江川卓のボールを捕手として初めて受けた中尾孝義は「あれっ⁉︎ こんなに遅くなっている」と衝撃
連載 怪物・江川卓伝〜中尾孝義が語るマスク越しの記憶(前編)
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人は初めて受けた衝撃が大きければ大きいほど、価値基準の度合いがズレてくる。おぞましいほどの残像が頭のなかから離れず、それが判断ベースになってしまうからだ。
82年にセ・リーグの捕手として初めてMVPに輝いた中尾孝義 photo by Sankei Visual
1980年のドラフトで中日から1位指名されて入団した中尾孝義は、これまでの"捕手像"を一変させたプレーヤーだった。冷静沈着かつ頭脳的なインサイドワークに加え、鉄砲肩でランナーを刺し、強打かつ俊足という"走攻守"三拍子揃ったプレーで、82年にはセ・リーグ初となる捕手としてMVPを獲得した。
新時代を飾る捕手として活躍していた中尾が、江川卓のボールを初めて見た時の衝撃は「今でも忘れない」と語ってくれた。
「僕が在学していた滝川高校(兵庫)に作新学院(栃木)から赴任して来られた先生がいて、『作新が今度甲子園に出るから、合同練習をやってほしい』という申し出があった。それでセンバツ大会の前に滝川のグラウンドで作新と合同練習をしました。監督が『作新のすごいピッチャーが来るから』と言うので、僕らもその噂は聞いていたのでワクワクしていました。
最初に見た時の印象は『ケツがデカいなぁ』と。そしてキャッチボールを始めたんですけど、70メートルか80メートルあったのかな。それを30メートルくらいの感覚で投げるんですけど、ボールがまったく落ちてこないんです。僕らは80メートルを投げるとなると、けっこう強く投げないと届かないのに......びっくりしましたよ」
高校時代の江川は試合前に遠投することをルーティンとし、ウォーミングアップだけでなく、デモンストレーションの意味合いもあった。要するに、相手を威圧する目的もあったのだ。
スナップを利かせて軽く投げているだけなのに、80メートルの間まったく落ちてこないボールを見せつけられた相手チームは、口をあんぐりさせるしかなかった。そして「マウンドから投げたらどうなるのか......」との思いが、頭のなかを駆け巡る。
アマチュア時代の江川は、試合前から相手を圧倒し、戦わずして優位な状況をつくっていた。
「合同練習のなかでシートバッティングをやりました。最初は控えの大橋(延康)が投げて、その次に江川が投げた。1番から3番まで、誰もバットにかすりもしない。4番の僕がかろうじて2球ファウルにしたのですが、その次の球が頭に向かってきたので避けたらカーブ。ものすごいブレーキで曲がってきてストライク。こんなカーブ初めて見ました。地元の新聞だったか、『江川にカーブを投げさせた男』って書かれて、県内ではちょっと有名になりました(笑)。とにかく、球がどんどん大きくなるような感じで向かってくるんです。そんな経験、後にも先にもこの時だけです」
ある雑誌の企画でふたりが対談した際、「球が大きくなるなら(バットに)当たるじゃん」と江川が言うと、中尾が「だから当たった」と答えると、「そっか」と納得していた。
いずれにしても、高校時代の江川のボールにかすりもしないのはもはや普通のことで、当たったこと自体がすごいことだった。
象徴的なのが、何度も語られている1973年のセンバツ大会1回戦の北陽(現・関大北陽)戦だ。先頭打者への1球目から数えて23球目に初めてバットに当たってファウルになった瞬間、スタンドがどよめいたことは、江川のボールのすさまじさを如実に語っている。
【日本代表で初めて江川とバッテリー】中尾は高校野球引退後、秋頃から江川とともに慶應義塾大の受験合宿メンバーの7人に選ばれた。毎週金曜日に学校が終わったあと新幹線で東京へ行き、代々木八幡で2泊3日の勉強合宿を行ない、日曜日の夜に新幹線に乗って帰った。
「愛知の豊橋でも合宿を行ない、朝10時から夜10時までみっちり勉強。息つく暇がなかった。そのなかでソフトボールの試合をしたのがめちゃくちゃ楽しかった」
豊橋での勉強合宿中に、休憩がてら地元の高校の女子ソフトボール部と試合することになったのだ。江川も「ソフトボールチームと試合をするぞとなった時に、すごくうれしかった」と言うほど、強烈な記憶として残っている。プレッシャーのなかでの勉強漬けの毎日は、息苦しさしかなかったのだろう。束の間の休息を、江川たちは思う存分楽しんだ。
だが、合宿に参加した7人のうち慶應に合格したのはふたりのみで、江川は法政大、中尾は一浪の末に専修大へと進学する。東京六大学リーグと東都大学リーグに分かれたふたりは、オープン戦、もしくは大学選手権でしか対戦することはなかったが、大学時代に実現することはなかった。
それでも中尾が大学3年時、日米大学野球選手の日本代表に選出され、4年生の江川も当然のように選ばれ、ふたりは初めてバッテリーを組むことになる。中尾は第1戦から第7戦まで先発マスクを被り、第6戦以外フル出場した。江川は第1、3、7戦と先発。中尾は当時の心境を吐露した。
「うれしかったです。こんなすごいピッチャーの球を受けられるっていうのが、まず一番だった。でも実際に受けてみると、『あれっ?? こんなに遅くなっている』っていう印象でした。高校時のダイナミックさはちょっとなくなっていましたね」
高校時代に対戦した時とのギャップに戸惑いながらも、江川の球を受けられる喜びはやはり格別だった。
やがて中尾は4年となり、アマチュアナンバーワン捕手の触れ込みで、多くの球団から誘いがあったが、社会人野球のプリンスホテルへと進む。
「専修大学の校友会のOBの方からプリンスホテルの話が来ました。その方が、当時西武グループの総帥である堤義明さんとすごく仲がよく、『プリンスが来年から野球部を新しくつくるからどうだ?』って言われて、トントン拍子に決まった。プロ志望でしたが、体も小さく、自信がなかったので社会人に進みました。
プリンスに入る時も、中日が一番熱心に誘ってくれました。今だから言えますけど、大学4年時に中日関係者から『一度遊びに来い』と言われて名古屋に行くと、当時監督の中利夫さん、スカウト部長と会うことになって、『1位指名するから来ないか』って直で言われました。親も含めて周りはみんな『プロに行け』って言っていたんですが......」
強気のリードとは裏腹に性格的に慎重派の中尾は、プロでやっていく自信が持てなかったためプリンスホテルへと進み、2年後に中日からドラフト1位を受け、相思相愛で入団することになる。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している