苦しい状況のなか戦い抜いたエース・橋本大輝(左)と個人総合を制した岡慎之助 photo by JMPA

【不安を抱えて臨んだエース・橋本】

 オリンピック初出場だった3年前の東京大会、当時19歳、大学2年生だった橋本大輝(セントラルスポーツ)は男子個人総合を制覇すると、内村航平を超える五輪個人総合3連覇への夢を口にしていた。しかし、パリ五輪でその夢は途絶えた。2日前の7月29日(現地時間)には団体で2大会ぶりの金メダルを手にして仲間と喜びを分かち合ったが、男子個人総合を6位で終えた31日、声を震わせ、胸中を語った。

「3年間、しんどかったなと思います。特に最後の5月からの2カ月間はケガをして自信を失いかけたが、ここに立って演技をすることができた。期待してくださった方たちに恩返しをできなかったが、五輪で金メダルを獲るためにここまで頑張ってきた自分を褒めてあげたい。みんなのために団体の金を獲れたことが幸せです」

 できれば自身のベストの構成であるDスコア(難度点合計)6.7点の構成に挑んで悔いを残さないようにしたかったが、6.1点に落として演じた最後の鉄棒が終わったあと、泣き出しそうになったことを、苦笑いしながら明かした。

「この神聖な場で泣きたくないと思っていたし、まだ岡慎之助(徳州会体操クラブ)や張博恒選手(中国)も残っているので泣くのは早いなと思ったけど、演技が終わったあとはすごく解放され、急に涙が出そうになってこらえるのが大変でした。着地をこらえるくらいに......」

 大きな期待を背負っていた2回目のオリンピック。橋本は競技初日(7月27日)の予選から本調子ではない様子が見てとれた。最初の跳馬はラインオーバーのミスだけだったが、本来よりDスコアを下げて臨んだ平行棒も着地を止められず。得意の鉄棒も少し荒さがある演技で、最後の着地は大きく崩れて両手をつく13.733点の低得点で終わり、種目別での2連覇も途絶えた。

「久しぶりの試合なので調整がうまくいかなかった。鉄棒が終わってからは両腕がきつくなってしまい、疲れで正常な判断ができなかった。いい演技がひとつもなかったので振り返ってもしょうがない。2日後の団体決勝へ向けて準備をするだけです」

 こう話す橋本の得点は85.064点。予選トップの張の88.597点に大きく引き離されただけでなく、86.865点を出した岡に次ぐ3位発進となった。

 その原因は、5月のNHK杯前々日の会場練習で負った右手中指のケガだった。

「4月まではめちゃくちゃ動けていて、戦える準備をしていました。でも5月からはケガで練習をいったんストップしてしまったので。『どうしたら技を(最後まで)通せるか』『どうやったら体力が戻るか』という不安を抱えながら、自問自答を毎日している状態でした」と言う。

 昨年は世界選手権連覇を果たし、早々とパリ五輪代表に内定していた橋本は、さらなる進化を目標にしていた。4月の全日本選手権予選ではトップに立ち、6種目のDスコアの合計は36.9点と超ハイレベル。それをさらに37点台まで伸ばすことも視野に入れていた。

 それは、中国の張の台頭があったからだ。2023年秋、橋本が世界選手権を86.132点で優勝した直後、張は中国開催のアジア大会で89.299点の高得点で優勝。3年前の東京五輪直後に行なわれた世界選手権で張が橋本を抑えて優勝して以来、拮抗した状況が続いてきた。張のアジア大会での得点は地元開催の利もあるだろうが、それを差し引いても差は歴然としており、橋本はパリ五輪で優勝するためには、88.5点台が必要になると考えていた。

 だが、そのもくろみは、5月に平行棒で痛めた右手中指のケガで、暗雲に包まれてしまった。

「ケガをしてから体力を戻していくなかで、6種目を通す練習が何回できるか。『これくらいできたらいいな』と考えていたものは、合宿を重ねていくごとに違っていて。みんなには順風満帆だと言われても、自分の中では『こんな練習ではまだまだパリで金なんか獲れない』と思ったりもした。そこが一番苦しかったと思います」

【「結果はいらない。思い切ってやっていいですか?」】


男子団体は中国とのせめぎ合いを制し、2大会ぶりの頂点に photo by JMPA

 個人総合予選のあと、29日の団体戦前のミーティングで、橋本はほかの選手に「苦しかった」という胸の内を明かした。「萱和磨さんが(東京五輪で銀メダルとなった)悔しい思いを持って戦っていることを聞いて、苦しかったり悔しかったりしているのは、自分だけではないと思ったので、すべてを話してスッキリしてから団体決勝を戦いたいと思った」という。

その団体戦は目標にしていた金メダル獲得は果たしたが、4種目出場の橋本は、本来の力を発揮することはできなかった。

 個人総合決勝を迎え、「6種目できるかどうかが一番不安だった」という橋本は、最初のゆかは丁寧な演技を貫いて全体3位となる14.333点の演技でガッツポーズも出た。だが次のあん馬では把手を両手で持つ倒立に入るところでバランスを崩して落下。12.966点の低得点に終わった。

