徳川綱吉ゆかりの湯島聖堂(写真: Caito / PIXTA)

時代が変われば、歴史人物の評価も変わる――。「歴史上で悪役とされるか、英雄とされるかは、意外と紙一重だったりします」。そう語るのは、偉人研究家の真山知幸氏。嫌われ者だったりした人物たちが、再評価されることも、珍しくはないという。そのうちの1人が、「犬公方」という呼び名で知られる、第5代将軍の徳川綱吉だ。『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』を一部抜粋・再構成し、綱吉の素顔について、解説する。

「嫌われる歴史人物」にはパターンがある

歴史人物が嫌われてしまう理由には、いくつかパターンがある。

まずは「ワガママだから嫌われる」というパターンだ。武士として初めて太政大臣に任じられて、政治を意のままにした平清盛や、「安政の大獄」によって、自分に異議を唱える者をとことん弾圧した大老の井伊直弼、西郷隆盛を死に追いやった大久保利通などのように、「自分の思い通りにいかないと気が済まない」タイプが該当する。

また、源義経をウソで陥れたチクリ魔の梶原景時や、「関ケ原の戦い」でなかなか態度を決めなかった小早川秀秋のように「ずるいから嫌われている」歴史人物もいる。

さらにいえば、名門の武田家を滅ぼしてしまった武田勝頼や、敵前逃亡した将軍・徳川慶喜のように「失敗したから嫌われている人物」もいれば、横柄な態度で斬られた吉良上野介や、横暴なふるまいで新選組の仲間から暗殺された芹沢鴨のように「イメージ先行で嫌われている人物」もいる。

『実はすごかった!? 嫌われ偉人伝』では、そんな「嫌われた理由」で章分けしながら、「嫌われ者」ばかりをあえて集めた。なぜ、そんなことをするのか? 

それは、歴史上の「嫌われ者」が、実は誤解をされていたり、イメージで語られていたりすることが、ほとんどだからである。

そのなかの1人である、「生類憐みの令」というトンデモ法律で庶民を苦しめた、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉について、とりあげよう。

厳しすぎる「生類憐みの令」を発布した

徳川綱吉といえば、何といっても「生類憐みの令」を発布した将軍として知られている。綱吉が、この法令を出した理由は何だったのか。


©メイ ボランチ

それは、跡継ぎができないことに悩んだ綱吉の母・桂昌院が僧に相談。すると「子どもができないのは、動物を大切にしないからです。将軍様は戌年(いぬどし)なので、特に犬を大事にしてはどうですか?」と言われて、それを息子・綱吉が実践した……伝記マンガなどでは、そんなふうに描かれることもある。

もし、事実ならば、完全に僧のデタラメに乗せられたことになるが、「生類憐みの令」のヤバさは、その中身だ。

動物を傷つけた人は、わざとではなくても、島流しにされたり、切腹を命じられたりするという、メチャクチャなもの。人々は魚や鳥を食べることもできなくなり、釣りさえも禁止。動物を飼うこともダメだということに……。

動物のなかでも、特に犬を大事にしたため「犬公方」と呼ばれた綱吉。後世からもバカにされた「トンデモ将軍」として有名だ。

しかし、近年においては、また違った評価がされているようだ。

確かに「生類憐みの令」は社会の混乱を招いた。

そんなメチャクチャな法律を作った綱吉は、いかにもヤバい人物と思われそうだが、彼と面会したドイツ人医師のケンペルは、意外にも高く評価する記録を残している。

「綱吉は偉大なリーダーだ。祖先からの美徳をしっかり受け継いで、法律をきちんと守り、人々に対しては、とても優しく情にあふれた人物である」

動物を守るためなら人を死刑にもするような綱吉が「優しく情にあふれた」とは、一体どういうことなのか?

また、こんなこともあった。大老の堀田正俊が、江戸城の外を歩いていると、泣いているふたりの子どもの姿が目に入った。衣服がボロボロでお金がないらしい。

心を痛めた正俊は助けたかったが、こんなふうに考えて、素通りすることにした。

「大老という役職に就いている私の仕事ではない」

というのも、江戸幕府では「どの部局がどんな仕事をするのか」ということが、はっきりと決まっており、担当でもない仕事をするのは、かえって迷惑になると考えられていたからだ。

しかし、正俊が綱吉にそのことを話すと、綱吉はこう言った。

「貧しい者を救うことを<自分の仕事ではない>と考えたとすれば、心の迷いのあらわれだ。人間愛を発揮するのに、事の大小は関係ない。太陽と月は、どんなに小さなものでも照らしているではないか」

