを楽しめなくなった。いや、逆か? サッカーを楽しめなくなったから、自分らしいプレーを出せなくなったのかもしれない」
転機が訪れたのは、プロ2年目にクラブから持ちかけられたブラジル留学だ。チームメイトの岩沼俊介(SHIBUYA CITY FC)と渡った地球の裏側で、本来の自分を思い出した。
「ブラジルでは、誰も僕のことなんて見ていないですから。好きなようにプレーしても、誰にも怒られない。当時はFWでしたが、ボールが全然僕のところにこないからって、センターサークルらへんに座り込んで抗議したり......。まだ日本人選手が海外で評価されているような時代じゃなかったから、『ジャパ!』って呼ばれて、『ジャパじゃねえ。名前で呼べよ』って食ってかかったり。
プロ1年目はなんとなく大人しくしていたけど、もともとの僕はそういう性格だったよな、ってことを思い出しながらサッカーを楽しんでいました。そんなふうにのびのびプレーしていたら、高校時代のような『うぁ、サッカーが楽しい!』っていう気持ちが蘇ってきた感覚もありました」
結果的に、札幌にケガ人が続出した状況を受けてクラブに呼び戻され、ブラジル留学は3週間で幕を閉じたが、帰国後、最初に出場した愛媛FC戦でプロ初ゴールを挙げる。それを機にコンスタントに試合に絡めるようになると、翌年昇格したJ1リーグでも27試合に出場し3得点をマークした。
「たった3週間でプレーが変わるとは思えないからこそ、ブラジルで"サッカーが楽しい"って気持ちを思い出せたことがプラスに働いたんだと思います。あとは、運? クロスボールがそのまま吸い込まれてゴールになったんですけど、そういった偶然によっても自信は持てるものだと考えても、僕にとってはすごく意味のあるゴールでした」
その後もコンスタントに試合に絡み続けていた西が、右サイドバックでプレーすることが増えたのは、再びJ2に降格した札幌での4年目となる2009年だ。それまではサイドハーフなど、攻撃的なポジションで起用されることが多かったが、石崎信弘監督によって新たなポジションを開拓したことは2010年、J1のアルビレックス新潟への期限付き移籍にもつながった。
「コンスタントにサイドバックでプレーしたのは2010年が初めてでしたけど、正直、サイドバックはやりたくなかったです(笑)。ずっと前目のポジションでプレーしてきたし、自分では真ん中でボールを持てる才能があると思っていたから。
なので、2011年に移籍した鹿島アントラーズでも、5年目くらいから前目のポジションをさせてほしいって言っていました。でも、無理でした(笑)。新潟も鹿島も、すごくいい選手ばかりでサッカーをするのは楽しかったし、当時は試合に出ることが一番だって思っていたので、それを理由に他のチームに移籍しようとは考えなかったけど」
2011年から過ごした鹿島での8シーズンは、勝つことに貪欲な"本気"の集団に身を置くなかで、移籍初年度から右サイドバックとしてレギュラーに定着。J1リーグやカップ戦をはじめ、2018年のAFCチャンピオンズリーグ優勝など、主軸として数々のタイトル獲得に貢献して見せる。だが、本当の意味で鹿島の一員として自信を持ってプレーできるようになったのは、4シーズン目以降だという。
「昔からヘラヘラやって楽しいのと、本気で妥協なくやるから楽しいことの違いはわかっていたし、どのクラブにも後者を求めている選手はいました。ただ、鹿島はその度合いも、人数も多かったという意味では、上位にいるのが当たり前だと思える集団でした。そういうクラブの色とそもそもの自分のマインドが合致していたので、気後れすることはなかったです。
でも、周りのチームメイトや、サポーターを含めた鹿島を取り巻く人たちをはじめ、クラブそのものに認めてもらえたと思えるようになるまでには、少し時間を要しました。僕の肌感では2014年くらいから、徐々にそう思えるようになり、それが自信と完全にマッチしたのは2015年くらい。その頃から、チームとして勝つことは目指しながらも、僕のなかで観にきてくれた人たちを楽しませるためには、とか、試合でどう立ち振る舞うべきかが明確になった気がした」
その自信はプレーに直結していったのだろう。事実、2015年以降は「自分のプレーするステージがひとつ上がったような感覚もあった」と西。それは、2016年、2018年と2度、FIFAクラブワールドカップ(CWC)で対戦した強豪、レアル・マドリード(スペイン)を前にしても、揺らぐことはなかった。
「自分のレベルが上がり、チームの核として戦っていることへの自信を持てるようになったからでしょうね。『ミスの責任は俺が引き受けるから』みたいな感覚でプレーするうちに、どんどん面白いプレーができるようになって。練習していても怖いくらい、いろんなプレーが簡単にできるようになった。もしかしたらリラックスしてピッチに立てるようになったことで、もともと持っていた感覚を出せるようになったのかもしれない。
2016年のCWCの決勝でレアルと対戦した時も、レアルの右サイドバック、ダニエル・カルバハルの代わりに『俺が入ってもいけんじゃね?』って思うほど、突き抜けた自信も備えていました。今になって思えば、よくも悪くもすごい自信だったなって思いますけど(笑)」
そんな彼に、少し意地悪な質問をぶつけてみる。当時、それほどの自信を持ち合わせ、存在感を示していながらも、"日本代表"への評価につながらなかったことは、どう考えていたのか。
事実、西はそのキャリアにおいて、2010、2011、2014、2017、2019年に日本代表に選出されているが、鹿島在籍中での代表戦出場は2011年のキリンカップ、ペルー戦の1試合出場のみ。その時も3−4−3の右ウイングバックでスタメン起用されたものの、前半だけの出場で終わっている。ハビエル・アギーレ監督によって選出された2014年は出場できず、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督によってE-1選手権のメンバーに選出された2017年はケガのため、辞退を余儀なくされた。
「チームでもそうですけど、試合に出る、出ないは監督が決めることだから。その頃の自分は『サッカー、わかってないんだろうな』って思って解決していました(笑)。もちろん、自分のプレーが完璧だとは思っていなかったですよ。でも、サッカー感も育ってきて、僕には何ができて、何が強みで、どんなふうにチームに貢献できるのかは自分自身が一番わかっていた、と。
でも、それを必要とされないということは、もうサッカー感の違いとしか言えないというか。だからといって、代表に合わせてプレーしようとも思わなかったし......って時点で選ばれないですよね(笑)。
けど、その頃からかも? 自分の基準でサッカーを楽しむことをより追求するようになったのは。もちろん、これは好き勝手やるという意味ではなくて、その先にはチームの勝利や結果も描いてはいました。鹿島での時間を楽しく感じられていたのも、勝てたから、より高いステージで戦えたからだったと思う。でもそれは、"サッカー"という大きな括りでの楽しみのひとつで、すべてではないと考えるようになりました」
西大伍(にし・だいご)
1987年8月28日生まれ。北海道コンサドーレ札幌のアカデミーで育ち、2006年にトップチームへ昇格。2010年、アルビレックス新潟に期限付き移籍。翌2011年には鹿島アントラーズに完全移籍。「常勝軍団」の一員として、数々のタイトル獲得に貢献した。Jリーグベストイレブンにも2度(2017年、2018年)選ばれた。その後、ヴィッセル神戸、浦和レッズ、札幌を経て、2023年からJ3のいわてグルージャ盛岡でプレーしている。