小園健太〜Aim for the ace of the Baystars 第4回

 まもなく開幕する第106回全国高等学校野球選手権大会。高校球児にとって憧れの場所である甲子園。横浜DeNAベイスターズの小園健太にとっても思い出深い、かけがえのない場所である。

「マウンドに立ってみて感じたのは、すごく成長できる場所ということです。技術はもちろん、心がすごく成長するなって感覚がありました。甲子園でしか得られないモノがあるというか、いくら試合を重ねようが、甲子園で1試合投げるだけも、ものすごい経験値になるって言うんですかね。それぐらい独特の空気感があるんです」

 小園は数年前の高校時代を思い出し、感慨深い表情で、そう言った。超高校級の投手として全国に名を轟かせた市立和歌山高の小園であったが、甲子園出場は、3年生の春のセンバツのみである。一度きりの出場であったが、甲子園という目標があったからこそ、高校時代に心を燃やし、野球に打ち込むことができた。


3年春のセンバツ大会に出場した小園健太 photo by Ohtomo Yoshiyuki

【2年夏はコロナ禍により甲子園中止】

 小園は、中学時代に貝塚ヤングでバッテリーを組んでいた松川虎生(現・ロッテ)に誘われ市立和歌山に進学すると、1年春からベンチ入りをした。しかし2年生になった2020年、新型コロナウィルスの感染が拡大した影響で、夏の甲子園は中止になった。野球部では練習の自粛や対外試合禁止などで思うようなトレーニングができなかった。

「感染対策でみんな揃って練習ができないのできつかったですけど、その分、試合ができるようになるまで個人にフォーカスした練習を集中してやることができました」

 個による鍛錬の成果か、小園は球速152キロをマークし、大きな話題となった。そして秋、小園が最上級生となった新チームが動き出す。

「1学年上の先輩方の夏の甲子園がなくなったことで、目標を失うツラさを目の当たりにして思うことは多かったですね。翌年の春の甲子園があるかどうかわからないなか、秋の大会が始まったので不安はありましたが、このチームで頑張りたいなって強く思いました」

 さて、和歌山県の高校野球と言えば、強豪・智辯和歌山の存在を抜きには語れない。小園が市立和歌山に入学してから智辯和歌山には一度も勝ったことがなかった。だが、秋の新人戦で勝利を収めることができた。

「和歌山で甲子園に行くには智辯を倒さなければいけないのは当然のことでしたし、僕が入学したぐらいから智辯は打ち勝つ野球から守りを重視した野球へ変化していって、いいピッチャーが揃っていたので、僕が絶対に投げ負けないようにしないといけないという気持ちが強かったですね」

 その後、県大会の準決勝で対戦すると市立和歌山は智辯和歌山に5対4の逆転で競り勝ち、さらに3週間後の近畿大会の準々決勝で対戦し、4安打完封で勝利を収めている。

「新人戦の時は相手のエースが投げてなかったので、マグレだなって思って......だからこそおごることなく県大会に臨め、勝つことができたと思います。その後、近畿大会でまた対戦することがわかった時は正直絶望したんですけど、智辯のほうがあとがないといった感じで早打ちをしてくれたので、自分の持ち味を出すことができたんです」

 市立和歌山は智辯を破りベスト4に進出したことで、翌春のセンバツの切符をつかんだ。

「もうほんまに何ていうか、甲子園はずっと行きたい場所だったので、めちゃくちゃうれしかったですね。ただ新チームがスタートした時の目標は甲子園出場ではなく日本一だったので、出場が決まった瞬間は、さらに身が引き締まる思いでしたね」

【膝が震えるほど緊張した】

 憧れた甲子園の舞台。しかしまだコロナ禍の余波があり、甲子園での前日練習はできず、ぶっつけ本番でマウンドに上がった。

「バックネット裏のスタンドがすごく広くて、正直、膝が震えるほど緊張していました」

 1回戦の相手は県立岐阜商。緊張していた小園は先頭打者にフォアボールを与えてしまったが、バッテリーを組む松川のリードを信じ、心を落ちつかせ腕を振ると4安打完封。チームはサヨナラ勝ちを収め、劇的なスタートをきった。

 2回戦は明豊と対戦した。小園は5回からマウンドに上がったが、松川のタイムリーで同点に追いついた直後の7回に、小園は決勝タイムリーを打たれてしまう。

「自分の弱さが出た試合だったと思います。相手バッターは、タイムリーを打たれる1球前にインハイのボールを空振りしていたので、外が遠くに見えるだろうとスライダーを投げたら、食らいついてきました。執念の差、というのを感じた敗戦でした......」