「予選と団体を終えた疲労感はあったが、5月にケガをしてからは一番体の状態もよくて、ゆかをスタートした時は『アッ、すごい、今日は動けるんだ』と思いました。今日は本当に動きも良くて、久しぶりに心の底から自分の体をコントロールできている幸福感もありました」

 それでも優勝候補のひとりである張が最初のゆかでミスをして13.238点に止まっていたことを考えれば、まだ挽回のチャンスはあると思えた。だがそのあとのつり輪では演技要素が認められない取りこぼしがあり、Dスコアも想定を下回り全体14位の13.400点。優勝はさらに遠ざかった。

 次の跳馬では着地もほぼ決め、全体3位の14.733点を出すと笑顔も出た。さらにそのあとの平行棒の直前の練習後には、客席からの声援に向けて手を振り返す姿も見せた。

「つり輪が終わってから、斉藤良宏先生や中島啓トレーナーに『もう結果はいらないので思いきってやってきていいですか』と話し、『思いきりやってこい』という言葉をもらったからこそ、気持ちを切り替えて最後まで戦えたと思います」

 Dスコアを6.3点から6.1点に抑えた平行棒は着地で大きく前に一歩跳んだが、14.433点。そして今大会最後の演技となる鉄棒は、着地をしっかり決めて14.400点。合計を84.598点にし、つり輪が終わった段階では全体18位だった順位を6位まで上げた。

「目標にしていたものとは全然違うし、東京(五輪)が終わってから3年間は想定外のこともあった。思い描いていた立ち位置とはぜんぜん違うけど、まだまだ挑戦できる自分がいる。自分が4年後にどうなっているかわからないけど、また新しい自分を作り出せるようにしていきたいです」

【橋本を解放した20歳・岡の個人総合制覇】


20歳の岡が五輪王者となったことは、橋本にも好影響を与えるだろう photo by JMPA

 こう話す橋本は2連覇を果たせなかったが、2012年ロンドン五輪と2016年リオデジャネイロ五輪を連覇した内村航平と東京五輪の橋本に続き、個人総合で日本人4連覇の実績を引き継いだのは20歳の岡だった。中学生時代からその素質の高さを注目され、特別強化選手として全日本合宿にも招聘されていた選手。だが代表入りを期待された2022年の全日本選手権決勝では4種目目の跳馬で着地に失敗して右膝前十字靱帯断裂という大ケガを負った。

 それでも2023年6月のアジア選手権個人総合は86.065点で優勝と復活。今年4月の全日本選手権では2位になり、橋本が欠場した5月のNHK杯では優勝してパリ五輪代表になった。

「バネが強いとか、体が柔らかくてしなやかだとかいろいろなタイプの選手がいるが、彼はすべてを持っているというか、柔らかいのに強い、すごくきれいに見えるけど力強さに欠けることもない、理想的なバランスの演技ができる選手です」

 こう評価する水鳥寿思・男子代表監督は、あらためてこの1カ月の岡の成長ぶりに舌を巻いた。

「国内の試合ではよくミスも出ていたが、ここまでの1カ月間は練習でもほとんどミスがなく驚くほどだった。本当に覚醒してくれたというか、まさか1カ月でここまで仕上げたのは想像を超えたこと。今日の演技を見ても実施評価であるEスコアが僕らが想像するより出ていたので、彼の基本に忠実な演技の素晴らしさを評価してくれたのだと思う」。

 ライバルになる中国の張が予選と団体決勝ともに6種目すべてに出場していたのを見て、水鳥監督は優勝のためには(張が難易度をそこまで上げてこないと見越して)合計88.5点を狙う必要はないと考えた。そうなれば86点台前半を出している岡もチャンスはあるし、橋本も粘ったらいけると考えた。そんななか、自分の演技に淡々と集中してミスなく終えた岡が、得点を86.832点まで伸ばして優勝をつかむ結果になった。

 これまでの日本チームには内村や橋本という飛び抜けたエースがいたが、彼らは特別視されていた面もある。だが岡が五輪王者になったことで、同世代の「岡には負けない」と思っている選手たちに刺激を与える。それとともに、これまでひとりで日本男子体操を背負ってきた橋本にとっても、背中にのしかかっていた重すぎる荷物を下ろして、もう一度自分の戦いに集中できるようになることは大きい。

「大輝は、ひとりで走ってきたのがしんどかったと思う。すべてを自分で背負ってそのプライドを持ってやってきたけど、本来の彼はみんなと一緒になって盛り上げることをやっていきたいタイプです。だから、こうやって岡が出てきてくれたのがすごくありがたい。大輝は団体で勝ちたいという思いもあり、みんなが強くなってほしいという気持ちでやっている。だから彼もすごく前を向いて、新しい目標を持てるのではないかと思います」(水鳥監督)

 苦しい状況を戦い抜いたエース・橋本、初出場で個人総合五輪王座を掴み取った岡、団体でそれぞれの役割を徹しきった主将の萱、谷川航、杉野正尭ら、パリ五輪で最高の結果を残した日本体操男子。さらなる高みへ、もう動き始めている。