このエピソードを見る限り、確かに、綱吉は慈悲深い君主だ。人の命を軽視するような人物だとは思えない。

近年の研究によると、「綱吉に子どもができず、相談したお坊さんの言葉を信じて、生類憐みの令を出した」というのは、デマだとされている。

『三王外記』という、かなり内容が怪しい書物で書かれた綱吉の話が、後世で拡散してしまったようなのだ。

では、なぜ綱吉は「生類憐みの令」のようなトンデモな法律を出したのか。

綱吉の理想だった「儒学」の教えが背景

綱吉が「生類憐みの令」を出した背景にあったのは「儒学」の考え方だ。

儒学とは一言で言うと「思いやりの心で人間関係を大切にしよう」という学問で、綱吉は幼少期から、父で3代将軍の徳川家光から、儒学の考え方を叩きこまれていた。


©メイ ボランチ

家光亡きあとは、母である桂昌院が、綱吉の教育に熱心に取り組んだ。綱吉もそんな母を大切にし、儒学の教えを実践した。それは政策にも反映されることになる。

将軍になった綱吉は、初代将軍・徳川家康が上野忍ヶ岡に設けた孔子廟(儒学の祖・孔子をあがめる建物)を湯島の地に移し、「大成殿」と命名。それと同時に、徳川幕府において学問と教育を担当した、林家の学問所も同じ場所に移している。これが「日本で初めて学校教育が生まれた場所」ともされる、湯島聖堂の起源となった。

そうして儒学を盛り上げた綱吉は、自分で儒学の本まで出している。それどころか、江戸城で大名たちに向けて、実に240回以上も儒学の授業を行ったというから、驚きである。ちょっと参加するほうは大変だったかも……。

どうも、綱吉はやることがいつも極端だ。周囲からは「ちょっと、やりすぎだよ!」と嫌がられることも多かったに違いない。だけど「思いやりのあふれる社会を作ろう」という理想を実現しようと、一生懸命だったのだ。

社会的弱者も守るように命じた法律だった

実のところ、「生類憐みの令」も、「人への思いやり」を重んじた綱吉ならではの法令だった。「ありえないほど犬を大切にした」という印象ばかりが強いが、同時に、子どもや老人、馬を捨てることを禁じるなど「犬以外の命も大事にせよ」とも説かれている。

捨て子については、親が子どもを育てる経済力がない場合は、役人が親に代わって子どもの世話をすることも取り決めた。さらに妊婦と7歳以下の子どもは氏名の登録を義務づけることで、捨て子や子殺しを予防している。

また、綱吉は、貧しい人に食事や宿泊所を世話することを国の役目として定めたり、牢屋にいる囚人が健康を損なわないための仕組みを充実させたりもした。近代に通用するような「社会福祉制度の充実」を、綱吉はすでにこの時代に行っていた、と思うとおのずと見方も変わってくる。

そんなふうに法令の内容をじっくり見ていけば、「生類憐みの令」も、その言葉どおりに「生き物すべてに慈悲の心を持つように」と、綱吉は説きたかったのだろう。

「それにしたって、動物をケガさせたくらいで、島流しや死刑されるなんて……」

そう思う人もいるかもしれない。けれども、当時は今の私たちが暮らす社会とは、比べものにならないほど、残酷な世の中だった。

別に恨みがなくても「切り捨てごめん!」と、刀の切れ具合を試すためだけに、武士が人を斬ることが平気で行われていた。戦国時代の武力がすべてだった時代をまだ引きずっていたのである。

こうした価値観をガラリと変えて「命を大切にしよう!」とみんなに思ってもらうには、「生き物を大切にしよう!」と訴えなければならない。マジメな綱吉はそんなふうに考えたようだ。

ちょっと理想が高すぎて、周囲にはなかなか理解されなかったけれど、人を斬って当たり前の時代に、綱吉が「動物の命さえも奪ってはならない」と説いたのは、人々に慈悲の心を定着させようという強い思いからだった。

綱吉が法律の目的をもっと丁寧にみんなに説明していれば、「命を大切にした名リーダー」として名を残したかもしれない。

「嫌われ者」にはある共通点がある


綱吉のような嫌われ者たちには、ある共通点がある。それは「自分の信念に基づいて行動をした」ということ。これは、実は「嫌われ者」と正反対の、人気のある英雄たちにも言えることだ。

「無能で何もしなかった」と思われがちな人物さえも、よく調べれば、誰かのためを思い、行動を起こしていた。ただ、ちょっとやりすぎてしまったり、目的がうまく伝わらなかったりして、誤解されてしまっただけ。あとから評価されることも多い。

長い人生においては、どうもあまり好きではない人物と、時間をともにしなければならないときも、あるはず。そんなときには、ぜひ本書で「嫌われ偉人」たちに思いをはせてみてほしい。
ちょっと苦手だった人物の意外な一面を探る、きっかけの一つになるかもしれない。

(真山 知幸 : 著述家)