「江川神話」崩壊の真実を中尾孝義が振り返る「サイン盗みは一切ない。だからこそ価値がある」
連載 怪物・江川卓伝〜中尾孝義が語るマスク越しの記憶(後編)
前編>>江川卓のボールを受けた中尾孝義の衝撃
江川卓に捕手・中尾孝義について聞くと、こう称賛した。
「中尾の二塁への送球はビシッと速くて、ほんとすごかった。捕ってからのフォームはちょっと大きかったけど、送球の速さはプロのなかでもトップクラスというか、メジャーみたいな感じ。キャッチングもうまかったし、バッティングもよかった。ただ、オレからはあまり打ってないらしい」
ルーキーイヤーからレギュラーをつかみ、当時はまだ珍しかったツバのないヘルメットを被って守っていたため、「一休さん」の愛称で人気を得ていた中尾は、インサイドワーク、キャッチング、ブロックともに高いレベルを見せつけた。
82年は最多勝こそ逃したが19勝を挙げた江川卓 photo by Sankei Visual
とくにスローイングの速さには目を見張るものがあり、超一流の要素を兼ね備えた新時代のキャッチャーとして一躍注目を集めた。
バッティングも小柄ながらパンチ力があり、2年目には18本塁打、3年目にも16本塁打を放っている。ただ江川に対しては、通算88打数19安打(打率.216)3本塁打、9打点と苦手にしていた。しかし打率は低いが、印象的な場面でホームラン、ヒットを打っている。
1982年5月7日、ナゴヤ球場での試合では2対3と1点ビハインドの場面で同点ホームランを放ち、最終回は中尾の二塁打が口火となってサヨナラで中日が勝利した。
さらに同年9月28日のナゴヤ球場での一戦は、中日ファンにとって忘れられない試合となった。
一般的に1980年後半から82年前半までが江川の全盛期と言われ、自身は「20勝した81年の春頃が、一番調子がよかった」と語っている。81年は7月から11連勝しているが、それより前の4月、5月頃がプロ9年間でピークだったというのだ。
また、数字的な安定感を含めた総合力でいえば、82年シーズンの7月までという関係者もいる。いずれにしても、20勝した翌年の82年シーズンの江川は、夏頃に肩を痛めて前年のピーク時からやや調子は落としたものの、相変わらず他を寄せつけないピッチングを披露していた。
江川はナゴヤ球場と相性がよく、81年から82年9月28日までに4完封を記録していた。この試合でも9回まで6対2と巨人が4点のリード。江川の調子からして、ファンならずとも巨人の勝利は間違いないと思われた。中尾が振り返る。
「"江川キラー"って言われていた代打の豊田誠佑がレフト前ヒットで出塁。つづくケン・モッカ、谷沢健一さんが打って満塁。大島康徳さんの犠牲フライで1点。さらに宇野勝もレフト線に打って1点追加し、無死二、三塁の場面でオレに回ってきた。1ボール2ストライクだったと思うんだけど、アウトコースのストレートをライト線にライナーではじき返して同点にした。
そして延長10回裏に代打・木俣達彦さんのサードゴロを原辰徳がエラーして、江川は交代。代わった角盈男が、田尾安志さんの送りバントと敬遠と四球で1アウト満塁。そして大島さんがセンター前に運んでサヨナラ勝ち。今でもよく覚えています」
【サインがバレてんじゃないか】この9回裏の中日の攻撃は、40年以上だった今でも語られるほど有名なシーンだ。何しろ、あの江川が最終回に4点差を追いつかれたのだ。江川は最終回になると、これまで温存していた体力をフルに使って三振を狙うのが"江川流"のスタイル。
この試合、首位の巨人にとっては猛追してきた2位の中日をなんとしてでも引き離したく、この試合までリーグトップの18勝を挙げている江川を立てるなど、万全を期した。
それだけに巨人にとっては痛恨の敗戦となった。江川もこの試合のことはよく覚えていた。
「9回まで6対2ってことは、僕のなかでは勝ち。8回まで投げていれば『もう抑えられる』ってわかるんで、この試合は勝ったなという気持ちだった。それが9回、突然打たれ始めたんだよね。初めての不思議な出来事だった。それでキャッチャーの山倉(和博)がマウンドに来て『おかしくないか。急に芯に当たり出したな』と言うの。カーブを投げても全部芯でとらえられたからね。それで『サインがバレてんじゃないか』って話になって、サインを変えたんです。それくらい中日打線のバッティングが急に変わった」
この最終回の攻撃について、中尾ははっきりとした口調で答えた。
「サイン盗みは一切ない。ほかの球団はそういうのがあったというのは聞いたことがありますが、ウチはやらなかった。だからこそ、あの試合の価値が大いにあるんです」
江川にしても、最終回に4点差を追いつかれたこと自体、最初で最後。「記憶に残る一戦だから、僕のなかでは」と言うように、"江川神話"が崩れたターニングポイントとなった試合だった。
江川を打ち崩し、延長10回サヨナラ勝ちした中日にマジックが点灯。それでも巨人が最終戦の大洋(現・DeNA)に勝っていれば、どうなっていたかわからなかった。
【オールスターでの快投】その巨人最終戦は、江川が先発するも5回途中3失点でノックアウトされ、1対3で敗れた。それにより中日が大洋との残り3連戦で2勝すれば優勝というところで1勝1敗となり、迎えた130試合目に8対0で勝利し、8年ぶりのリーグ制覇を果たした。
江川はしみじみ言った。
「中日戦の最終回に追いつかれて逆転された試合と、最終戦の大洋との試合が同じ年だとは思わなかった。先発が決まっていた最終戦の前日、『肩が痛くて投げられません』って監督の藤田(元司)さんに直訴したんだけど、『いや、明日投げてくれ』と言われ、案の定、打たれた」
82年の中日の優勝のカギは、じつは江川が握っていたと言っても過言ではなかった。
また中尾にとって、江川にまつわることでもうひとつ忘れられない出来事がある。1984年のオールスターで江川とバッテリーを組んだことだ。
今からちょうど40年前、7月24日のオールスター第3戦で4回からセ・リーグの二番手で登板した江川は、パ・リーグの強打者相手に8連続奪三振を達成したのだ。
「あの試合は真っすぐがすごくよくて、低めより絶対高めのほうがいいと思って、ほとんど高めに構えました。もちろん、低めも糸を引いたようにズバッとくる。ふつう、低めの真っすぐは垂れるのでミットを下から上に上げながら捕球するんだけど、いい時の江川の低めの真っすぐは自然とミットがポンと上がるんです。とにかく速かった。オレがプロで見たなかで一番速かったなぁ、あの時が」
中尾はバッターとして対戦するよりも、キャッチャーとして江川の球を受けているほうが楽しかったと語る。
「あんなボールを受けることなんて、めったに経験できないですよ。江川でなければ......」
中尾の眼差しは、純真な野球少年のようにキラキラ輝いていた。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している