渡辺正和インタビュー(後編)

 2003年に現役を引退した渡辺正和氏は、福岡大大学院へと進み、スポーツ科学部講師(バイオメカニクス専攻)に就任。同時に野球部投手コーチも務め、のちに監督も務めた。現役引退後の「セカンドキャリア」として、なぜ大学教員を選んだのか。


現役引退後、大学教員として働く渡辺正和氏 photo by Sankei Visual

【まさかの戦力外通告】

── 2003年に46試合に登板していますが、このシーズン限りで現役を引退されました。

渡辺 03年は37歳で、防御率は2.66から4.95に下がっていますが、ほぼ一軍のベンチにいました。秋季キャンプのメンバーから外れてはいたのですが、それこそベテランの年齢なので「ゆっくり体を休めなさい」という意味合いだと理解していました。

── 球団から戦力外通告はどのように受けたのですか。

渡辺 球団事務所に呼び出されたのですが、「オフの過ごし方」の打ち合わせかなと思い、私服でうかがいました。しかし、球団職員の雰囲気が何か違ったのです。「シーズン中はお疲れ様でした。ただ......球団は渡辺さんと来年契約を結ぶ意思がありません。引退会見を開く準備があります」と。予想していなかった言葉に、頭が真っ白になりました。「球団の裏方への転身とか、トレード話とかないのですか」と聞いたのですが、「残念ながらありません」と。どちらにしても球団には残れないということで、トライアウトの参加資料をいただきました。

── トライアウトは2001年から始まっていましたね。

渡辺 03年は第3回目でした。広島市民球場と神宮球場で開催されたのですが、両方受けました。私と同じ年にドラフト1位でダイエー入りした大越基くんと2度とも対戦しました。奇しくも彼も山口・早鞆高校で教員の道に進みました。結局、現役継続、移籍には縁がなく、ユニフォームを脱ぐことになりました。

【福岡大でバイオメカニクスを教える】

── 現役引退後、すぐ教員を目指すことを考えたのですか?

渡辺 いえ、考えていませんでした。ただ、福岡の私立高校から「野球部指導者としてお願いできませんか」と打診されたのです。しかし04年当時、高校生以上を指導できる「学生野球資格」の規定は、「教諭歴2年」でした。つまり、元プロ野球選手の私は、2年間教壇に立つのが最低条件でした。プロ側、アマ側から計3日程度の研修受講により「学生野球資格」が回復されるようになったのは2013年からです。いずれにせよ私は今後のために、「まず教員資格を取得してスタートラインに立とう」と思いました。

── 出身の筑波大学は教員養成の学校でもあります。大学時代に教員免許の取得は?

渡辺 大学3年(1988年)の時、6月の日米大学野球の代表に選んでいただきました。大学4年時も日米大学野球のセレクションに選ばれたのです。そこでの活躍次第によっては、ソウルオリンピックの出場にもつながっていました。ただそのセレクションは、教員免許取得単位に必要な「教育実習」と日程が重なっていました。教育実習はまたどこかのタイミングで行けることがあっても、オリンピック五輪出場の可能性はこの時しかないと思ったので、教育実習はあきらめたのです。結局、オリンピックの日本代表には選ばれませんでしたが......。

── 福岡大大学院に進みました。

渡辺 教員免許取得のためには、不足していた教育実習や座学の単位が必要となります。プロ時代からすでに福岡に生活圏を構えていましたし、福岡大なら母校の佐賀西高にも教育実習も行けましたし。

── そして高校ではなく、大学野球部の指導者になったのですね。

渡辺 06年6月に「高校体育」の教員免許を取得したもののできたのですが、その時点で高校野球部指導の話はありませんでした。教員免許取得のために大学院研究室に所属する必要があったのですが、その研究室の先生の専門がバイオメカニクス(生体力学)だった縁で、それを学びました。簡単に言えば、生物の構造や運動を力学的に探求するものです。そして07年4月より助手となり、野球部コーチも務めることになりました。

── 「教壇というマウンド」はいかがですか。

渡辺 自分の投球のパフォーマンスと違って、言葉で伝えることは難しいですね。学生は反応があったり、なかったり......(苦笑)。

【のちに阪神1位指名の榎田大樹を指導】

── 福岡大学出身のプロ野球選手には、梅野隆太郎選手や白仁田寛和投手がいます。

渡辺 07年から野球部に関わり、15年4月から監督に就任。19年から野球部副部長と投手コーチを兼任しています。私が野球部に来た時、白仁田はもう4年生だったので、あまりいじりませんでした。直接指導したのはその1年下で、私と同じ左腕の榎田大樹です。卒業後、東京ガスを経て2010年にドラフト1位で阪神に入りました。

── 投手育成が専門だと思いますが、どのような指導をするのですか?

渡辺 選手ファーストでしょうか。大学生までその投球フォームでやってきたわけですから。専門のバイオメカニクス(生体工学)が役立てばいいですし、あとは考え方ですかね。自分のボールをしっかり投げ込めるように、「マウンドでは普段やっていることしか出ないよ」「意味のある四球ならいいが、ド真ん中に投げてもヒットになる確率は高くないよ。勝負していきなさい」とアドバイスしていました。

── 今後の展望は?

渡辺 大学の教員として成人を迎える学生に、どうやって関わっていけるかということは考えますね。野球においては、九州六大学リーグ戦優勝、その先にある日本選手権や明治神宮大会の全国制覇というところを目指していきたいです。


渡辺正和(わたなべ・まさかず)/1966年4月12日、佐賀県出身。佐賀西から筑波大へ進学。87年秋の神宮大会で優勝し、国公立大初の全国制覇を成し遂げる。大学卒業後、東京ガスに進み、92年の都市対抗に熊谷組の補強選手として出場。同年秋、ダイエーからドラフト4位で指名され入団。1年目に先発でプロ初勝利を挙げ、2年目は中継ぎで4勝するも、95年以降はケガに苦しんだ。しかし2000年、中継ぎとして60試合に登板するなど、「勝利の方程式」のひとりとして活躍。03年オフに戦力外通告を受け、現役を引退。引退後が福岡大の大学院に進み、教員免許を取得。その後、福岡大スポーツ科学部講師(バイオメカニクス専攻)に就任し、野球部の指導にも携わるようになる