 市立和歌山の甲子園は終了した。敗北を喫したが、小園は14イニングを投げ1失点。時に見せる圧巻のピッチングは大きな話題となり、ドラフトの目玉候補になった。

「甲子園は本当にすばらしい場所だと思ったし、夏は絶対にここでリベンジするんだと、チームメイトとともに誓いました」

【宿敵・智辯和歌山との決勝戦】

 夏の甲子園の切符をかけた和歌山大会で、市立和歌山は準々決勝と準決勝を5回コールド勝ちという爆発力で決勝へと駒を進めた。リベンジを誓った甲子園まであと1勝。相手は因縁の智辯和歌山だった。春季の和歌山大会で市立和歌山は智辯和歌山に敗れており、小園は「その悔しさを晴らしたい」と決戦へと向かっていった。

 一方で、一抹の不安があったという。それは、圧勝で終えたはずの準々決勝と準決勝が頭の片隅で引っ掛かっていたからだ。

「コールド勝ちということは、9回を戦っていないということでしたから」

 スタミナも含めた実戦への不安。案の定、それは的中し、小園は5回まで無失点だったが6回に智辯和歌山打線に捕まってしまう。

「あとから思えば完全に狙い球を絞ってきていましたし、それに気づけず変化球で攻めてしまい、後手後手に回ってしまったんです。もっと真っすぐで攻められたのではないかって......」

 小園は4失点し、最後の夏が終わった。当時、小園の目には光るものがあったが、あの時のことを振り返り語った。

「後悔はないです。自分たちとしてはやりきったなという思いが大きかったので」

 余談になるが、甲子園へ出場した智辯和歌山は、順調に勝ち上がり全国制覇を遂げた。その光景を小園はどんな気持ちで見つめていたのだろうか。

「めちゃくちゃ応援していましたね。自分たちに勝ったわけですから、智辯が甲子園で負けたらむちゃくちゃ悔しい。それに何回も対戦しているうちに仲よくなった選手も多かったですし、シンプルに友人として頑張ってほしかった。だから、優勝した時はうれしかったですよ」

 どこか眩しい思い出を振り返るように小園は言った。智辯和歌山が優勝した際、同校の中谷仁監督は、小園という世代ナンバーワンの投手に勝てたことが自信になったという旨を語っていたが、その言葉を聞いてどう思ったかと聞くと、小園はかぶりを振った。

「いや、僕からしたらたまたま2年の秋に3回勝っただけで、ほかの試合は智辯に全部負けているんですよ。だから、僕からしたら逆なんです。智辯に勝つために3年間頑張れたし、智辯という存在があったから、自分自身成長することができたんです。だから僕としては感謝しかないんですよ」

【松川虎生とのふたり旅】

 その後、小園はプロ志望届を提出し、ドラフトの日を待つ身となったが、学生時代最後の夏の日をどのようにして過ごしていたのか。

「もちろん、プロへ行く準備のために新チームに混ざって練習していたんですけど、あと松川と旅行に行ったんですよ」

 中学時代から6年間バッテリーを組んだ盟友とのふたり旅。飛行機で西へと向かった。

「僕の祖父母が住んでいる宮崎に行ったんです。4〜5泊して、ふたりでいろんなところに行きましたよ。シンプルに楽しかったですね」

 冒頭で小園は、甲子園を「心技体を成長させてくれる場所」と答えた。では、プロとなった今、甲子園も含めた高校時代に学んだことで、現在の教訓になっていることは何かあるのだろうか。

「やっぱり考えて練習することですね。高校時代から、何となしにやるのではなく、意図をもってトレーニングをするように指導されてきたので、それは今もすごく生きているなって感じています」

 さて、ペナントレースも後半戦に入り、試合数も少なくなってきた。コンディショニングの不良で実戦から離れている時期もあった小園だが、現在はマウンドに戻ってきている。

「バッターとの駆け引きの感覚を研ぎ澄ませることと、暑い時期なのでスタミナ面の強化など最大限の力を発揮できるような準備はしています」

 一軍の投手陣が苦しくなっていくこの時期、ある意味、小園のような若手にとってはチャンスのタイミングとも言える。今季2度目の先発のチャンスを掴むため、そして悲願の初勝利を目指し、小園の熱い日々はつづく----。


小園健太(こぞの・けんた)/2003年4月9日、大阪府生まれ。市和歌山高から2021年ドラフト1位で横浜DeNAベイスターズから指名を受け入団。背番号はかつて三浦大輔監督がつけていた「18」を託された。1年目は体力強化に励み、2年目は一軍デビューこそなかったが、ファームで17試合に登板。最速152キロのストレートにカーブ、スライダー、カットボール、チェンジアップなどの変化球も多彩で、高校時代から投球術を高く評価されている。