試合終了のブザーが鳴ると、文田健一郎は雄叫びを上げるでもなく、大きくガッツポーズをするでもなく、ただ小さく拳を握りしめると、まるで「これこそが自分のあるべき姿」だと自らを納得させるかのように、何度も、何度もうなずいた。


グレコで日本勢40年ぶりの金メダルを獲得した文田健一郎 photo by Sano Miki

「五輪での忘れ物を取りに行く」

 そう言葉に残してパリへ発った文田は、8月5日のレスリング男子グレコローマンスタイル60kg級に出場すると、1回戦・準々決勝とともにテクニカルスペリオリティー(旧・テクニカルフォール)で圧勝。準決勝では2022年・2023年の世界王者ゾラマン・シャルシェンペコフ(キルギス)を文田の代名詞でもある豪快なそり投げで撃破すると、勢いそのままに決勝では曹利国(中国)を破り、ついに悲願の金メダルを手にした。

 グレコローマンスタイルでは、実に40年ぶりとなる日本人選手の金メダル。

 優勝候補の「大本命」と言われていた東京五輪の決勝で敗れてから3年間、あの時の絶望とも言える虚無感を忘れた時はなかった。五輪の悔しさは五輪でしか晴らせない──まさにそれを体現した文田の顔には、自信が満ちあふれていた。

 恩師でもある父・敏郎さんのもとで中学生になってから本格的にレスリングを始めた文田が、初めてオリンピックを意識したのは、彼が17歳の時だった。韮崎工業高校でレスリング部の監督を務める父に連れられ、父の愛弟子である米満達弘(ロンドン五輪/フリースタイル66kg級)の試合を応援しにロンドンへ行ったのがきっかけだった。

 初めて体感する五輪会場の空気と雰囲気に、17歳の青年は圧倒された。そして大会最終日に決勝で大技を繰り出し、目の前でオリンピックチャンピオンに輝いた米満の姿は、文田にとって大きな憧れと刺激になった。

 いつかは自分も──。

 そう決意し、これまで以上にレスリングに打ち込むようなった。

【得意だった投げ技を封印したことも】

 2016年のリオ五輪は代表選考から落選したが、2017年に国内最大のライバルでリオ五輪・銀メダリストの太田忍から日本代表権を奪取すると、パリで行なわれた世界選手権で初出場にして初優勝。世界選手権のグレコローマンスタイルで、日本人選手として34年ぶりとなる金メダルをもたらしたのだった。

 しかし、翌年の2018年には左ひざのじん帯損傷という大ケガにも見舞われた。世界王者になってこれからという時だっただけに、その事実が受け入れられず、「五輪は絶望」と自暴自棄になったりもした。

 そんな時、父の敏郎さんの言葉に救われた。

「1年後のケガじゃなくてラッキーだったな。まだ1年もあるよ」

 その言葉にハッとした文田は、まだ自分のストーリーは始まったばかりだったと気づかされた。それからは、彼の目指す場所がブレることはなかった。

 長いリハビリを経て大ケガを克服し、2019年に世界選手権で再び優勝すると、ついに念願の2020年東京五輪の出場権を獲得。しかし、初めての五輪の舞台は無観客で、憧れていた景色とはまったく違っていた。そして世界王者として挑む五輪は、誰もが彼を研究しているなかでの試合となり、最後は自分のパフォーマンスを出しきれずに決勝のマットで涙を飲んだ。

 でも、まだストーリーは終わっていない。この悔しさは、自分にしか糧にできない。

 ひたすら自分のレスリングと向き合い、得意だった投げ技を封印したこともあった。2023年の世界選手権の決勝で敗れるもパリ五輪の出場権を獲得した文田は、その敗戦により本当の自分のレスリングは何なのかが明確になった。そう、父からずっと教え込まれ、最大の武器だった投げ技なくして自分のレスリングは成立しないんだということを。

 迎えたパリ五輪。

 パリは文田にとって、初めて世界王者になった運命の場所。しかも今度は有観客で、父の敏郎さんも、そして愛妻と東京五輪の時にはまだ生まれていなかった愛娘も応援に駆けつけた。また、文田が五輪の道を目指すきっかけとなったロンドン五輪・金メダリストの米満も現地に帯同していた。

 パリは、文田にとってこれ以上ない舞台となった。

【文田のストーリーはまだ続くのか】

「オリンピックチャンピオン! ケンイチロウ フミター!」

 そうコールされると、文田は天を仰いで目をつむり、大きく息を吸い、弾けるような笑顔で表彰台に飛び乗った。


笑顔で金メダルを掲げる文田健一郎 photo by Sano Miki

「経験したことのないような、苦しい時期もあった。でも、それと同じくらい楽しいこともあって、トータルしてプラスが上回ったので、今回優勝できたのかなと思います」

 金メダルを掲げて顔をクシャクシャにして笑う文田の視線の先には、愛妻に抱かれて手を振る愛娘の姿があった。

 世界一強いお父さん──。自ら強く望んでいた称号も得て、果たして彼のストーリーはどのように続いていくのだろうか。